言葉について考えて観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

いつからか、人それぞれですが一般的に言葉というものは、言語又は言語を文字化したモノとして取り扱って観過ぎて来たのかもしれないと考えて観ました、朝方に散歩してたりするとまだ夜明け前だったり朝陽が昇る間近だったする景色の中、ふと足元や地面に目を向けて観ると知らないうちに色んな虫たちがぞろぞろと集まっていたりどこかから這い出したりしているのを知ります、それと同時に姿は見えないけれども辺りの木々からは小鳥たちが何やら鳴いている事にも気付きます、気付くというよりは見えてくるようで、視界のピントが人間社会の実生活に合わさっていたモノが不意に地面や木々や草花空や大気にピントを合わせてオートフォーカスされてくような出来事を、例えばふいに観る世界観として気付くとか自身では想ふのかも知れません、ときに虫や小鳥や木や草花や風や大気というモノたちも、それぞれがそれぞれに理解したり伝え会ったりする何かしらのコミュニケーション手段を持っているような気がするときがあります、例えば小鳥たちのさえずりは、単に音が聞こえる鳴っているというよりは、何を厳密にかは解らないのですが、擬人化して何やらおしゃべりしているような物語性に引き込まれる場合があり、朝陽を迎えるようなタイミングが合えば、虫たちも小鳥たちも草花たちもみんな今日という新しい日を無事に迎えることが出来、生き延びた生き残ってきたみなや仲間たちを朝陽を迎えると共に点呼したり確認してたりしながら、やあやあ元気かい大丈夫かい昨夜は急に冷えたねどうだい家族は無事かい子どもたちは仲間たちはお隣さんご近所さんはたまた天敵にもなり得るやっこさんの様子はどうだい、などなど、冷静になって考えるとそうした自身の勝手な想像に過ぎない言葉の世界は単なるイタイ空想かも遊びかも知れないなんても想いつつ、それでもそんな茶化してくる自分自身といっしょに居ながらそれでも朝日が徐々に徐々に次第に夜明けを告げて段々とこの世界を照らすとき、私は地面に縛られて生きているモノたちといっしょに、嗚呼今日も生き延びたんだな生かされてそれが許されて朝を迎える事が出来たんだな、のような虫や小鳥や草花たちの列席に末席にお邪魔して、映画が始まる前に集まるひとつの歓談した世界を知るようで不思議な気持ちに満たされる気がすることがあります、言葉とは何かについて考えた場合、1番身近に観ることが可能な教科書的な存在は、案外人間ではなく人間以外のモノたちの生の物語にあるのかも知れないなんて考えて観ました、馬や牛、猿や鹿イノシシや都会では身近ではなくなった動物たちは観えにくいですが、犬や猫など人間に合わせて寄り添ってくれるようなある種身近なパートナーとも想える動物たちは、人間のように怒ったり憎んだり妬んだり恥ずかしいがったり罪悪感を感じたりはしないモノとして認知されるところがあり、実際彼ら彼女たちは、嬉しい楽しい悲しい怖いなどのカラーを基本原色として、それらを組み合わせて現実を彩り観る世界観があって、本来なら自分自身の中から生まれて来るその情動とも言われる形の何かに、形を与えるとしたらとして動物たちはそれを行動や仕草行為に変換して顕現していると想ふと、それら行動の源になるエネルギー的な存在感役割が情動であり動機を支えているひとつのきっかけが動物たちの世界では嬉しい楽しい悲しい怖いのシンプルな原色に集約されわかりやすく、突き詰めるとその物語性には、情動🟰感情🟰行動🟰言葉、というようなトレースしやすい仕組みやデザインがあるような気がして考えて観ました、彼ら彼女たちは文字や記号を人間のようには持たない使わない操作しないような物語性がある中で、行動という言葉、行為仕草という言葉、感情という言葉を駆使して色をいろいろ掛け合わせて、例えばダンスして観たりのように人間が観えるだけかも知れないけれども、例えば8の字に動いてみたり、羽根を広げたり首を振ってみたり、空を旋回してみたり、個体として集団としてそうしたモノを言葉として観てもいいのならば、人それぞれですが人はその言葉たちの中に美しさや素晴らしいさや幾何学的な何かや神秘的な何かなど、或いは又嬉しいんだなとか楽しいんだなとか悲しそうだとか怖がっているだとか、的を射ているか正解かどうかは別にして解らないけれども解らないなりに彼ら彼女たちの発振する、いわゆる言葉というモノたちその表現の数々を観て、争いのない穏やかな平和的な共創共働を意識はそんなにしなくても自然にそうした世界を創り出そうとするような、誘因や動因みたいな物語性があり、人がまたそうした様々な自然に魅せられ教わり学び感動したり気付いて観たりする物語性の中には、人がいつしか人知れず置き去りにして来た嬉しい楽しい悲しい怖いを大切にしなくなって来た言葉の有り様取り扱いにヒントがあるかも知れないとも考えて観ました、今日一日を振り返って観るとき、人それぞれですが、嬉しいことがあった起きたと言うかも想ふかも考えて観るかも知れない中で、大事なのは、こと、出来事、事象現象、誰かの行い行動行為仕草ではなく、嬉しいを感じた自分を後から回収する試みであったりして、刹那的にできるだけタイムラグを減らして、嬉しい楽しい心地良い悲しい怖いを、今感じることを今感じるという物語性をもしも次第に編めたなら、伏線好きな人たちもたくさんいらっしゃるかも知れないのですが、今回収しないから後からごちゃごちゃいろいろ考察という表現を借りて考えたり悩んだりああでもないこうでもないとひきづって観たりするかも知れない物語性が生まれて、それが何年も続くとそもそもの伏線すらなんだっけなんて何を回収していいのかも解らなくなる物語を編むかもしれない可能性について考えて観ました、言葉とはたぶんいやもしかすると、人そのもの、あなた自身そのもの全部かも知れない物語、大海の水を両手で掬い上げて観るその取り上げた一部分が水の全てを現すことでもないように、文字や記号も言語もラインやメールなどの文章だけが言葉ではなく、それですべてを知るような解ったような取り返しのつかない絶対性を想い信じてても縛られている自分自身を知るならば、余裕があれば、そうじゃないそれだけじゃない、自身の可能性について考えても観るのも面白いかも知れません

口語と文語、文字や記号に頼り過ぎ縛り過ぎ慣れ親しみ過ぎて自身を見失うなら、底以外に広がる嬉しい楽しい心地良い気持ちいい悲しいかった怖かったの原色を改めて観て観る物語

ワクワクしようワクワクして生きると決心するならば自身の中に在るワクワクをひとつ残らず取り残さずに回収する覚悟も必要かも知れません、いや家事のあとで育児のあとで仕事終わってから人との付き合いののちに、なんて忙しくする根本が行動優先主義でワクワクという第一言語或いは情動的言葉ではないならば、ワクワクすることを探してやるのではなく、今からワクワクしてから何でもいいからやるならならやる、やらないならやらないをやるシステム構築が面白いかも知れないとも考えて観ました

言葉について考えて観る物語

意味や定義や正邪や善悪や優劣や正しいか間違いかはどうでもよく、あなたのその一挙手一投足がまるで魔法を産み出す力の根源であるがごとく

あなたが歩けば風が生まれるしあなたが生きることは熱を産むしあなたが観るものは許されてそこに生まれ存在するし、それは想いも感じることも含めてあなたが生きることそのものが世界をこの世界にたらしめる証明であり理由となり、初めに言葉ありきとは初めにあなたありきと描き換えて観る物語、言葉を意味で縛ることはあなたを意味で縛る物語かも知れない物語、ときに呪術などに一部ではスポットが当たる中、まじないものろいも言葉や文字や記号を媒介にして人を縛る術式である物語性を考えた場合にも、言葉とは人を表す別の形であり、言葉頼りに言葉を駆使する世の中で想い出してもいい大切なポイントがもしもあるとするならば、言葉を人に置き換えて言葉を自身に入れ替えて観るとこれから人それぞれですが生きることのヒントになりえるかもしれない物語

以上

大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました