人はうたがうモノについて考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

愛という言葉を知ります、愛とは何かについて人それぞれですが考え悩み苦しみ又癒されたり望んだり望まれたり求めたりする物語性があるように想います、愛とは何か?そこには人それぞれですが人の数だけ答えや縛りがあるようにも想います、もしも愛という存在が口にする言葉があるとしたらば、なんだろうと考えて観ると、単純かもしれませんがこう想い観ました、愛している、愛している、愛している‥、愛とは何かなんて長らく生きて来た今も明確にこうだなんて解らないのですが、愛という存在が想い考え感じ言う事がもしもあるのだとしたら、それは愛しているいつも愛しているずっと愛しているこれまでもこれからも今も尚常に愛している、なのかもしれないと考えて観る物語

大変失礼致しました

ごうさんというペンネームでブログを気ままに

更新して観ます

愛と人の違いについて考えて観ました、愛は愛しか知らないし愛すら何かと言う意味や定義や縛りを持たずに、いつもいつだって静かに愛していますという存在だと仮定した場合、人それぞれですが人はひとつの物事をずっと信じていられるかどうかは解らない側面を持ち、昨日想ふことを来年同じように想い考え感じるのかは解らない物語性を携えるモノだと考えて観ました、別の表現が可能ならば、人はうたがう事を知りますが、愛はうたがう事を知らない、そんな物語性について考えて観ました、愛という言葉の音は又妙で、アイと呼んで観ると、人のアイは疑う事を知り、愛のアイは疑う事を知らない、とも書き換えると興味深い物語性があるように想い観ました、疑うことがわるいこと、という絶対値を決める物語ではない、ただ人は人それぞれに信じたり信じられなかったり疑ったりする物語性がある物語、勿論例外もありますが、疑う事のできる機能を持つ人にとっては、必然的にそれは意味のある大切な恵みを知るモノなのかも知れません、疑う事に疲れてしまう自分自身を知る物語性も知ります、信じていたいのに信じたいのに、ただその人間にいいかわるいかはないように想い観ました、そうゆうモノであるならば、うたがうとは何かについて又考えて観ました、うたがうとは、分解して観ると、う、と、たがう、に分けることが可能です、例えば、う、とは、あいうえおで観ると、いの次でしょう、いろはにで観ると、むの次でしょう、いから想像出来る人に関する言葉には、例えば意思や意識や意見や意味や、意という様な存在が挙げられます、又むから想像できる言葉には短絡的ですが、無意識や無関心や有無などなどの無という様な存在が挙げられます、したらば、人それぞれですが人はそれぞれ自らの主観でそのアイで、疑わずにはいられないモノであり、それは又、自分自身の意思意識信じる意味に対して、たがうモノ、ずっとずっとずっといっしょのまま、同じままではいられない、常に変化を伴う存在として違う(たがう)モノだと仮定すると、人は人として互い互いの違いを知りながら日々体験しながら同じ位置にはいられない変化して成長する物語性がある、アイなのかもしれないと考えて観ました

そんな人それぞれを観る愛はただ愛していると愛していますと言い続ける人智を超えたモノなのかもしれません、人はときにそれぞれですが世に現実に私は愛されているのかと問ふこともあります、愛はそれを観て愛していますというでしょうし、私はとても孤独で孤立していて何をやっても上手くゆかず未来に希望を見出せなくなることがある、そんな私は愛されているのでしょうか、この世この世界は私を愛しているのでしょうかと問いかけても、愛はただ静かに愛していますと想ふだけかも知れません、人とは何か自分とは何か、或いは又、アイとは何か愛とは何なのでしょうか?答えの無い正解を求めて言葉や意味の大海を独りで舟を漕ぐ旅は、人それぞれですが人ならではの物語性を持つように想い観ました、ただ言えることは、人はそれぞれですが人は疑うものかもしれない物語、人のアイは疑うことを知りそれ故に変化して成長すべてモノかもしれない物語、自身を自身で縛る様々な物語から自身で自身を疑って解放することが可能です、又信じたいモノはずっと疑わずに信じていることも可能です、疑い疑われ信じて信じられる物語、それはいいかわるいかという物語とは違う、そうした物語性を編む人を自分を愛視点居ますという物語、どんな自分も愛していますとアイして観る物語試み、その現実をこの世界をどう観るのかは人次第でありアイ次第愛次第かもしれない物語

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました