現在というモノへの考え方を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

時間という概念又意識を持つ以上人はみんな4次元の中に住んでいるということになるかもしれません、縦軸と横軸と奥行きの軸を想像すると3次元の基本形がデザインとして頭の中に立ち上がって参ります、紙の上に描けばより形として視覚化されて立ち上がりますが、いわゆる箱型サイコロ型ピラミッド型に代表される立方体空間領域は3次元という理解が出来ると知ります、こうした単なる箱型に時間を加えて4次元つまりは、自宅を例えばにすると、朝の部屋お昼の部屋夜の部屋深夜の部屋といったように時間の概念意識に添って三次元の箱型空間領域が様々にたくさんあるという物語性を想い観ることは可能かも知れません、どんな捉え方を採用するか何が正しいのかというよりは、先ずは自分自身の世界にある物語の可能性について理解する上でこうした想像力の創意工夫で物事の把握の幅を広げて観ようというひとつの試みだと想います、基、僕たちの現実にはこうして視覚的に触覚的に立方体空間領域内に様々な色んな箱型が立ち上がっていて、それは何もない白紙の紙の上に飛び出す絵本をどう創るのか、という物語性にも似ているような気が致します、一個しかないように想える現実も、無数の箱の重なりからされているとしたら、という考え方が出て以来、僕たちの世界も又無数の可能性或いはパターンにより形成されているかもしれないという理解が産まれたように想います、今日の自分は昨日の続き、その意識はひとつの時間の川を流れる海を漂ようひとつの箱の物語です、しかしながら今日の自分は昨日の続きと言えば続きなんだろうけれども直線上の続きではなく昨日から分岐して観る複数の今日の内のひとつかもしれないと考えた場合、例えばそれをYで観るとして今日は昨日ひとつに重なり合ってた箱が別れている世界観が可能性として考えることが可能かも知れず、続きと同じは違うかもしれない自分自身の今日を想えるかも知れません、それはXで観る場合も同様で昨日から来た今日という箱の位置は様々な箱の可能性から分岐してただ今日というひとつの又新しい分岐点に位置しているのかも知れず、今日一日に重なり合った無数の自分の世界は又様々に重なりを解いていく物語性を想像することも可能かも知れません、つまりはこの想像の物語は、変われない現実をどう観るかというヒントにもなり得るかもしれない物語、変わらないように観るその世界にも今重なり合ってある観ない箱型空間領域が存在しシャッフルしてスマホのページを読み飛ばしたり戻って観たりするように重なっている現実のどこを観るのかどれを観るのか滞在時間をどれくらいにするのかは自分自身で選べるという物語、かつては大衆の娯楽、演劇や歌や芸能芸術的な世界もその箱にアクセスするには、自分自身の足を使い動かしてその箱がある位置場所まで自身を連れて行きましたが、現代においては足を運ばなくてもいい遠隔で箱にアクセスできる環境が、TVからネットそしてパソコンスマホと端末という箱を通じて簡単にあるように想います、その世界は単に便利という理解だけでなく世界に重なり合う無数の箱を自分自身の世界観に立ち上げる位置の場所の箱の三次元のシャッフル性について観ることが可能だと想います、それは又別の表現が可能ならば、現実は無数に重なり合っていてひとつだけじゃないという物語性に僕たちは当たり前のように接している現在とも言えるかも知れません、人の数だけ世界観がある理解が出来るように、自分自身にも3次元の箱と時間を加えて観る景色観るページ観る現実がありその数だけ無数の箱が重なり会う世界に自分自身の今日を生きている物語性を想います、何かを強引に変えなくちゃいけない決まりはそもそもないかも知れません、ただ振動と波のこの世界観では動かないモノは何もなく変わらないモノは何もない箱の中に僕は住んでいるように想い観たり致します、望むと望まずとに関わらずに自分の今日一日はちょっとの違い気付かない違いかもしれませんがそれは新しい物語の始まりの中に常にいることを想います、全てが新しいとしたら世界をどう観ることが可能なのでしょうか、新しさに気づかない自分自身は何を求めていて何を昨日からずっと延々と今日に残して来て観るのでしょうか、いいことがあるかないかだけで観る物語性に、ひょっとして疲れていたりしないでしょうか、僅かな違いを微細な変化を観る物語性に楽しみを見出せたなら面白さを観れたなら、何が起きても不思議ではい世界に対しての観方も又別の意識をシャッフルすることが出来るのかも知れません

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました