名付け親になることを考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

人それぞれですが人は、違いというモノ存在が怖いのかも知れないと考えて観ました、自分自身とは違うという事、異なっているという事、不可解であり未知があり、違うからこそ解らない分かり得ないというそれに存在に側面に見えないという闇を観て、その見ることが出来ないというモノ或いは物語性に不安や恐怖心、疑心暗鬼を抱くのかも知れません、故に人それぞれですが人は、見えないモノを見ようとしますし、見えるモノたちの違いを知ろうともしますし、解らない分かり得ないという側面に立ちながらも、そこにある溝や境界をギャップについて、解らないなりにも何とか分かろうと知ろうとするモノなのかもしれません、言わばこれは、見えないモノを見えるようにする、本来なら名前すらなかったあらゆるこの世界のモノたちに、名前を与えて名前を付けて、形のない何かに名前という形を付けて見ることで、全くの未知が未知でなくなり、そうなれば割と安心できる不安や恐怖を少なく又無くすようにしようとするというある種人の世界観で縛る創意工夫或いは見えないモノたち名前のないモノたち闇との付き合い方だったのかも知れません、真っ暗も名前が無ければ底無しに怖いかもしれませんが、真っ暗という名前とそれに付随する意味を知り理解して人は真っ暗というモノの形輪郭を知り、嗚呼これが真っ暗なんだな曰く少しは安心できたりする物語性があるのかも知れません

付けられた名前、付けられる名前

子どもが生まれると先ず何をするのかというと、名前を付けると想います、何故でしょうか、例外に名前がない人もいるかも知れません、ただ、名前があるのが当たり前過ぎて、そこになぜなんだろなんて考えたこともないかも知れず、名前のない人間の存在を意識することはないのかもしれませんが、実際のところ名前がない人間が身近に存在していて自身の生活圏で住んでいると想像した場合、少し不安になったり怖くなったりはしないでしょうか、代表して挙げられるとすれば、お化けや妖怪の類いや宇宙人や地底人の類いや、そうした非現実的に想えるモノは全て不可解で未知で名前がない解らないモノたちでしょう、そのモノたちには不安や恐怖の代表者として抽象的な役割を与えられて来ましたが、お化けという名前すらなかった時には、それは人にとっての意味不明の底無しの恐怖や不安や闇に想えたかも知れません、これらは例えばですが、人にとって重要で大切なひとつがもしもあるとするならば、この名前という物語性にあるのではないかと今回は、考えて観ました

失礼致しました

ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

結論から今回申し上げますと、名前の重要性は、意味の重要性であり、意味の重要性は、言葉や文字を含めた有識するこの世界に対しての知識や実体験とも書き換えられるかも知れません、ただそれらの様々な表記を改めて名前の重要性名前の大切さだと考え直して観る場合、自己の日常生活における様々な不安や恐怖、いろいろな問題や課題について、自己を悩ませるモノたち存在がもしかある場合には、この名前について考え直して観る物語、輪郭がはっきりとして色鮮やかであればあるほど、それは光が当たって反射して視覚で拾っているということですから、人それぞれですが人の悩みはその輪郭のあやふやさ形の不明瞭さ未知さ分からなさから来るものと仮定した場合、如何にして自分なりにそれら対象について明確な名前を付けて上げるかというポイントが考えられます

不安も孤独も苦しみさえも、そんな抽象化された名前だけで把握するのではなく、自身なりの感性で更に掘り下げて名前をいろいろ付けて観る物語

ネットでSNSで真っ暗なスマホ端末の中に人は何を観て何を求めているのでしょうか、取りまとめ反応がすべてと言っても過言ではない物語性がその中その世界には内在し、反応という存在が人の心を癒し励ましたり繋がりという形をした何かに魅せる側面を考えた場合、何を描いても何を弾いても何を歌っても踊っても話しかけても、もしも一切合切何の反応も示さない視覚化もされない真っ暗なスマホを見て、人それぞれですが人は、それに愛着を感じ常時手放せなくなるような相棒や友だちいった関係性を築く状態を想像出来るのでしょうか、分かった分かっている知っている、理解しているその形は絶対的にこうだ、おそらくこうした輪郭の捉え方に問題がある場合にその人それぞれですが、不安も恐怖も悩みも苦しみも付随して生まれてくるモノなら、今現在捉えて観る自分自身の名付け方について新たに或いは改めて考え直して観る物語、返事がすぐ来ないから寂しい腹たたしい、というのは、ちょい長い名前でもあると考えて観る場合、返信が来ないということはこうかもしれないし、ああかもしれないし、そもそも返信しなくちゃいけないルールも法令もないし、まあまあいろいろなことがあっていろいろいいとすれば、まいっか、という名付け親になってもいいかもしれない物語、あれはこう、それはこう、そうすることはこうゆう意味でしょう!間違いない、そうした誰かに教わって誰かが付けた名前を自分自身もそれに習っていつまでも遣わなくていいかもしれない物語、今日一日がハッピーかどうかも、そう感じるからとか何かいいことあったから、そう呼ぶそう名付けるのでなく、今日という日は、ハッピーと名付けよう、という今日が生まれた時から自分が名付け親になって観る物語

誰にも自分自身の人生の名前をこうだろう絶対になんて付けさせて、それをわざわざ自分自身から迎えて信じなくてもいい物語、名前は私が決める名前は私が好きなのを付けてもいい決めてもいい物語、小さな自分は確かに知識も教養も体験も少な過ぎてこの世界の名前を誰かに教えてもらわなきゃ知る術はなかったのかも知れません、ただ今はこれからはこの世界全体を自分自身が名付け親になって色付けして行けるんだとしたら、人それぞれですが人は、例えば今日という日を何と呼び直して観ることが可能なのでしょうか、与えられる恩恵と与える恩恵は、物だけサービスだけ対応だけでなく、そうした意味や定義や言葉、或いは又その名前を付けること考えること想像して創る物語性にもあるような気がして

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました