なんとか講義はこなしたが、当てられて課題の答えを言ったところ、間違っていた。
十分に検討できなかったことも理由として考えられるが、まあ仕方ない。
その後なにか勉強しようと思ったが集中できないので、セラピー関係っぽい本を読んだ。
『人生を物語る』(やまだようこ編著、ミネルヴァ書房、2000)の、
統合失調症患者に対する臨床民族誌的なアプローチの節を半分ぐらい読んだ。
医学的に切り取られた患者像ではカバーできない、
それだと取りこぼされるその人の物語をすくい出す話で
(自分的にはそんな風に読めた)、そうすると治療効果もあるみたいな話だった。
確かに、特に統合失調症のような、本人の病識が問題になってくる病気、
かつ、強烈な経験が伴うために本人がその経験をある程度固定された
ライフストーリーの形にまとめ上げることが困難な病の経験の語りは、
特にすくい上げることが困難なものになりそうな気はする。
歴史的には、往々にしてわれわれの経験の大部分は捨象され、
精神医学における単一の固定化されたリアリティにおいて解釈され、
その「病歴」以外の部分はかえりみられなかったと言えるかもしれないため、
それ以外の経験や、その病いに伴って紡がれ自覚される物語に焦点を当てる
近年の一連のアプローチは、歓迎できるものなのかもしれない。
ここでは事例として、カルテなどでは症状にしか焦点が当たらなかった人が、
診察とは別の場で、たまたま医師の目についたチェーホフの作品をきっかけに、
過去について活き活きと語りだしたことについて検討されていた。
後の母親の語りと合わせても、かつて才気にあふれ神童と言われ患者が、
思春期に哲学書を耽読し、受験期の激しい競争、不登校と独学を経て、
芸術に開眼し、展覧会でも入選、それを哲学的に理解しようという試み、
そして、デカルトの理論にのっとった、美学を記号や数式に還元して
理解し尽くす方法の「発見」の直後の発症と、その後の入院の繰り返し、
という、自分に引きつけて考えても、統合失調症の経過としては
ありがちに見えるが、従来の精神科臨床の診断・病歴記述的なものからは
漏れてしまうような語りが、確かにそこではすくわれていた。
かつての社会的承認は、本人や母親にとっても誇らしい過去だろうし、
その意味で、それをある意味自慢げに語るということが生起するのだろうが、
それはそれで社会の形成する物語を参照しながら語られているのではある。
著者は、このような語りの後に、幻聴の症状が軽快し、生活に余裕も生まれた、
と、この経験に治療的な意味、「治療の転機となる重要な要素」を見出している。
本当に語りがそれ自体として、精神医学の文脈から見て
「治療的な」意義をもちうるかは、よくわからないが、
今日講義に向かいながら、ある人の語りはある人に好ましい影響を与え得るのか、
標語的に言えば、「希望は共鳴するのか?」といったことを考えていた身としては、
他者との物語の共有によって肯定的変化が生れうるというテーゼの提起には、
それ自体、希望をもたされるものが含まれているとも思う。
その他、マイヤー=グロスの、急性精神病患者のその後のその経験に対する
構えに関する研究結果として挙げられた分類は興味深かった。
そこでは、絶望Verzweiflung、新生neuen Leben、排除Ausscheidung、
回心Bekehrung、融合Einschmelzungなどのカテゴリーによって、
精神病的体験を、本人がいかにライフストーリーの語りに組み込むかが分類されていた。
自分としては、自分はぴったりこれだと言えるものはなく、
これに近いがやっぱり結構違う、って感じだったが、
なんにせよ、病を、医学的に見た症状としてではなく、
本人の語りにおける意味を持った経験として捉える視点は、
少なくとも当事者視点から見たら親しみやすいものではある。
ただ、その直後で、そういったアプローチが症状や疾患の補強や固定化につながりうる
と言う点も指摘され、注意し、危険に対して自覚的に取り組むべきことが述べられていた。
個人的には、精神医学の物語に回収されない当事者の物語、という視点は、
精神医学的尺度からの治療的意義いかんに関わらず、重視したい気はする。
これは、ある意味、リオタール的な「大きな物語」の弊害への
アンチテーゼとパラレルにも読めるかもしれないが、
ただ、本当に、いかなる意味でも大きな物語が存在しないというのは、
思想的に見たら、やっぱりニヒリズムなのだろう。
それで生きていて問題ないならいいかもしれないが、
やっぱり根源的に反省したとき、結局全部思い込みの作り話なんだよ、
ってことを意味しかねないからである。
実際には、科学的事実は存在し続けるのかもしれない。
例えば条件が整えばリンゴが木から落ちるのは確実なことであり、
また例えば、
「経済的繁栄が至上価値だとある程度認められている社会では、
貧困層に位置する人の自殺率は向上する」という命題は、
その繁栄物語の真偽をいったん措いておいたとしても、
社会科学的調査で、ある程度蓋然的に真偽が確定できるかもしれない。
しかし、そもそも、例えば経済的繁栄は至上命題なのか、とか、
そうではなくて皆神の救いの物語に参与しているのだ、とか、
そういった物語が終焉に向かうという物語に生きているのだ、とか、
いやいや、人類はシンギュラリティに向かって進んでいて、
そこから世界はその意味付けから一変するのだ、とか、
まあなんかそういった参照枠が一切ないとした場合に、
人は根源的に、存在論的に、安心できるのか、
というと、怪しいものがあるような気はする。
でもそういうものを固定的な現実性として求め出すと、
ある意味現実的に見て危険な面をはらまずにはいないだろう。
しかし、人が倫理における原理を知らないまま行為しなくてはいけないのと同様、
人はなんらかの(わりかし)大きな物語に自分を位置づけ、
自らと自らの行為を意味づけずには、生きていくことができないというか、
それは、ある意味すでに人間的生の前提条件となっている感も強い。
ある意味でアポリアではあるが、ここに踏みとどまるべきなのか、
はたまたどちらかに跳躍して足場を固めたりすべきなのか。
というのはでも思想的な問題であって、精神医療的な問題とは少し遠い。
さしあたって、今は自分の精神的健康状態を確保したいところではあるが、
なかなか難しい状態のままやっていくしかなさそうではある。