片付け術から学んで観る自分のデータ処理を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

片付けることで人生をより良く或いは好転させるヒントを与えてくれる物語について考えて観ました、色んなメソッドというのかやり方考え方は、お片づけにはあると想います、そんな中でも今回は、ときめくモノたちで自分の周りを埋め尽くす又配置換えをするという考え方に学び、自己の日常をどう捉え直すことが可能か考えて観ました、

失礼致します、ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

一般的にお片付けとは、物品の整理整頓、部屋の片付けについて語られるように想いますが、今回はその考え方を記憶というデータ処理に活用又応用できないかを考えて観ました、人それぞれですが人の記憶というモノは、コンピュータで例えば消さない限り残り続けるデジタルデータのように理解されるかも知れません、人でいうデータを消すという事は、完全に忘れて仕舞う思い出せない状態という事かも知れませんが、無意識という概念が、本人が例え忘れても残り続いている集積の膨大な記録を人は記憶という捉え方をするのかもしれません、人の歴史を振り返って観ると人の歴史とは、覚えていること、残された記録、という事が分かりますが、それは、覚えていることと残された記録が正確か正しいか合っているか事実か真実か、どうかとは関係ない物語性を帯びていて、単に覚えているモノは残り、書かれた記録編纂された記述は今現在まで引き続き残っているきたというだけの物語を想い観ました、人々の記憶から忘れられるモノたちは、この世界からその痕跡を消します、無意識だとかクラウド的な領域だとか人が忘れてもあったことはあっただろうし、知らないところや場所や領域には、人智を超えた膨大なデータサーバがあると考える人もいるかもしれません、例えば当時そこに生きた人たちは誰の記憶にも残らず記録にも描かれなくても、今誰かがどこかで生きている以上先人としてそこに居たんだろう存在したという想像することは可能です、ただ忘れて仕舞うという物語性はそんな想像すらされないモノたちの世界であり、言い方を換えると観測問題とも考えられるかもしれません、人それぞれですが人の物語は、こうして覚えているか忘れるか、それによりその存在感が示されるような側面があるとも考えて観ました、そう考えた場合、自分自身のことを出来るだけ覚えてもらおうとするのが人の仕組みでもあるかも知れません、記録に記憶に口伝に想い出にお墓を造り氏名を継承し家や血を意識し或いは又遺伝子もそうなのかも知れません、脈々と人はそうして完全に自分を忘れて終うことのないように覚えてもらうこと、つまりは残す物語性を編むのかも知れないと考えて観ました、では何を人は残すのか残したいのか、俗に言うあの世にはお金や資産は持っていけないなんていうように、持つモノそれはこれからも耐えずいっしょにいられる残せるモノたちが持って往けるモノでもあり、あの世という概念は人それぞれにある詳細を私は理解していないのですが、仮にも自分が死後に持って往けるモノ言い換えると残したいこれからもいっしょにいたいと想ふ記憶というモノは一体何なのかという視点で、日常的に自分自身が生きているこの現実現在捉えて観る物語を考えて観ました、自身が煩わされている様々な悩みや問題も、それは引き続きよろしく残った記憶や体験や捉え方観方と仮定した場合、捨てられない過去も昨日も記憶も体験も、その今現在の自分を苦しめる悩ます物語性があるのならば、何故自分自身はそうしてまでそれら苦々しい記憶や想いを今日まで残しその残した記録編纂した主観的自分自身の歴史を真実だと信じて今尚バイブルが如く必読し続けて疲れるのでしょうか、片付けのように勿論、単純なお話ではないかも知れませんが、考えとして選択として或いは今ある以外にも視点は様々にあるかもしれないと知るだけでも、人それぞれですが閉塞感や停滞観やもうどうにもならないと想エルような空間から脱するヒントを得られるかも知れません、闇雲に信じて頑なに従いみんな真面目に一生懸命に毎日毎日を自身なりに頑張って生きています、底に縛られて何かが観えなくなって雁字搦めの不自由を想ふとき、その時こそ自分自身は何か狭い限られたひとつの視点に縛られているかもしれないと自分自身で自分を閉じ込めた洞窟内で暗い暗いと悩み泣いているだけかもしれないと考えた場合、そこから連れ出してやれるのはやはり自分かもしれない物語、誰かが言ったこと誰かにされたことそれらをずっとずっとぜんぶこれからも持って往くのか、自分自身の歴史の編纂において改ざん自由な自演乙な物語性の中、片付け術の如くに要らない記憶役に立っていないデータはこれからもうサヨナラすることが出来たなら、忘れて終うことの大切さは、もうしつこく覚えて残さなくてもいいよという真面目な編纂者の自分自身への赦しに成る可能性について考えて観ました、人それぞれですが人は真面目で自身の過ちや罪を自身が最も許せない見過ごせないモノなのかも知れません、しれっと無いことに出来ないその純粋さがある種の絶対正義観のようになり、重ねて生きていく過程で重石を背負って苦しみ悩んだりするモノなのかも知れません、ただそれらが今日を慄然として生きる前向きな自身の役に立つ土台又必要な重心となれば別ですが、単なる痛みや苦しみや耐える一方の意味の見出せない苦行に成るのなら、改めて新たに片付けて観る視点について考えて観ました、明日に残したいワクワクする記憶体験想い考え方捉え方、この世界の観方があるとすれば、それは自身にとってどんなモノたちでしょうか、あまりにも今の自分には要らないもので満ち溢れているとしたら、トキメキの片付け術よろしく自身のデータの整理整頓清掃清潔習慣を試みて観るのもいいかもしれない物語

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました