フランス語の発表の準備がある程度整ってきたので、
昭和初期のトップクラスのニーチェ紹介を読んでいたが、
だいたい永井均とかの本を読んで理解したことと符合していた。
しかし、昔はニーチェに毒されていた時期もあるものの、
正直今見ると、むちゃ言うなあ、って感じである。
この紹介本は、主にニーチェのニヒリズムを心理学と科学に結び付けている。
心理学からいくと、キリスト教を生み出したのはそうするとトクだからでしょ、
ということで、科学からいくと、そんなんありえないでしょ、ってことになる。
もうちょっと詳しく言うと、キリスト教を生み出したのはルサンチマンである。
というより、すべての宗教を生み出したのは、ルサンチマンらしい。
まず、この世にはさまざまな苦悩があって、人間は絶望して生の意欲を喪失する。
で、人生という重荷に耐え切れない者が、この世以外の理想の世界を仮構し、
同時にこの世の生を否定し、それを積極的に意志して、救済されることを図る。
でもそんなものはないから、これは無への意志であり、
生への倦怠という即自的な状態に対する、ニヒリズムの対自的な形態であり、
ニーチェに言わせれば、生への敵対であり、死への意志である。
そして、少々矛盾するようだが、それは道徳の領域にも及ぼされる。
つまり、このニヒリズムによって発生したのがキリスト教道徳だとされるのである。
この生の否定は、同時に実際に「この世」でのさばっている強者に対する怨恨感情、
すなわちルサンチマンを伴い、強者の道徳を奴隷道徳によって改変しようとする。
すなわち、美―醜の対立を、善―悪の対立関係に置き換えること、
gut―schlechtの対立関係を、gut―böseの対立関係にすり替えることである。
それによって、強いものは悪いものになり、弱いことが善いことになる。
病める者は幸いとなり、同苦・同情Mitleidenのモラルが形成される。
しかし、なぜそれがルサンチマンという、強者との敵対関係を伴ったものかというと、
ニーチェは、そこに、現実の力関係を逆転させようとする策略を読み取るからである。
ニーチェに言わせれば、それは恨みによって生まれた生への敵対であり、
苦しむ者の麻酔であり、生の保存とその価値の向上を目指すような本能を遮るものである。
だがしかし、ニーチェ自身はどこに立ってこれを語っているのだろうか?
この世は確かに、運が悪ければ苦しみに満ちたものにいくらでもなりうるが、
ニーチェはどのような地点においてこの言説を繰り広げているのだろうか?
ニーチェは語る。
「〔彼ら自身の肉体は〕彼らにとって一つの病的な物である。
それで、彼らはその皮から抜け出たがる。
そのために彼らは、死を説教するものに耳を傾け、
また彼ら自身、死を説教するのだ」。
ニーチェにとって、ルサンチマンを抱いているのは
どこまでも「彼ら」であり、三人称なのであって、
このような文脈では決して、「われわれはそう考えてしまいがちである」
といった表現にはならない。
つまり、自分のこととしてはまったく考えていないのである。
ニーチェは自分を健康な者だと自己認識しているようであるが、
しかし、そもそも人間は老いて病んで死んでいくものである。
老いるし、梅毒にもかかるし、発狂して精神病院で死んだりするのである。
本来、このような思想は、そのような自己認識があって初めて説得力を持つだろう。
自分は強者なのだという自己認識の地点からこのような思想を語られても、
「面倒な弱者にかかずらわないこと」の素朴な肯定と正当化という、
防衛機制・心理機制と見分けがつかないというか、
少なくとも実践的な方向性としてはそれと同一なのである。
そういう立場の人はそもそもエゴからしたらそういう思想への抵抗を持ち合わせない。
この思想がまだ説得力を持つとしたら、自分が弱者として虐げられて死んでいくときに、
つまり、病んで苦しみ死んでいくさなかで、語る場合ではあると思われる。
心理学の部分が少々長くなったが、次に科学について見ていきたい。
そもそもニーチェが科学をそこまで重視していたかはわからないが、
彼は永遠回帰思想を証明するために物理を勉強しようとして挫折したこともあるようだし、
著作の中でも科学という言葉は出てきて、それで自説を補強しようともしているようだ。
ただ、心理学の面では、フォイエルバッハのような、
無神論に立ちつつも共生の道徳を主張する人を不徹底だと批判するように、
科学においても、その動機づけに潜んでいる真理への意志も、
誠実性Wahrhaftigkeitというキリスト教道徳の残滓だとして批判する。
この誠実性の徳、正直Redlichkeitの徳が西洋を駆動したという説は、
キリスト教が自己批判し崩壊するというニーチェの予測においても機能しているが、
それを、自らの多少拠って立つところの科学的言説にも振り向けるのである。
といっても、なんとくか、自分から見たら、
ニーチェは彼自身が最後までこの誠実性の徳の倫理を守っているような気がする。
そうでなければ、別にキリスト教が自己欺瞞で来世の幻想に浸っていても、
それから創り出した道徳で強者を否定していても、
それ自体一種の力への意志の現れであるのだから、別にいいはずである。
それではいけない、というのは、おそらく、
ニーチェが自己欺瞞に生きたくないからであり、事実に生きたいからである。
その「事実」をニーチェはパースペクティブ主義によって相対化するのではあるが、
その拠って立つところはやはり、肉体というものを基礎に据えた人間観であり、
ニーチェにとって真に自由に生きるとは、肉体の根源性に忠実に生きることだったのだ。
ニーチェはそこからすべての価値を引き出し、生の「成長」という言葉の定義にも、
その権力への意志の思想に基づいた方向性に関する基準が見て取れる。
重荷を自ら背負う駱駝の生を打ち破り、「我欲す」という名の獅子として
「汝なすべし」という名の龍、すなわち宗教・道徳を打ち倒す経験を経由し、
最終的に幼児の素朴な生の肯定に至るとされるとき、その幼児の肯定が、
力への意志を体現する超人の肯定とどういう関係を持っているのかはわからないが、
ニーチェがその境地について「自己の上にいかなる神も、いかなる人間もない」
と語るとき、そこで彼は自分の下にはたくさんいると言いたげではある。
確かにニーチェは、「肉体」概念の本質を、力への意志と関係づけており、
それは明らかに「生に有用なるもの」、すなわち自己保存欲求や、快楽への欲求といった
エゴイスティックな欲望と直接関わっている。
最初に立ち戻ってみよう。
人間はそもそも、生老病死を免れえない存在であり、
自己の意志によって道を切り開くという発想が通用しない場面が、
少なくとも快楽や自己保存に関してはいくらでも存在する中を生きざるを得ず、
受苦の内に死んでいく者は、事実として数えきれないほど存在してきた。
ニーチェのような宗教批判はおそらく、それ自体は、
一神教が、むしろ宗教が生れたときからあったのではないだろうかと思われるので、
なぜこの時期に彼の思想が脚光を浴びたのかは、自分としてはよくわからない面もある。
それはニーチェの洞察に関する理解が足りないと言われればそうなのかもしれない。
確かに、ニーチェの思想は予言として的を射て、
現代思想は明らかに形而上学、超越を問題とする哲学を、
もはやないもののように扱っている面も強い。
プラトニズムが終焉したのかはよくわからない面もあるが、
構造主義もプラグマティズムも現象学も、
存在の始原への帰還の思想も、脱構築的な思想も、
もはや超越的問いに対し問題外と言わんばかりの扱いをしている。
自分自身も、実感としても、そういったものは信じていないし、
現代人のホンネとして、あの世だとか、この世を超えたものなんてないし、
道徳や倫理なんて共同幻想、共有された決め事だ、
という感覚は強いのではないだろうか。
ただしかし、そもそも宗教は、単にあの世でハッピーという思想ではないとも言える。
確かに救済や悟りを語るにせよ、それはこの世のノエシス的超越のみを語るわけでない。
ニーチェは、人間死ぬんだけども永遠に回帰するんだから今を肯定できればいい、
という形で、ある意味宗教的根源と同じ地平から現世肯定の極致を語った可能性もある。
しかし、この世界が、(ニーチェのような自己認識に開き直る人はさておき、)
非常に多くの苦悩と、世界を否定せざるを得ないような心を抱えて回っている以上、
そのことに対する対応の根源は、仮に世界を超越したものの形而上学の中でなくても、
発見されなければならないし、それは、生の否定性を肯定性に転換しようとする、
本来の、生の根源に肯定性を見出そうとする宗教的な要求である。
ニーチェのニヒリズムは、最深の形でのそれへの挑戦でありうるかもしれないが、
この宗教的根源の探究は、共苦する人間がここで生きる以上避けえないものであり、
生と世界の本来の意味を照らしだそうとする、人の実存をかけた問いである。