波と粒子の物語性を考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

ものごと或いは物語には、サイクル性があるように考えて観ました、自分の心臓部が今日も相変わらずドクンドクンって言ってくれているのもひとつのサイクル性を表しているデザインのようにも想います、人それぞれですが人はそのサイクル性の中にいいとかわるいとか低いとか高いとか上向きだの下降気味だの優劣や善悪を付けて、デザインをいろいろなものにスライドさせて把握理解しようとする試みに活用しているとも知ります、ただ始まりは単なるサイクル性だったでしょう、一定に近いと誤差を消してこうゆう流れこうした規則性法則性というモノを意味付けして観て、未知な世界を先回りして観測しようとした人の英知かも知れません、ただサイクルはサイクルに過ぎず何かしら微分がサイクルを単に発見した物語性があるだけだったかも知れません

例えばひとつの企業がどんどん大きくなって長生きして行き発展継続する物語の中に、事業の拡大と収縮のサイクル性があります、多角経営してたくさんの事業を細分化する流れと細分化した事業や末端を収縮し閉鎖したり吸収したりする流れ、これは例えばタコのデザインにもよく似ているようにも考えて観ました、タコは8本の脚にそれぞれ脳を持つとも言われています、それぞれ独立した脳は本体の脳メガ企業体から独立採算した且つバラバラではない連結体とも想い観ました、人のネットワーク社会もそんなデザインに類似していて、たくさんに細分化する拡大の構図とたくさんを吸収或いは統括収集収縮する構図とによって構成されている一心同体のようでもあります、このデザインは全体図としてサイクルのように鼓動してして、それは血液が心臓部から毛細血管の末端や各種臓器やパーツの隅々まで旅するひとつの振動物語のようにも想います、心臓部にいる血液が良くて足の先にいる血液が悪いということもありません、頭に往く血液は栄転で足の小指に往く血液は左遷ということもありません、心臓部のドクンのドが上向きでクンが下降や衰退減退、やる気ない不景気だということでもなく、ただサイクルはサイクルという巡り回る物語性があるようにも考えて観ました、例えば太陽が宇宙空間を泳いでく流れに対して、私たちはそれに置いてかれないように健気になってついて往くサイクルのようにも想い観ました、去年の春に太陽が宇宙のどの座標に正確に位置したなんて誰も意識していないと仮定した場合、人がそれぞれですが意識或いは把握しようと試み観るのは太陽の周りのどのへんかくらいな小さなサイクル性で、厳密には違う春座標も小さな人の世界では誤差をないことにして同じ春と言います、例えば仮にアナログの時計の文字盤を宇宙空間における太陽のサイクルデザインだと仮定した場合、去年の春は午後1時辺りに座標した太陽の周りを回ってた自分かも知れませんし、今年の春は又違う位置を泳いでいる太陽を追いかけて周る自分かも知れません、そうして人は人それぞれですが様々なサイクルデザインの中でそれぞれがそれぞれにリズムして振動して回転してドクンドクンって生きているだけなのかも知れません、自分を知るひとつの面白さには、こうしたこの世界或いは自分自身に帯びているサイクルデザインを把握したり自分なりに理解してあげる試みだとも考えて観ました、誤差の範囲を編み出す知見は、共通の認識を得るのには便利ですが、人がこれだけ多くなり細分化されて多様性を観測できる領域に成長したとき、人それぞれですが人は未知への耐性や臨機応変さに自信がなかっり怖かったりする物語性を持つようにも想います、未知とはある意味では誤解です、それがいけないとかというお話でもなく、人は歴史的にも未知を開拓し発展成長する流れにおいて、その数々の未知の中に自分なりに法則性を見出してサイクルデザインを創造してきた物語があるとするならば、個々人の人生において個々の開拓と発展成長に寄与する貢献或いは発見的な気付きとは、自身のサイクルデザインを独自に観ることだとも考えて観ました、それは言い方を替えると自分の誤差を自分が知る物語かも知れません、誰かが今日あなたはアンラッキーだと言った誤差の範囲内で、それを気にしてそれを意識してそれを信じて観るのもひとつのサイクルですが、これからは自分自身のサイクルを自身でモニタリングして微分して果たして今日の自身は果たして今の自身は、どのあたりをどんな感じで回り周っているのだろうか、を自分なりに独自に座標観測する試みが大切かも知れない物語、私たちはみんなそれぞれですがそれぞれがこの宇宙空間をぐるぐるぐるぐる回る物語とも想い観ました、緻密な座標をドットすると意識的な分布は別として、身体的三次元的には誰もが違う宇宙空間のとある座標に位置しています、今日はやる気がないなというそのやる気の意味や定義や観測根拠はだれが決めたモノ座標なのでしょうか、そんな誰かが決めた誤差の範囲内で自分はそれと同じことなんだ、そうなんだと不幸なんだと減退衰退下降しているんだと、信じて終うのは創造性豊かな人の本質から考えると、いや世界はもっと広くて大きくて楽しいよとも言いたくなる物語性があるかも知れない、それはドクンドクンのドなのかクンなのか、ドの辺りならどうだとか、クンの辺りならどうだというのでしょうか、シンプルにサイクルとして私たちはただリズムして生きているとしたら、リズムとして今日一日を今のリズムをどう生きて観るのでしょうか

あなたは今日もドクンドクンって動いています

ダメですか?いいですか?

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました