例えば感じるとするやるを交換して観る物語 | ごうさんブログ

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高みを目指すなら笑われてゆこうじゃないか

本屋さんに行ってぶらぶらと色んなジャンルの棚やコーナーを観ていると、生きる物語や生きるためのヒントになる物語が要約し過ぎかも知れないのですが、多い気がして観ました、小説や漫画は言うまでもなく、それはだれかが生きる物語で、内容は様々でしょうが、兎に角みんなその舞台その環境その世界で頑張って生きているように考えて観ました、そうして、一概には言えないと想いますが、その物語性には、頑張ることを頑張る物語頑張るしかない物語、頑張らないことを頑張る物語、などなど、頑張って生きることがある種のテーマになっていて、出版業界を盛り上げていこうというエネルギーも含めて、どこかしら頑張ること満載な世界が本屋さんの世界の中に満ちているような気が勝手に想い観ました、そう想ふと、現在社会や世の中の人たちは、自分自身の人生、或いは自分自身を取り巻く様々な出来事や観客、人それぞれに興味がある分野において、上手くいくように好転するようにとくをえるように、自身のため家族のため仲間や大切な人のため、いろいろあるとは想いますが、みんな頑張るか頑張らないか、な物語を編んでいるように考えて観ました

失礼致しました

ごうさんというペンネームでブログを気ままに更新して観ます

現代人はいまいろいろ疲れていると言われることがあるように想い観ました、何故疲れているのか何故疲れたのかをざっくり考えた場合、乱暴かも知れないけれども、行動することに疲れている、のかも知れないとひとつ考えて観ました、生活に疲れる、お仕事に疲れる、人間関係に疲れる、気配りや目配りや心配りに疲れる社会、などなど人それぞれいろいろあるとは想いますが、兎に角何が疲れるのだろうと想ふと、動くこと行動することの一連に疲れて仕舞うのかもしれないとも考えて観ました、そして疲れるということは、疲れると感じる心や感情の物語性があり、そこに何かヒントがあるとしたら何があるかしらと考えて観ました、

ときに人は一般的に、行動はやることすること、であり、心或いは感情や気持ちは感じること、と知らないうちに信じて来たかも知れないなんて考えて観ました、それを例えば当然だとそうするものだろうと決めて思い込み慣れ親しんで来た物語性の中に、現代人が疲れてしまう物語性を想い考えた場合、そのやるすると感じるを入れ替えて観る物語について考えて観ました、

行動はやるする、のではくむしろ感じることへ

心や気持ち、感情というモノはむしろやるすることにして観る物語

例えば、生活の営みお仕事や勉強などは、やることすることですが、それらについて、何をどうすればいいのか、何をどうしようか、どう取り組むかどうやれば自分のためになるのか、と考えるアプローチは慣れ親しんで来たかも知れませんが、家事育児日々の生活お仕事勉強、隠し人それぞれいろいろ、それをどう感じるのか、にして観る物語、そうして感情は感じるものではく、何かどこかで抗えないような勝手に湧いて来る岩清水のようなモノではなく、感情気持ち気分も含めて感じると観てきた物語性をこれからは、することやることに入れ替えて観る物語

例えば今日一日何をしようかな、なんて考えるとき想ふ場面において、人は人知れず何故か、どこに行くかとかなど、やることすること🟰行動に縛って観る物語性を仮定した場合、そんな今日やることリストすることリストに、感じることを入れ替えて観る物語、人それぞれですが、何に疲れて来たのかを仮定した場合、色んな行動に忙しいく行動各種を頑張って来たから疲れている、のだとすると、行動が先ず最優先されて来て、事後的に行動のあとに、後から後から感情がやって来ると考えた場合、これまで先送りにして来た優先的に取り扱って来なかった、感情、いわゆる嬉しい楽しい好き心地良い気持ちいいたちを、事後にしない試み、感じることを最優先にして、感じることをやる、するに入れ替えて観ると、自分にとっての大切な何かを知るヒントになり得るかもしれないと考えて観ました、そしてお仕事や勉強はやることすることなんだけども、どうやるかどうするかを最優先して考え観るのではなく、どう感じるかというモノに観て、後回しにする物語

後回しにという表現を使うと、後でやるするに縛られてしまうかも知れませんが、例えば今日は嬉しいをしよう楽しいをやろうと最優先にして感情を先に持って来て自分に置いて、それから、それといっしょに次にお仕事へ向かい勉強に向かい、やりながらでも、やった後からでも、とりあえずやって観た取り組んだ結果、上手くやれたかどうか、褒めてもらえるかどうか、合格か及第点なのかと想ふ考え気にするのではなく、嬉しい楽しい好き心地良い気持ちいいなどを感じるかどうか感じたかどうかの対象に入れ替えて観る物語、例えば料理ひとつにしても、料理をやって料理の出来上がった後に、その一連が嬉しいかったか楽しいかったかを再度モニタリングするようなアプローチで、やることすることの課題は、自分にとってのためになる感情の状態気持ちの状況が最優先な

やることすることであると観て、自分の感情について気持ちについて気分についての前向きや明るさや居心地の良さを、計画し行動し見直して改善して又こう感じようこの気持ちに成ろうと又立て直し観るサイクルシステムを、これまでは行動だけに落とし込み心や気持ちを後回しに置き去りにして来た気がする人にとってはこれからの人生ヒントになり得るかもしれないとも考えて観ました

感情の中には、消化しきれず感じ切れず解放されず抑えたり無かったことにされたモノたちがいると時間が解決してくれず未消化のまま自身の中に沈殿して濃縮されるモノもあると言われています、そうしたある種の今度の休みには遊びに行こうよな、を裏切って先送りにして未消化にして閉まった仕方なくで忙しいからで閉じた物語たちが、長らく人生を歩んでくうちに自身のためにならない発酵や腐敗変敗に至り便秘になって自身を悩ませる苦しませる疲れて仕舞う原因になり得ると仮定した場合、行動の後に感情ではく、感情の後に行動、つまりは感情をやることすることとして意識に上げ行動は感じることにして観ることで、これまでとこれからの物語性に豊かな変化を促すヒントがあるかも知れないとも考えて観ました、何がいいとかわるいとか何が正解で得するのかというお話ではありませんが、その視点を無視して生きるのは困難に想える物語性もある中で、逆にそれらの視点を否定するのではく活かしていく物語性を編むことが可能だとすると、自分にとっての感情について感じ切るかどうか味わい尽くしたかどうか感情に後腐れなく後悔するような物語はないかどうかの指標として参考程度にして観ると、自分自身が丁寧に取り扱って来なかった感情との付き合い方に誤解が溶けて感じなくなってしまった嬉しい楽しい大好きと仲直りする物語性について考えて観ました、何故人はイライラしたり妬んだり恨んだり罪悪感にしても他者に対しての羞恥心にしても感じてしまうのかの要因に、嬉しい楽しい大好き気持ちいい心地良いをやり過ごし後回しにして先延ばしにし過ぎた結果、それらたちが、観てほしい忘れないでほしいと自身に伝えるために表現を替えた形とも考えられる物語性を知ります、身体的に動き過ぎて忙しい過ぎて疲れて終う物語もある中で、その疲れるが語りかけてくれる物語の中にはひょっとするとそうした二次的な感情のように、嬉しい楽しい大好き悲しみも含めて未消化な状況を気付くきっかけになり得るとしたら、疲れた現代人を癒やすものは身体的な休息と一次的感情の取り扱いについて見直して観る機会が訪れているかも知れないと考えて観ました、しなくちゃいけないことなんて、そもそもないのかも知れません、わがままや身勝手や人生を生きるヒントにする教えもたくさん溢れている中で、それらを行動で観るのではく、自分の気持ち感情で考えて観ることが可能ならば、わがままな身勝手な他者への思い遣りのない行動を心がけて人生を上手く乗り切ろうとするよりは、とりわけ抑えつけたり我慢したりないことにして後回しにしてきた自分の感情について想い出し、もっと或いは又多少これまでとは違う嬉しい楽しい大好き悲しいなどなどたちをわがままにする、いわゆる自分がままにありのままにするアプローチ又観方がヒントになり得るかも知れない物語

わがままに身勝手に他人のことなんか知らないしで、めちゃくちゃ嬉しいかったり楽しいかったりワクワクするならたぶんいうことない自身に適した物語性がそこにある気が致しますが、それが返って又新たな悩みや苦しみや生きづらさや、何かしっくり来ない直観をえるなら、本屋さんに今ありふれた、頑張る生き方も頑張らない生き方も他者を自分をどう観るかの様々なヒントも自分なりに合う居心地良い物語性について参考として噛み砕いて自分のモノに消化して観るのもいいかも知れないとも想い観ました、情報はありふれてそれも又疲れて終う物語性がある中で、本屋さんが無くなってく物語性の中にある意図があるとすれば、メディアを絞る人々が情報に触れる機会をスマホやネットに集約してゆく秩序の構築物語がもしもあるとしたらば、これから人はましまし偏った情報や偏見や価値観に縛られて仕舞う可能性も一概には言えませんがありそうな中で、行動がすべてではなく、自分の感情気持ちも置き去りにして来た未消化があるのだとしたら、ちょいとは最優先して観て上げる物語も頑張るしかしらない人たちへのヒントになり得るかも知れないと考えて観ました

以上

大変失礼致しました

本日もよきかな一日をどうぞ

ありがとうございました