母の日について考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

日本にはたくさんの年中行事や祝祭日があり、それは時節を大切にする想いや四季を枕にした変化や成長や或いは又移ろいゆくものものに観る無常や色とも言えるかもしれない豊富さの彩り煌めき、そうしたある種かつて人が生きた証のようなモノや人が大切にして尊厳した後世に残したいモノなどを今も尚受け継がれて生きている物語、とも考えた場合、誰もが知らない何とかの日よりも国民的に祝祭される観測しやすい行事や記念日は興味深いところがあるように想い観ました、

失礼致します

ごうさんというペンネームで

ブログを気ままに更新して観ます

母の日を迎える時節になりました

毎年母の日には母への日頃の感謝を込めて母に贈り物をする物語性があると知ります、いずれの行事も祝祭日も年に一回しかない希少なモノですが、その日くらいはそうしよう、というような側面に何だか興味深いものも想い観ました、それは逆的にその日以外はそうしてない物語性があるかも知れず、安息日という概念も含めてみんなでやるって決めなきゃみんなが堂々とできない不思議さもあるような気がして興味深いところだと想い観ました、国際的に様々でしょうが、母に対する捉え方観方、その役割や存在観については基本的にたぶんどの国の母も偉大だとも考えて観ました、ママやマンマやオモニや呼称はいろいろあると想いますが、兎に角その母という存在そのものが人の歴史上においては欠かせない物語上における重要人物であることは否めないようにも考えて観ました、遺伝子的にも人類の始祖とも言われる存在はアフリカの母になっていますし、遺伝的に父の系譜は、男子にしか伝わらず、母だけが息子にも娘にも受け継がれてくデザインもさることながら、又その存在感にしても子どもの時だけでなく大きくなってからもいい年齢を重ねても、ママはママだしマンマの料理が世界で1番だし、ママじゃなきゃいけないし、ママが居てくれないと始まらないし、ママを侮辱するような物語には必死に抵抗し闘う理由として列挙するし、どんなに月日を経ようともママが1番でママが最高でママには決して抗えないようなママが安心して笑えるような物語性がひとつ受け継がれているようにも考えて観ました、日本という国ではいま現在ママの存在とはどのような印象でしょうか、立ち位置或いは役割を維持又継続し確保確立しているのでしょうか、地域によって様々なギャップはあるかもしれませんが、オカンだとかオモニだとかママだとかおふくろさんだとかいろいろある中で、母上様はたぶんかなりマイノリティか絶滅している可能性も考えられ、次点については、お母さんやおふくろさんもママの普及拡大には至らない役割と存在観について考えた場合、ママとは何かについてママの日を考えて観ました、一概には言えませんが、海外の一部の地域では、ママというものは、ママから娘へと受け継いでゆくファミリーを一族を血族を平和に導く秩序をもたらす大切な役割としてその存在観を含めて、現ママは先代のママからママを学び、そうして又次世代のママを創り続ける女王継承的な物語性があって、それはいわゆるママを生き残らせるママを伝承するママというモノを連綿として後世に伝え不滅の存在にするシステム化すら感じるような営みがあるようにも想い観ました、時代と共に日本では核家族化が進み少子化が進み離婚率が高まり又ママたちの社会進出する機会がかつてよりは多くなりママと言えどもママのやることすることは昔に比べるといろいろ多面的でもありシングルマザーにもなるとママの役割や存在観については1人が担う仮面の多さという面で考えると年に一回だけの感謝じゃ足りないくらい忙しいく悩ましい物語性を編むようにも想い観ました、現在のママたちはそうしたママになりたくて頑張って来たのでしょうか女性の権利主張や拡大や男性社会にとって変わろうとする試みが一概には言えませんが、返って女性を苦しめたり生きづらくするような物語性を編むのなら、男性の代わりになるという仕組み立ち位置の革命的な物語性を観るある種取り戻す取り替えす競争原理闘争視野に囚われるよりは、女性は女性たちが生きやすい楽で便利でもっとわがままにもっとシンプルに笑える独自の生き方在り方を模索して、私たちが幸せにならなきゃ世界は救われないくらいの偏見ありきで、もっと自分自身から自分を尊厳視する意識体系が大切かも知れないとも考えて観ました

母の日について考えて観る物語

ママだろうとオカンだろうとおふくろだろうとオモニだろうと、その偉大さその素晴らしいさその貴重さそのかけがえのない物語性にどれだけ多くの人たちが真剣に真面目に尊敬や尊厳の根で観てその日を迎えてかつ楽しく嬉しく笑いながら過ごすのでしょうか、行事だからするのかそうゆう日だから時には参加して観るのか、人それぞれですが、母の日が生まれ母の日が生き残っている物語性について考えて観ました、女性の日や妻の日奥さまの日淑女の日レディの日ガールズの日姉の日妹の日などなどはあるかも知れませんが一般的に祝祭日としての知名度ではないような観測下を仮定した場合、大切なポイントは母という存在価値であり、その支配性だとも考えて観ました、男性に生まれたら最初から母にはなれない物語性があり、途中で目覚めて母になろうと試みたとしてもそれは現段階の社会ではとても困難な未知を歩む可能性があるように想います、意識や価値観や制度がわるい訳でもなく、性の云々ではない、母という役割やその存在観の重要性にまだ世間は追いつかない観測面がもしかするとあるかもしれないだけで、どうしても人は、視覚に囚われてその縛る比重が見える世界だけに絞って終うような物語性がある中で、世の中に平和を維持し大切な秩序を構築する重要な役割役職機能仮面能力魔法或いは又なくてはならない人類史における欠かせない存在感ピースとして、ママが1番ママが最高ママが言うから仕方ないよも含めたその絶対的支配階層とも言っても過言ではいその役割存在の大切さに想ふのは、性を超越するようなモノがあるようでいて、人それぞれいろいろあって色んな物語や事情もあるかと想いますが、ママに成ること母で居ることおふくろさんとしてお母さんとしてのそのある種の女王制度のような役割や存在観を想い出し又気付いて、婚姻の是非とは別にして、世の子たちを広くあまねく照らし出す存在意義をもしも意図的にでも戦略的にでも意識することが出来たなら、ちょっと行きすぎた理論かもしれませんが、ママが世界を救うような気がして、ズレてる私は母の日を想い観ました、世界を救うのはヒーローではなくママかも知れない物語、だってママはすべての海の親とも言う訳ですから、ヒーロー然りママから生まれて来る訳で、世の中に懸念されるような様々にある憂慮も不安も妬みや怨恨の物語も、ママの一言でママの存在で解決できたらなら世界はシンプルに笑える気がして、どうかママたち、他人の顔色をやたらと気にしたり自分を抑えたり前に出ようとしなくなって、自分から自分の偉大さや素晴らしいさを投げ出して見失わないように忘れてしまわないように、どうか世の子たち、ママの日くらいはママの言うことに従いますように君たちがママのナイトであることをママから生まれてきたことを想い出しますようにママを護りママを尊敬しママに照らされて自身も又輝いて笑える毎日を迎えるようにママと共にこの世界を平和的解決に導いてくれたなら、なんて考えて観る物語

ママになんかなりたくないママなんてしんどいだけママになってもメリットなんかないママが可哀想、そうして世界からママが少なくなってしまう物語性を編む可能性がもしも未来線に僅かでもあるとしたらば、それは大切な系譜が途絶える悲しい物語かも知れない物語、少子化問題はもしかするとママの役割や存在についての意義が見出せずその価値観に疑いを持つ視点がちょっとずつ増えママたちが女性たちが男性の代わりに男性をする機会が増えてきた一因があるのだとしたら、互いの存在意義も見出せずに進化を模索に停滞しているとしたら、世間は社会は世界は今こそもっともっと根源的なあり方や役割や存在について想い出し、又女性或いはママについては、やり過ぎくらいにママを仰ぎ見て平伏するような勢いでその役割その存在にその女王性に裏ボス観に感謝し賞賛し喜び祝い奉り上げる意識の再構築も辞さない試みが大切なポイントかもしれない物語、女性にはあまねく照らす力とスポットで照らし出す力との両側の資質があるとも言われる物語を知ります、それは人類を包み込むような慈愛や我が子のためなら命を顧みない母性にも例えられるように、男性には理解しがたいようなある種のルーメンとルクスを兼ね備えた存在感をも想い観ました、ちょっと話が大袈裟になってずれてそれ過ぎたかもしれませんが、母の日を迎えるに当たって母に何かをするも肯し遠く離れてしまって観るなら想ふだけでも肯し、見失わない忘れて終わない物語について考えて観ました

以上大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました