たまには切って観る物語を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

人それぞれですが人は年がら年中神さまにお願いしたり希望願望理想が叶いますように祈り又参拝しているような気がふと致しました、用意周到というのかひつこいというのか、お願いされる側から観るとどんな面白い物語性を想像できるのでしょうか

大変失礼致しました

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます

年が明けて神さまに参拝しお願いし

厄払いをしたり

時節ごとのお祝いや行事に参拝しお願いし

自身のこと家族のことを想い参拝しお願いし

半年もすれば又溜まった穢れを祓い参拝しお願いし、スッキリしたかと思いきや、すぐ七夕の頃になり秋の豊穣を念押しにお願いし参拝し、勿論日頃からいつでも気が向けば気ままに参拝しお願いし、表現の仕方はさて置き、人はそれぞれですが年がら年中何かしらをずっとお願いし続けている物語性を考えて観ました、大人たちは何かをずっとお願いしたりしている不思議な物語、子どもたちにはない世界観、年始一発じゃおそらく納得できないし我慢できないし信じられないのかもしれませんが、この何度も何度も神頼みするというところに興味深い仕組みがあるように考えて観ました、お百度お参り然り呪いも御呪いも慶事も神事も然り三顧の礼然りそれは又違う物語かな、先人たちが辞めなかった次世代に残して来たこの年がら年中参拝し年がら年中しつこいくらい何度も何度もお願いする大人たちの物語は、ひょっとするとかなり大切なポイントなのだとしたら、人それぞれですが忙しい日常生活において、忙しい中でも忘れて終わないようにすることは、本気のお願いはひつこいほどお願いすることかもしれない物語性について考えて観ました、ときに人は一日中の間に6万回7万回もの思考を巡らせて観るとも言われています、その思考というモノが一種の意識又お願いのような性質を帯びていると仮定すると、その何万回を占める想いや考えや囚われる意識や景色が多いモノほどよく考え長く意識するモノほど、いわゆる何度も何度もひつこくお願いするデザインと類似した作用を及ぼすならば、一年の内どれだけ神社などに参拝お願いしても、回数的に数量的に質的にも、一日中囚われている思考には遠く及ばないお願いの儀式の可能性について考えて観ました、自身の日々の思考癖或いは意識の平均、一日仮に10万回豊穣を本気で願い祈るなら、およそ6.7万回の様々な雑念や他の思考から差し引いても約3万回くらいは豊穣の祈りお祝いにフォーカスが残りますので、それプラスに年中行事それプラスに気ままな参拝を重ねていくと、トータル的な押し引きの結果、豊穣に軍配が何とか上がって3万回くらいのお願いしたモノはもしかすると叶うのかも知れません、ただ3万回でも足らない安心できないような意識があればこそ、デザインとしてひつこいほどお願いしといて損はないみたいな物語性を編むこともあるのかもしれず、そんな人間の模様は可笑しくも可愛いくも観えます、余談ですが、かつて日本には空海さんというお坊さんがいらっしゃって、彼は一般の人がお祈りするのに必要とされる3万回の読経に対して、3回あれば同じ効力を発揮すると言われる祈りの質の高さを印象付ける物語を聴いたことがあります、人はそれぞれですが常々楽したいモノでもありますから毎日毎日3万回もピュアなお願いひとつに膨大な時間を割いていられるかというと不確かかもしれません、現代人はそんなに暇じゃないのだと想います、そこで登場するアイテムが3万回の願いが叶うお経が描いたコマを作りそのコマを一回転させたら3万回お願いしたと同じことにする物語性が生まれます、ラクですよねそれは、ただ喜劇というか落語的な思考で観ると、そのコマを一回転二回転させてもそれ以外の時間又はその最中にも別の思考を何万回と巡らせていればコマの回転も慰み半分になるかもしれません、祈りは言葉通り意を乗せて発振する人という音の響きが大切なのかもしれません、お願いする内容や言葉や文字がどうとかよりも、質そこに乗せるその人のエネルギー或いは音が大切なのかもしれません、年に一回くらいしか逢瀬を交わせない二人が奇しくも暑い時期にで会えるとき、もうその二人はそれを何回何万回と繰り返して来たのでしょうか、日頃は互いに色んな事情があって情状酌量の余地がありたぶん瑕疵担保責任もないような中、どんなに忙しいくても会える日は解っている物語、初めて会えた日の感動もいつのまにか、もう今日?なんて想ふ物語性ももしかしたらあるのかも知れないと考えて観ると、その物語性を盛り上げる為に又別々のちょっとまったああー!的な、バージンロードを遮るようなまさかな事態も想像すると面白いかも知れません、人それぞれですが人によってはそんな発想そのものが不貞不適切不純だと叱られるかもしれませんが、ひとえに人は当たり前になる平常や感動が薄れてしまう繰り返す物語性に対して、しなくちゃいけないからとかいい子であるようにして見せなくちゃいけないからとかで、さして面白くもないことを面白いと言って観たり笑えないしつまらないし気を遣って合わせるのがしんどい面倒な自分自身を知りつつも、隠して抑えて、いやあ素晴らしいとかいいことですよねとかニコニコしたところで、年に一回くらいしか会えない二人が会うそのとき、下界では当たり障りのない拍手やお祝いの言葉が表面的に形骸的に社交辞令で並べたてられるのを観ると、ハイハイありがとねと又当たり障りない対応をしてしまう物語性があったってしょうがないかもしれません、今日もしも大切な誰かと日頃から会えない日もありがなら又久しぶりにお会いする機会に恵まれて二人の時間を過ごせるとしたら、そんなとき周囲の人から私のお願い聞いてくださいとか私の夢を叶えてくださいとか散々ひつこく言われたら、俺の時間!とかいや私の大切な日だから!って言われてもおかしくない物語性を考えて観ました、私は昔大切なデートの当日に困っている友人が助けてほしいと言うので仕方なくそちらを当日急遽優先した結果的に当時大切だったその人との縁が切れたという笑い話があります、デートのドタキャンは禁物と勉強した日でした、ただ想いますのは、そういうお人好しみたいなちょズレた人もいるんだよってところ、今日星空の下で過ごす方々、中にはそんなお人好しの方もいるかもしれませんので、急に、今日お願いしたり今日急に頼んだり頼ったり呼び出しりするのは控えめにしてもいいかもしれない物語、どうせ来年又会えるし、去年も会ったんだし、いやもうトータル何万回でも会って来たんだし、今日は私のお願いをどうか聞いてくださいなんて、粋じゃ無いかも知れない物語、ただ人らしく人間っぽいそんな物語性を笑えたり許せたり観たりすることはこの世界の楽しみ方のひとつなのかもしれない物語

大変失礼致しました

以上本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました