現実とは何かにらついて考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

日本での知事選挙の様子が一部話題になっていると知ります、政治への関心が若者世代を中心に或いは年代を問わずに薄くなったりする中で、地域自治体にせよ国政にせよ主体性を持って我ごとのように関心を持ち示し、自身が身を乗り出して政治に参加して議員と成って地域をよくしよう国をよくしようという試みは素晴らしい物語性があるように想います、興味があろうと無かろうと奇しくも国際的に様々な国や地域で偶然選挙が多い年とも言われています、人口の約半分くらいの人たちは今年度において何かしら自分たちが所属参加する場所で組織の行方や国政の是非などなどこれまでとこれからについて考える機会或いは何かを選択する機会に恵まれているのかも知れません、誰しも人それぞれですが、そうして個々の想いや願いや夢を理想を現実的に叶えようとして、様々な機会にチャレンジ行動する物語があるようにも想い観ました、話題となっている選挙から観るに、そこに参加する彼ら彼女たちは今何をしていて私たちに何を魅せてくれていて、何を教えてくれ何を学びに何をヒントにしてくれるのでしょうか、人の特性のひとつには観ることが出来る物語が挙げられると考えて観ました、視覚として情報を単なるセンサーとして写真のように動画のようにカメラのようにただジャッジなく見るだけ撮るだけ録るだけの機能が人ではなく、それをどう観るのかどう処理して噛み砕いて自身にとっては必要な栄養素や活動のエネルギー源として分解して吸収するのか、自分にとって要るモノは採り入れ要らないモノは排泄するように観る物語が人それぞれですが大切な特性だとも考えて観ました、

自分自身は常に観る側であり又観られる側でもある中で、観る側だけだと偏って仕舞うと視界は狭くなり自分自身の視点だけ価値観だけに固執し縛られて他者の言葉に耳を傾けられる余裕がなくなって仕舞うたり、又観られる側だけだと意識すると自分自身の位置が解らなくなり視点や価値観に自信が持てなくなって他者の言葉他者の価値観他者の目線ばかりが気になってこれも又視界が狭くなって終うかも知れません、1にも2にも人それぞれですが人は基本的に主観でしかものごとを捉えられない側面がある中で、観る側の自分自身を自分がどう観るか、或いは又観られる側の自分自身を自分はどう観るか、そしてそれらを同時並行的に見遣る中で更にはそうした自分が自分自身をどう観たかを又どう観るか観られるかについてどう観るかという、終わらない何故何故問題のような物語性があり、つまりはどこまで行ったって主観しかなく、たとえば他者を自身はどう観るかも、自身は他者からどう観られるかも、自分はそうゆうふうに観た、という自分自身発振のカメラワーク次第な物語性が見えてくるかも知れません、すると自分軸と他人軸という議論も主観となり、厳密には主観的自分軸の自分軸なのか主観的自分軸の他人軸なのかという問題になるのかも知れません、他人軸で悩む人がもしもいるならば人それぞれですが、他人軸を積極的能動的に採用選択するそうした自分軸の在り方について目を向けて贈ると自分への興味という視点では他人軸も悪いことではないと想エルかも知れません

失礼致しました

ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

引き換え交換の仕組みについて考えて観る物語

今やネット社会にて様々なツールや媒体を通じて、観る側と、観られる側の課題という物語性がある中、観るのが好きな人と観られるのが好きな人とのマッチングは表面に幸せと言っていいかは解らないのですが平和的ですが、観るのが嫌な人と観られるのが嫌な人にとっては、観るのが好きな人を観るのも嫌だし観られるのも嫌だし、観られるのが好きな人を観るのも嫌だし観られるのか好きな人に観られるのも嫌だし、そこにはどう観るかの主観の課題とゲーム性、更に言えば、その観る観られるというモノの間に働いている、引き換え交換の仕組みの妙について考えて観ました

例えば、その仕組みは夢や希望理想を叶える叶えたいときに、神社仏閣に参拝して観る物語が代表的なところかも知れません、例えば願いを叶えたくてお願いを神社へ足を運んで神様の御座います本殿に向かって礼儀作法を心得意識して、神さまどうか何卒宜しくお願いかしこみ申し上げます、と言う想ふ祈るつまり例えばお願いする訳ですが、お願いされた側はそのお願いする側の様子を観て、ではこれを与えて観るではそれを与えて観るところ、与えて貰える側は良かったやったとかいや違うぜんぜん叶わない貰えてないとか、チグハグな物語性を編むこともあるように想います、しかしながら願いが叶った叶わなかった、という天気予報やら占いやらの的中率が大事とか問題ではなく、底では何が引き換えとなり交換されてしているのか、という物語性に目を向けて観ると面白いかも知れません、例えば大学に合格出来ますようにとお願いした場合、便宜上神さまと表現致しますが、お願いされた側神さまは、相わかったと頷き了承致します、底には個人的な勝手ながらのお願いをどうぞ聞いてやって下さいましという意識から、と聞いたぞ確かにあなたにはそのような願いがあるのですね今まさに聞きましたよ、が会って互いに聞いて聞いたの相交換が成されている物語がひとつ、仮にお願いを叶えて下さいと合格通知が来ますように合格発表に自分の名前が有りますようにと叶えて下さいとして落選した不合格だった場面では、アイ解った後に合格通知は約束されたし合格発表に名前があるは約束されますが、約束された側お願いした側は底で引き換えにしたモノに全く気付いていない場合、引き換えなかったから叶わなかった、例えば仮に合格は約束したがその為に支払う代償がしにモノ狂いでその人にとっては普段のペースや自己管理だと三年くらい習得にかかる合格出来る為の知識知恵を一年発起しなくてはならない引き換えがあったと仮定した場合、それ知らなかったわからなかって気付いてなかっただけかも知れず、気付かない代償引き換え交換に落選不合格を獲得した貰えた叶えたという、願いには表裏にあるAが叶えられるパターンとBプランが叶うパターンがあるかも知れない物語、勿論約束したけど来年とは限らないよとかかもしれないし、別のところなら合格したかもしれないし、今現在の現実とは違うズレた別の世界の未来線の自分は合格出来きてる物語があるかもしれません、どのパラレルどんな未来においても合格の点は何をどうしようと避けられない物語性を願い信じてその為に出来る全てを行動に移したら、合格だけはするかも知れませんが、今回はお願いする際のどんな間柄の物語においても、必ず底の関係性の間には相互によって引き換え交換される仕組みが存在し、古くはそれを人は生け贄と表現したかも知れませんし、現代においては等価交換とか努力と結果とか引き寄せとかアファメーションとか色々な表現法があるのかも知れませんが、日常生活的に表現すると行動すること、動くことによって自分自身の底にある本心や本音、等身大の自分の今の心願が成就する、つまりは意識していようと無意識であろうと自分の本来を理解していようとまるで解らなくなっていても、必ずその時その位置そこの願いはそう願いそう願った自転時点では必ず叶う仕組みがあって、必ず約束が先で必ず成就が先で願った後、参拝後祈りの後から引き換えは後からまたは後ほど回収される請求される精算される行動の見守りモニタリングがあるような物語性があり、人はそれぞれですがそれを人は結果と呼んで叶う敵わないと憂うのかも知れない物語、今日は頑張ったご褒美にケーキでも食べようかなと願うとき、その為に支払う代償行動なら何気なく簡単に実践するかも知れず、簡単にそんな自分の願いは自分自身が叶えて上げると想いますが、それが例えばケーキを他人に買って来て貰うという願いにすると、普段から或いは又今から引き換えにするあらゆる物語をどう考えて観ることが可能でしょうか、勿論ケーキを他人に買って来て貰おーと、1人静かに内側で想い誰にも言わずに山で1人寝そべっていた一切何も動かなかったとして世界でその人が今日ケーキを買って来て貰う欲しいと知っているのはその人1人だけの世界において誰がどの他人がどこにいるのか何をしているのか解らないその人の為にケーキを買ってわざわざ探して持って往くというのかその現実的物語性を考えて観ると自身の願いは1番身近な自身自分分から率先して何かを引き換えに例えば楽しようしたいと交換に何かをするやるチャレンジした引き換えにその行動に観あったモノは必ず叶う必ず贈られると考えて観ました

現実は全てメッセージであり贈り物だと想います

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました