自殺について検討など | 生きる苦しみと希望の記録

生きる苦しみと希望の記録

日々思ったことを書いています。生きる意味について書いたものが多いかも。

「死にたい」と考える回数は生きることに執着するほど積み上がる。
早く終わらせればもう死にたいと思うことからも解放されることだろうに。

おそらく今日もまた100以上は積み上げたと思うが、
別に数えてもいないし、10000回数えようが特になにかあるわけでもない。

以前医者に「死にたいです」と言ったところ、
「ほんとうに死にたいならとっくに死んでますよ」という
心ない答えが返ってきたが、心ないことは措いておけば事実ではある。

昨日の夜から14時間ほど苦しみながら寝て、昼ごろ少し活動したが、
日記を書いてからまた4時間ほど寝て、それからまた勉強をしに行った。

しかし、頭は重く気分は悪く、
死にたい死にたいと繰り返しているだけで全然勉強にならない。

このようなコンディションの揺れ具合が続いたら
継続的に働くことなどは不可能だとも思われるが、
薄い回復の望みにかけるぐらいしかないとは言えるだろう。

経済的負担の観点からすると、
ここまで来るまでに何千万かかったかはわからないが、
その数パーセントも生産できてもいなければ、
今後できる見込みも薄いというか、意欲も低いために、

経済的観点から行くと、早めに死ぬことが最善だとは言える。


しかし確かに、実際考えるに、自分は本来生きているべき人間なのだろうか。

おそらく経済的観点だけが問題ではなく、
自分のことだから金を稼いでいたらいたで死ぬ理由を見つけてくるだろうし、
問題は自分の悲観性にあるとも言えるかもしれない。

しかし客観的に見て、自分が死ぬべきではないとしたら
その理由はどこに求められるだろうか。

先日も飲み会で、身近で病死した学生の話の次に、
自殺した学生の話になったが(この近辺では結構実際に自殺する)、
病死した人よりもむしろ当たりが冷たい感じだった気がする。

生きていても死んでもたいしていいことはないとは思うので、
後自分が身を振る基準があるとしたら、本来どうするべきかということである。

確かに、人生なにがあるかわからないというのも確かなので、
健康状態・経済状況も含めて好転する可能性もあると言えるかもしれない。

しかし、もしそうならなかった場合には、
自らの苦しみを長引かせ、多大な経済的負担を家や国に強いることになる。

この状況で、もし選択の際になにか基準があるとしたら、なにか?

むしろ根拠のない前向きな「生きる力」に基づいた意欲といったものだろうか?

おそらくそうなのかもしれないが、
しかし、別にひとりで前向きに意欲していればいいわけではなく、
共同体で生きる以上それによって被害を受ける人は少なからず存在する。

また、そこにおける合意形成も非常にあいまいなものだし、
そのプロセスも、その力学も、正確に把握することは不可能である。

結局最終的には、自殺するかしないかも含めて「なるようになる」とは言えるだろうが、
自分の意思決定と行為にかかっている面があることも確かである。

どちらを選ぶにせよ多くの人は非難するに決まってはいるのは、
ネットのニュースのコメントなどを見ていると明らかではあるが、

自殺した場合その非難の直接の被害がないのに対して、
ある意味非難から逃げるのが卑怯だと言われれば一理ある。

しかし自殺しなかった場合非難の直接の被害は受けるが、
そうやって生きることが卑怯だと言われ続けるのも苦痛な話ではある。

袋小路だとは言えるが、
実際には特に思い切った行動をしない限り生き続けるとも言える。

難しいところである。