渡しの世界はぐるぐる回る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

経験は宝物だと想います、その人がそれをすることが宝物でありその人の財産だとも想います、

宝物や財産の定義や意味は人それぞれですが、そんな色んな人が決めた意味に縛られなくても、ただシンプルにそう人それぞれが見聞きすること知ること感じたり考えたりすること想ふこと夢観ること、そんなすべては宝物であり財産だとも想います、これは単なる言葉を使って何かを形にして表して観る把握したり理解して見ようとするひとつの試みに過ぎず、例えばであり絶対ではないようにも想います、言葉のありがたいところは、あいまいなエネルギーをひとつの形にして認知観測可能にしてくれるところがあり、逆にもどかしいのは、その形はあくまで例えばであり大海の中の一滴に過ぎないモノであり、両手で水を掬い上げてもそこから途端に溢れ落ちてその溢れ落ちたモノすらもうどこにいったのか区別できない把握しきれない全体をすくえない物語性がある側面かも知れません、それはそうゆうこと、あれはこうだ、って言うことはこういう意味ってことでしょう、それ意外考えられない、信じらんない、訳わかんない、そうして世界は閉じて終わないように、私たちは常に流転する物語性の中で、かもしれない新たな視点を広げてく創造力を持っているようにも想い観ました、もう自分を探さない、突き詰めるとそんな物語性に辿り着くかも知れません、

激しい雨と風が通り過ぎた後の空は、雲ひとつないシルクスクリーンのような青でいっぱいでした

昨日と同じ世界の筈なのに何故か音が少なく感じとても静かな朝陽の時間帯

どこかの世界では夕暮れとしてバイバイまたね、って見送られたおてんとさんが、周り回って僕の目の前に朝陽としておはようって言う物語

終わりかリレーして始まりになる物語

いつだったっけか、災害で土砂だらけになった街へ出かけて朝から晩遅くまで土砂かきをしていた日、連日クタクタになって疲れた身体を起こして、朝を迎えてまだ肌寒い空気の中、復興中の音のしない静かな街並みから観た朝陽を何故か想い出していました、清々しい、そうしてジワリと肌に日が暖かく、ただ生きているだけの世界に始まりを感じたあの日あの感覚、意味なんてないのかも知れない、ただ生きたそれは今自分自身の宝物であり財産になっているようにも想い観ました、他者がテレビが後から意味をたくさん付けてく世界、そんなことよりもたしかにあのときどこかで生きた自分という証があってそれは自分だけの知る自分だけの経験自分だけの世界観でいいのかも知れません、いいもわるいもなくコスパもない自分は宝物で財産になり得る今日、音のない世界はもう知らないうちに始まり回っているようにも想います

本日もよきかな一日をどうぞ

今日の夕暮れはまたどこかの誰かさんの朝陽になってバトンされる物語

以上

大変失礼致しました

ありがとうございました