最近あまりにもコンディションが悪く、なにもできないような状況で、
身体的にも頭痛やだるさや、対人緊張で顔が引きつったりなど、
さまざまな症状のため頭も回らず、なにも手につかなかったが、
現在は小康状態ではある。
カウンセリングはなにを話したかあまり覚えていないが、書いたものを見せたところ、
「あなた死ぬことについて考えるのが好きなの?」と言われたことは心に残ってはいる。
「好き」の意味がよくわからなかったが、
それは、楽しい、とか、快感、とか、やりがいがある、とかだろうか。
少なくともこれらには該当しないのだが、
死ぬことについて考えることが好きとは、どのような状況を意味しているのだろう。
いつでも死ねると考えると安心する、とかだろうか。
自分の場合は苦しいときは基本的に死についての反復思考も伴っていて、
別に、よし、死について考えよう、と意志するわけではないのだが。
この文章にしても、哲学にしても、好きでやっているかというとなんか違う。
哲学は楽しくも快感でもなく、むしろ苦痛だが、大事だからやっているのだし、
この文章は、書いて気分が悪くなることもあるが、書かずにはいられないから書いている。
文章に関しては好きにまだ近いかもしれない。
それより、心に残っているのは、
「好きで考えているのだから同情や配慮などの必要もない」という
可能性を含意するような嫌味な言い回しが冷酷に響いたからかもしれない。
実際、話はしているが共感のかけらも感じられない感じではあるし、
名前もまだ記憶していないのはこちらが悪いのかもしれないが、
向こうからも名前で呼ばれた記憶がない気もする。
しかしこういう場があること自体は助けにはなっているし、
タダでつないでもらっている手前、
そんなにカウンセラーを変更することもできないだろうから、
行かなくなる可能性も考慮に入れつつ、利用したいと思う。
(あんまり人と話している気もしないので、
もはや「利用する」つもりでいかないと意義を見出せない気もする。)
今日は、3年ほど前に買った、10年ぐらい前の自殺防止関係の集会で
名刺をもらった方の著書も少々読んでいた。
「親に感謝しよう」的な部分だった。
自分も感謝すべきことは客観的に見ていろいろあるのだが、
自己中で自己肯定感がないからか、あまりできないというのはある。
著者の方は、おなかを痛めて生んでくれて、
献身的に育ててくれた親にとても感謝しているようだが、
そもそも自分の場合、
生きていることを有り難く思うということがないというのはある。
生まれなければ一番よかったというのは、まあ実感としては結構ある。
じゃあ死ねと言われそうだが、正直そうしたいのだが、
できないことを謝らなくてはならない気持ちでいっぱいではある。
「親に対する子の責任」の部分にはこう書いてあった。
「遺産を継ぐことができるのは、親に対する責任を果たした子供に限ります。
親に反抗し、親を見捨て、親を喜ばし安心させることのできない子どもは、
遺産を継ぐべき資格はありません」。
なかなか厳しい話ではあるが、妥当でもある。
今日は不安障害の認知行動療法の本を必死に読んでいて、
「歪んだ認知」を意識したはずなのだが、結局また歪んできた気もする。
(ただ、こう書くということは歪んだ認知を少しは意識できているのかもしれない。)
非常に辛い話である。
で日記を終わろうと思ったが、一番書こうと思っていたことを書くのを忘れていた。
気分が悪いが、一応書くことにしたい。
スピリチュアル関係の本を読んでいるが、
その現象の「問い」と「答え」を分離するというのが趣旨のようだ。
その目的の一つとされるのに、万人が自らの実存的な人生の重大事への問いかけを、
宗教との直接的関わりを措いて語る可能性を確保するというのがあるようである。
それで思ったのは、問いを問いだけで純化するのは確かに意義がある気がするが、
そもそもある世界観や答えの方向性を前提しない問い方というものがあるのか、
というのと、答えのない、端的な問いに終始するとしたら、
それにはどの程度の、どのような意味での意義があるのか、ということである
(著者がそこまで言ったかどうかはさしあたって措いておく)。
確かに、限定された具体的で画一的な答えの提示は、
特定の価値観が一般化され押し付けられるという危険を伴い、
それは十分に警戒されるべきだとは思われる。
しかし逆に、一般化不可能な、万人に妥当することのないような答えは、
それはスピリチュアルな問いに対する答えとなる資格を持っているのか、
普遍性を持たない思想は、本来信仰に値しないのではないか、
という問いも、真偽はさておき、問われてしかるべきだとは思われる。
自分が最近考えていたことは、結局この問いなのであって、
普遍性の要求と独断的な押し付けの葛藤の問題だったのかもしれない。
この解決の方向性はいくつか考えられるだろう。
まず、現代哲学の流れとも一致する、というか、人々の生活感覚とも一致し、
哲学の視点から行くともはや自明で不可避的と思われる方向性だが、
絶対的な普遍性を持った「真理」を諦め、共通了解の形成に向かう方向である。
その逆に、なんらかの「真理」に回帰する方向性も一応あるかもしれない。
その他、具体的な言語表現可能な真理は諦めるが、
神秘主義的な形で人生を意味づける方向を探る方向性もあり、
諸宗教の根源を同定する多元主義的な発想もこれに近いかもしれないが、
どちらかというとこれは後者の真理派なのかもしれない。
また、普遍性を持たない共通了解の内に、
答えとして完全なものたりうるスピリチュアルな問いへの解を見出し、
その内に人が安らうことのできる可能性を模索するというのもある。
しかし、これが可能だという立場は、
そもそもの宗教的要求を他の俗な欲求に還元していないか、
というのは疑問の残るところでもある。
書いておきたかったのはこれぐらいなので、この後もう少し本読めれば読みたい。