空から舞い降りる季節を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

時に人の笑いは花に例えられる物語性があることを知ります、植物たちが種から芽吹き育ちやがて花開いて実を結んで再び種を世界に蒔いて往くように、植物も人もそれぞれですが、その生命が生きる過程において花開く瞬間又は花開いてくシーズンや活動ターンのような物語性があり、それらがまるで類似性を持つ何かのヒント或いはデザインを教えてくれるようにも想います

失礼致しました

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます

日本という国土には四季があり一年を通して色んな天候や景色などを魅せてくれる色鮮やかな地域だと想い観ました、一年中或いは又生まれてからずっと同じ天候や気象ずっと同じ景色の中で過ごすような地域とは違い、時の流れが解り易く又自分自身の人生というモノが確かに動いている流れている変化する様相を認識しやすいかもしれないと考えて観ました、又四季があるからこそ変化があるからこそ、こっからここまで頑張って観るとかこれまでとこれからに区切りを付けて観るとか、カレンダーがなくても四季という自然の移ろいがそこに生きるモノたちの動いてゆく流れに役に立つ指針や道標のような働きで誘因や動因様々な活動に対する動機のお手伝いをしてくれるようで有り難いモノだとも想います、ターンがあるからこそ飽きずにいられたり期間があるからこそPD CAも建てやすいようにも考えて観ました、お正月も桜の4月も夏らしくなる7月も大収穫を迎える10月11月も、ずっとずっと同じ気温同じ天気同じ空だったとしたら、四季の知らせもない一年という感覚は無意識だと何も変わらないように想えるかも知れません、周りの植物たちが生きて成長して形を変えて循環するように、それを観ることの出来る環境は人それぞれですが人が生きる上での大切な移ろいだとも考えて観ました、成長や衰退或いは又破壊と再生の物語性を見せてくれるのは、この物理的な世界では形の変化が顕著かも知れません、例えば物体ではない何かが今この季節になってどう変化しどうこれから移ろい往くのかなんて、形のない世界の成長衰退破壊再生は見えない分によく解らない物語性があると知ります、成長したと想えばそうだろうし、衰退した後退したと言えばそうかもしれないという中、自分自身の成長した姿というモノは、身体的な形の移ろいだけでは語れない物語性を帯びて観えます、夏は様々な生物たちの楽園のような活動の活発期間かも知れません、そうした四季が知らせてくれるターンのヒントのような物語性に人は学び、よし人も夏になったら活動を活発化させて生命を謳歌しなくちゃいけないんだ、なんてまるで大舞台前の楽屋気分よろしく、頑張らなきゃ!モードに誘われて観る物語性はあるかもしれません、植物たちが成長しているのに、私は一向に成長している気配がない、若葉から青葉になり秋には実を付けなきゃいけないのに、まだ雑草だらけの地面の低い位置から生い茂る草の合間から見える僅かな空を見上げているような状態でそこからぐんぐん伸びて他の背丈を追い越して、大きな空いっぱいに向かって好きなだけ空気を吸って好きなだけ光を身体全体で浴びるような恍惚とした気持ちや理想的な自身を想えないかも知れません、もしもカレンダーがなければ、人それぞれですが人は今日をどう感覚して一日のどのへんにいる自分自身を想ふのでしょうか、自らの景色自らの移ろい自らの動き自らの流れ、そうした自らという自分自身をどのように自ら把握して今の位置を観ることが可能なのでしょうか、言葉とは時には妙に不思議なアイデアやひらめきを与えてくれます、縛るモノとしての作用と縛られ過ぎないようにする創造力としての作用があるようにも想います、例えば自分自身、自らという言葉を水からという言葉に書き換えて観ると面白いかも知れません、又水という日本語は英語圏ではウォーターWaterですが古いドイツ語圏ではWaterワラーとも耳にします、すること妙ですが、自分自身の動きは自らの動きであり水からの動きとなりワラーつまりは我々という言葉のワレ我という日本語的な耳触り或いは又笑いという音に描いて観ることが出来るのかもしれないとも考えて観ました、一年もやく半分ですね、自分自身これからどうなるのかどこへ往くのか正解はなく正確には解らないかもしれないけれども、自ら水から学んで水のような流動性と適応性と変容性とその時点での絶対性や相対性のような趣きで壁を避け時に岩をも穿ち削り時に溜まり時に流れ時に濁り時に澄み時には霧散し又時に形を成すように変幻自在な物語性のこれからの半分を自分自身を自らを楽しんで往けたならと想い観ました、夏前の雨のシーズンだからこそ、自らをも水から学んで観る物語、そして又水はあらゆる生物たちにとっては欠かせない要素であり又水はワラ我々や笑いの象徴であるとも勝手に想像して観てもいいのなら、自分自身とは水であり笑であるような存在として、夏、秋、年末年始に笑いあえますようにここから先に笑って観る物語について考えて観ました、今日生きる自分自身は水であり笑いかもしれない物語、水が自ら服を着ていっしょけんめ何かに従事して頑張っている物語、笑いというマテリアルのようなモノが服を着て仕事や家事に忙しい物語、笑えないときもあるかもしれませんが、存在そのものは笑いであり笑いが服を着て笑えないくらい頑張り過ぎているだけかもしれない笑えるかもしれない物語、水から笑う物語、空から自ら舞い降りる物語

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました