出羽町と篠原出羽守一孝 | 市民が見つける金沢再発見

出羽町と篠原出羽守一孝

【出羽町】

出羽町という町名は、藩政初期から元禄の頃まで出羽殿町。以後幕末まで出羽14番町と呼ばれていたようです。一番町(丁)は篠原出羽守一孝の屋敷地(NTT出羽町ビル)で、24番丁(町)は上・中級の武家の邸宅で数10戸の武家屋敷が建っていましたが、廃藩後、追々屋敷が朽ち田畠になったといいます。

 

 (篠原家跡)

 

明治4年(1871)には藩政期、奥村家の下屋敷(家中町)を出羽町5番丁に改め、明治19年(1886)には1・2・3番丁と4番丁の一部と隣の下鷹匠町や欠原町までの5万余坪を軍が買上げ高低差を平均し出羽町練兵場になり、やがて一部が軍の施設になります。民家はありませんが地図には地籍は残っています。

 

 (出羽町練兵場跡)

 

(軍事施設:師団長官舎(現県立美術館別館)第九師団兵器庫(現県立美術館・県立歴史博物館)偕行社(現能楽堂他)官祭招魂社(現石川護国神社)ほかに水道低区配水地(現石引駐車場)など、昭和10年代の地図より)

 

 

 (軍事施設跡)

 

昭和39年(196441日の住居表示の改正により、出羽町は、大通りの旧下石引町も含めて、大方が石引4丁目になり、昭和39年(1964)以前、藩政期本多家の上屋敷のあったところは下本多町と呼ばれ、崖下に広がる藩政期本多家の中屋敷や下屋敷のあったところと同じ本多町(上・中・下)で括られていましたが、昭和39年以降は本多家の上屋敷跡が出羽町に変ります。

 

 (幕末地図の本多家と篠原家)

 

藩政期も篠原家より本多家は格上で、敷地も旧本多家の方が広いのに、本多町ではなくて出羽町なのか疑問も残りますが、苦肉の策か?まずは出羽町の町名が消えず、明治4年から昭和39年と少し違う場所ですが出羽町の名が残りました。現在の出羽町は、出羽守所縁の篠原家の一部邸地跡にNTT出羽町ビルが建ち、隣には石川県立歴史博物館と石川県立美術館と別館の3館があり、民家はありません。

 

 

(篠原家跡)

(本多家跡・真ん中の入口までが本多家)

 

[篠原出羽守一孝]

永禄4年(1561)尾張国に生まれ、幼名虎、後勘六。前田利家公の妻まつの従兄弟篠原弥助長重の養嗣子で、後に利家公の弟佐脇藤八郎の息女を娶ります。16歳の時、越前府中で前田利家公の近侍となり、禄130石を賜り、次いで柳瀬及び末森の役に功がり、天正18年(1590)豊臣秀吉東征で利家公に従い出陣。

 

 

(篠原家の門・現在は彦三緑地の門)

 

天正19年(15916月従五位下肥前守に叙任、後に利長公の肥前守を称するに及び出羽守と改め、文禄4年(15951700石。慶長4年(1599年)、利家が大坂で死去した際には嫡男利長公に充てた遺言で「出羽の事、せがれより我等側に召仕、心持能く片口なる律義者にて、城など預け置候て能き者にて候。その上末森の時分、若年に候得共手前殊の外能く候間、我等姪聟に致し候。関東陣之刻も八王寺にて能く候。」と載せられています。「口が堅く律義者」なので重用するように指示しています。

 

利長公の時代には横山長知や奥村栄明と共に執政として国政を司り、大坂の陣にも参陣し大坂両陣の後15,650に上り、元和2年(1616722日夜に没し享年56歳。

(古い記述には多く篠原を笹原と記載されています。)

 

参考文献 :「金沢古蹟志」森田柿園著 金沢文化協会 昭和9年発行 など