こなさないこと。ヨガは生死そのもの。 | ヨガジャーニー&宇宙の法則が教えてくれること

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ヨガの哲学の実践から学んだこと、シンクロニシティ、日々の気づきを綴ります。自身はアシュタンギ。

 

“私はすでに知っている”は多くの学びを阻害する。

 

マインドフルネスや、「今ここ」の瞬間を生きるということは

 

過去の経験を投影せず、“まっさら”を楽しむこと。

 

 

 

ヨガ仲間が配信でたとえ話をしていた。

 

「ヨガのクラスで初めてのポーズを教えてもらったとき。

 

例えば戦士のポーズ2。初めは先生のポーズを見て、

 

注意点を聞いて集中して行うが

 

慣れてくると、あ。このポーズね!知っている。何回もやっている。

 

前足は90度。胸を開いて・・・」

 

など、知っている知識から“こなす”流れに入りそうになる。

 

しかし、そこに気づき

 

自分が今何に意識を向けるかを意図すれば、

 

“必ずしも前足を90度の角度にする”

 

は重要ではなくなる。

 

 

今日のあなたがそこにいるから。

 

座り仕事のしすぎで可動域がいつもより狭いかもしれない。

 

形は取れていても、バンダ(エネルギーロック)が抜けているかもしれない。

 

私たちが“意図”して“行為”すれば

 

それはその瞬間を生きていることになる。

 

ヨガはその「やり方」を教えてくれる。

 

アシュタンガヨガは毎日同じシークエンスを行う。

 

毎朝練習していても“飽きる”という感覚になることはない。

 

“飽きる”が起こっているとすれば

 

今自分の行為において

 

意図しなければならないことから外れてしまっている状態です。

 

(こなしている状態・集中が途切れている状態)

 

そうして雑念の手放しや、集中を繰り返す。

 

今この瞬間生きている体を、呼吸をコントロールし、同時に俯瞰する。

 

 

そしてそのすべての練習が終わったときに「レスト」(おやすみ)がある。

 

完全に体を休め、手放す。

 

アシュタンガではその時間はレストだが、

 

多くのヨガのクラスの終わりでは「シャバーサナ」(屍のポーズ)と呼ばれるもの。

 

 

そこで“終わり”なのだ。

 

すべきことをすれば、終わりなのだ。

 

完全な生死である。

 

完全な自然界のあるべき形を再度、人間に教えている。




カタチ、ではない。

 

 

私たちは1日の中で何度も過去の印象サンスカーラを繰り返す。

 

特に、心の練習をしなければ、望まない印象を多く繰り返す。

 

これを辞めたら、どうなるだろう。

 

 

1日の始まり。

 

朝目覚める。

 

身体が起こす。

 

初めてこの世に生を受けたように。

 

お水が飲んだり、食材を触り調理する。

 

家族と話す。誰かがそこにいる。

 

友人からラインが来ている。

 

今日私が出会う人や仕事、出来事が昨日の印象を持たず

 

真新く見えていたら世界はどんなふうに変わるだろう。

 

 

そのすべてが初めての奇跡のように思える。

 

まっさらな今日1日を生きて、すべきことを終えたら

 

また眠りにつき死を迎える。

 

ヨガの学びをマットその外に拡大させていけば

 

そんなことが起こってくる。

 

怒りや失敗を引きずることが少なくなり

 

この瞬間を生きようと思う。

 

 

そうすれば初めて、本当の“赦し”が生まれてくる。

 

赦すという行為は、この瞬間を生きるものにしか訪れない。

 

 

今朝起きた私は

 

昨日の自分の印象を、相手の印象を引きずっていた。

 

少し瞑想をして、新しい自分で今日を生きると誓う。

 

簡単ではないが、一日一日が変容のとんでもないチャンスなんだ。

 

今日の命に感謝します。

 

ありがとうございます。

 

 

※アシュタンガヨガのレストとシャバーサナは別物ですが

すべてを手放し、また一日が始まるという点でこのように記しました。