昨日は講義は力を抜いて出て、発言もしなかった。
近ごろモチベーションがかなりそがれてきており、
このままだと学業がやばい感じである。
先日の日記に関して、外部から少し反応があった。
認知行動療法の専門家の方らしく、いわく「人生に意味がない」は
認知行動療法における反証の対象ではないとのことだった。
人生に意味があるかないかを考えて結論を出すことが
現状をマシにする最適かつ唯一の手段である、
などと考えるとしたらそれは反論の対象になり得るとのことなので、
確かにそうではあるが、
自分にとっては生きる意味は一番大事なものなので、
ある意味現実をマシにするよりも大事な死活問題で、
実際の生死というより、死ぬより大事というか
そのためになら死ねるようなものだ、という風に答えたが、
そうすると、
「自分にとっては生きる意味は一番大事なものなので、
ある意味現実をマシにするよりも大事な死活問題だ」という認知なら、
扱うにそこそこ手頃な認知かもしれない、という返事があった。
これは、その認知が正しくないか、もしくは少なくとも修正可能である
という可能性を持つことを含意し示唆してはいるが、
確かに、最近、もしかしたらなにか勘違いしているのではないかという気がしていた。
自分の生きる意味観みたいなのも変遷を経ていて、
苦心して受験勉強やスポーツの成果を上げることの意味を問うていた時期から、
苦しい人生を生き抜くことの意味を自殺と隣り合わせで問うている時期、
そして、生き抜くこと自体よりも意味ある生と死大事、という感じで
ある意味生の意味の自己目的化・絶対化に向かっていく時期まであるが、
そもそも、問い方が間違っていたりとか、
求めていることと期待される問いの答えの対応関係が取れていない可能性
もあるのではないか、と最近少し思っている。
こちらで勉強していても、学生には、
ある意味根源的な思索をして答えを与えている人の本について、
このようなイデオロギーに洗脳されてはいけない、とかいった、
批判的な意見を持っている人も多々いて、
確かに、うのみにするのは自戒すべきだとは思うのだが、
ただ、彼らが、そもそもその問いの答えに批判的であるどころか、
そういった問いを発せざるを得ない感性をそもそも持っていないのではないか、
という風にも感じられはして、個人的には少し残念な気もする。
とは言っても自分は知識も能力も彼らには非常に劣っており、
議論も難しいような気はしていて、つらいところなのだが。
ただ問題は、自分のその問い自体が幻想だったのではないかということである。
他の方から、「人は常に意味付けをして生きているのだから、
人生に意味がないという人は自分が行っている意味付けに気づいていないのでは」
という意見があったので、
それはそうだけど、自分のここで言う生きる意味は、
「自分の仕事は社会において意味がある」とか、
「朝ごはんはダイエットにおいて意味がある」とか、
「人生は人の一生という意味がある」とかいう意味での意味ではなくて、
もっと根本的に生と世界を意味づけるものなのだ、としたうえで、
そのような人生の意味も自分がつくるものだったとしたら、
それがある程度共有されようが、結局は勝手な思い込みだということになるだろう、
それで満足ならばいいのかもしれないが、自分は難しい、といったことを返した。
すると、確かに水準は違うかもしれないが、
結局主体の働きである以上、どちらにせよ主観的なものだったり、
間主観的であったり、共同構成的なものだろう、とのことだった。
実際、現代人は多くがこういった意見を持っているのではないかと思うのだが、
思うのは、人は本来ここに落ち着いて問題なく生きて死ねる存在なのだろうか、
ということである。そうなのだろうか。
この間も、「大きな物語なんて、別になくてもいいじゃん」とか、
「ニーチェが「価値がなければ生存が維持できないという洞察」とか言ったって、
結局生きてんじゃん」という感じの意見ももらったが、
ほんとうにそれでいいというか、そんなものなのだろうか。
人は主観が創り出した生の意味、共有された作り物、
つまり言ってみれば共同幻想に従って生きて死んでいき、
それを自覚した上でも、それに安らうことができるのだろうか。
上記の人は「答えのない問いを問い続けない健康さ」と言った。
確かにそういう面もあるだろう。
そんなことを問うている間にやるべきことが現実にはいくらでもある。
しかし、それでいいのだろうか。
確かに、逆にそんな固定的で画一的な意味があった方が困るというのも確かではある。
「みんなで作った意味の世界の中で、
それぞれが自分なりの意味を創造しながら生きる」
方が断然ましだ、というのも、一理ある気もする。
しかしそれでも、どこか、違和感がする。
どこか、スピリチュアルな問いが、抑圧ないしは忘却されている感じがするのだ。
そもそも、そんな問いなどが心理機制の産物とかであって、
例えばより低次の欲求の不満の昇華行為だったとしたら、
それに気づいてまっとうで直接的な解決法を模索するのが一番だろう。
どちらにしても神経症・精神病はなんとかしないと生きづらい話だが、
しかし、それを解決すればそんな問いはまったく問題ではなくなることになる。
そうすれば、今の道を進むモチベーションも解消されはするが、
(そもそも今からまっとうな道に戻ることを社会が許容するか
という日本企業の原理的な問題はいったん措いておけば、)
(また、病気がそもそも治るのかという問題も措いておけば、)
平凡かもしれないがもはや意味を問わない健康的な生活、
ある意味ハッピーライフが待っていることになるのかもしれない。
しかし、自分にはどうもそういう問題ではない気がするのだ。
少なくとも自分は、そういった一種自然主義的な思考や生き方に
安らうことはできないのではないかという気がする。
と同時に、やはりこういう問いを問う人に対して、
それへの超越的な答えの可能性を断定的に閉ざさない
という思慮・配慮も、可能なのではないだろうか。
とりあえず、今の道もドロップアウトしそうなほど
やばい状態(勉強などについていけていない状態)の気もするので、
モチベーションを維持するべきではあるが、
そのモチベーションとこの問いは直接結びついてはいる。
実際にはさっき日記を書き始めたときは、
不安障害の認知行動療法の本を買って読んでいるということと、
スピリチュアリティの問いの本について書こうと思ったのだが、
適当に書いていたら流れでそうならなかった。
とりあえずドロップアウトにならないように食らいつきたい。