今日は、自分のためにブログを書かせてください。
少し辛い記事だけど、私と、大好きなおじいちゃんの記録です。
7/24、大好きな祖父が亡くなりました。
1年4ヶ月の闘病生活で、最期は横になると骨が当たって痛いというほどに痩せてしまっていました。
食事が大好きだった祖父でしたが、胃瘻生活になり、水一口さえ飲み込むことが許されない闘病生活でした。
私がアクターズスクールのオーディションでグランプリを受賞した時、入学させるべきか家族は悩んでいましたが、祖父の「やらせてやれ。花菜がやりたいと言うのなら。」の一言で入学の許可が出ました。
あの時祖父の後押しが無ければ、シンガーかちゃの存在はなかったかもしれません。
16歳で上京する時、最寄り駅までしか送ってくれませんでした。
みんな広島駅まで来てくれるのに…と疑問に思っていたら、車に乗り込む祖父の目には大量の涙が流れていたのを今でも忘れません。
祖父の涙を見たのはあの一度きり。
上京してからは、祖母とふたりで年に一度、東京へ遊びに来てくれました。
毎年いろんなところへ一緒に行って、私はその一週間が楽しみで仕方なかったです。
私の家に来ては、狭い部屋の中少しでも私が快適に過ごせるよう、得意の日曜大工でいろんなものを作って工夫してくれたものです。
音楽劇「青い種子は太陽のなかにある」の観劇で訪れてくれた時を最後に、東京へは来れなくなってしまいました。
帰省する度痩せ細る姿、毎日行っていた畑仕事も行かなくなり、入院が決まり…
それからはあっという間だったような気がします。
7/26のワンマンを終えた翌日、おじいちゃんの元へ会いに行く予定でした。
おじいちゃんの傍で一週間ほどゆっくり過ごそうと計画していました。
だけど、ワンマンの二日前に母から亡くなったと連絡が入りました。
そんなわけがない、明々後日会う約束してるんだから!と私はパニック状態になりながら、新幹線に飛び乗った。
あと少しだったのに…
病室には、四葉のクローバー型の日めくりカードを母が作って置いていたようです。
そこには、
「あと3日で花菜が帰りますよ~!」
と書かれたまま、置かれてありました。
毎日あと○日、と、そのカードをめくるのを楽しみにしていたようです。
母は祖父の闘病生活の間毎日病院へ通ったり、祖母の送り迎えをしたり、本当によく尽くしていました。
葬儀でも母が一番しっかりしていて、本当は身も心もクタクタのはずなのに、きっと無理をして先導切っていろんなことを進めていて。
初めて見る意外な一面でした。
祖父は「東京の人」を気に入ってくれていて、CDが手元に来るのも楽しみにしていたようです。
「東京の人」のレコーディングは、おじいちゃんを思って歌いました。
耳元に聴こえるクリックの音が、一秒一秒おじいちゃんの命を食べていくようで、泣きながら歌った。
そのCDも、棺の中に。
葬儀で祖父に向けて最後の「東京の人」を届けました。
数日経った今も、会いたくて会いたくて仕方ない。
ワンマンライブの映像を観てもらいながら、お話がしたかった。
もう少し、安心させてあげたかったな。
最期の瞬間は、祖母、母、弟、おじさん夫婦、従兄弟みんなが見守っていたようです。
私だけ会えなかったのはすごく悲しいけど、みんなに看取られ、寂しい思いをすることなく最期を迎えれたのは良かったなと思いました。
葬儀が終わってから今日まで、役所での手続きがたくさんあったので、祖母と母のお手伝いで着いて行きました。
人が一人亡くなるってこんなに大変なんだと、すごく勉強になった。
亡くなって数日は、家の電気が突然消えたり、非通知から何度か電話が来たり、不思議なことがたくさん起きていました。
いたずらしてるのか?何かメッセージがあるのか?
私はそういうことは一切信じないたちだったけど、おじいちゃんのことは信じてます。
最後に。
私のおじいちゃんとおばあちゃんは、道徳心の塊のような人で、今まで出会ったどんな人より尊敬しています。
そんなふたりは今年で結婚50年記念だったみたいです。
50年同じ人と人生を共にするって本当に素敵なことだと思う。
写真を整理していたら、白黒の時からのふたりの写真が溢れるほどありました。
どの写真も幸せそうに寄り添い、手を繋ぎ、私もいつかこんな家族を築ける人と出会いたいと思いました。
おばあちゃんは、最後のお別れの時、棺の中のおじいちゃんのおでこにキスをしていました。
おじいちゃん以外考えられない、おじいちゃんが旦那様で幸せだったと。
どうかおばあちゃんを見守っていてね。
そして私は東京に戻り、また再スタートです。
26歳になって心も体も生まれ変わったような、心機一転"かちゃ"を、これからも宜しくお願いします!