ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ -3ページ目

ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

ライン河沿いの古都、ケルンの街角から送る、人々の歌声をつづる日記

アラッドは、人口20万人の中都市である。

夜11時半も過ぎた頃ようやくそれらしき街の中へと入ると、

まず白く瀟洒な感じの時計台が立った市庁舎が

目に入る。

工事中の線路や、道路がやたらと目に付くが、

一見して昼間の活気も覗えるような、

ヨーロッパの街らしい形態をなしていて、

ドラキュラでも出るのではないかと半ば

冗談半分、本気半分に期待していた

トランシルヴァニア地方へのそこはかとない

不安交じりの想像は瞬く間に消えていった。

車はとある殺風景な駐車場に止まり、

そこには首を長くして到着を待っていたであろう、

今回私を招いてくれたヴィオラ奏者の

クリスティーナが、止まっていた隣の車からすぐさま

飛び出してきてくれた。

クリスティーナの住むアパートに到着すると、

そこは意外にも、豪勢にリビングを囲むようにして

計4つの部屋と二つの洗面所があり、私は一番東側の、

道路に面したこざっぱりした小部屋を使う事にした。

バルコニーの出ている窓の、ブラインドを少しめくってみると、

外は道路と市電の線路が二重になっていて、

目の前に丁度通行人が足を止めてこちらを

見ている。

目が合ってすぐにブラインドを閉じたが、

1分後にもう一度それをめくって覗うと、

その老人はオレンジ色の夜明かりに照らされて、

さっきと全く同じ姿勢でこちらを下から見上げていた。

私にとって東の果ての国、ルーマニアでの時間は、

そうしてスーッと空気が沈黙する、深夜から始まった。


クリスティーナ・ポップは、1982年生まれ、

共産体制が崩れるまでの7年間、家族で

アラッドから数十キロ離れた田舎に暮らしていたという。

「極めて平和な子供時代で、ありがたい事に

政治的な軋轢は感じないで済んだ」

という彼女は、朝、冷蔵庫から

コーヒーに入れるミルクを取り出しながら、

無邪気に言った。

「見てカナデ、これが私たちの冷蔵庫、

1980年代から家が持っていたものなの。

何がどうって訳でもないけど、でも、

『共産冷蔵庫』って感じでしょ」

言われて見ると、確かに至って普通の冷蔵庫である。

機能的には何も現代のドイツ製冷蔵庫と

何ら変りは無いのだが、

扉を開けると、とにかく中が棚に分かれてもいず、

明かりが点くわけでもなく、

文字通り「冷やすための庫」というだけの代物で、

何となく寒々しさを感じさせる。

「どう?ルーマニアっていう国の第一印象は」

キッチンの縦開きになった窓を通して吹き抜ける、

何となく砂ぼこりが交じった風を感じながら、

私は外へと目をやっていた。

「うん。未だ分からないけれど、

ここへきたって言う実感は、空気で分かる。

いずれにしろ、期待で一杯でエキサイティングな気持ち」

と応えると、25歳のクリスティーナは、

「ねえ、どこを向いても工事現場ばっかりでしょ。

この国って、何でも進めるのが遅すぎて。

見届けてたら一生終わっちゃいそう」

と言った。

それでも何より、

初めてのいわばデビューリサイタル前の彼女が、

緊張と高揚の中にも、国への愛情と故郷に帰ってきた

安堵とをにじませているのは、

大量のパンやハムやチーズ、クラッカーやオレンジ

などの朝食を用意する、弾むような手つきからも分かる。

「あーあ、だけど正直、カナデが来てくれるまで、

どうしようかと思ってた。ストレスたまりまくりでね。

実家に帰れば、両親はやたらに気を遣うし、

街へ出れば、いろんな人から、

「今度のリサイタル、楽しみにしてるね」

って。三歩歩けばだれかに会っちゃう。

新聞には大げさに、「クリスティーナ・ポップ・

地元で初のデビューリサイタル」

なんてデカデカと載っちゃって。

お父さんはルーマニア正教会の祭司で、

街中の人たちを招くは、会う人会う人皆に宣伝するは、

もう、盛り上がっちゃって大変。

挙句に大司教まで呼んじゃったって言うし!

私の出た音楽高校の先生方は揃ってお出ましだし、

ねえ、これで失敗でもしたら、私一体どうなるの?」

・・・・ラテンの純朴な東ヨーロッパの人々も、

やること思うことは一緒である。

ある名ピアニストが、東京で弾く私に向かって

「出身地で弾くのが、何より一番キツイよなあ」

と同情交じりにつぶやいていたが、

とにかく「地元デビュー」をする若いヴィオラ奏者にとって、

記念すべき、未知の経験であるのは確かで、

その小さな心の叫びも、想像に難くない。


アラッドの街が誇る、最大の文化施設、

「フィルハーモニー」ホールにリハーサルをするため

出向く。

この街の朝は、「喧騒の渦」の象徴である。

2月の終わり、春の兆候も見える外気のやわらかさの中、

殺伐とした外壁に囲まれたアパートを出ると、

「ったく、ここのスーパー、改装されると言って閉鎖されったきり、

何年も閉まりっぱなし」

「この道路の舗装、ちゃんとやってよね、

車がホコリまみれになるじゃない」

と、普段からこうして車の中で独り軽く悪態をつくクセが

あるらしいクリスティーナの車は、3分ほどで

大通りに出た。

車の往来は、豪快且つ、比較的乱暴で、

また何となく無礼なのだが生き物の走る姿を

模倣したようでもある。

すなわち、標識や信号や、ルールを重んじるよりも、

「動物的で」「遠慮の無い」非理性的な、

自然発生的な思いつきで操作をする車が目立つのである。

その中で、目の前を、ド派手なスポーツカーの天井を開けて

大音量のロックを流しながら奇声を上げて

走り去る若者がいた。

「あいつら、勘違いも甚だしい。

ルーマニアでも『こんなにかっこいいぜ』

って所を見せたいんだろうけど、

この国でそんなことしても、

かえって全然似合ってないんだよね、成金!!」

と叫びながら、彼らと逆方向にハンドルを切る

クリスティーナ。

しかもあろう事か、

フィルハーモニーの前、国立公園の近くに来ると、

裏通りを堂々とど真ん中に停車し、運転手が見当たらない、

いわゆる「乗り捨て」状態の車に出くわす。

「有り得ない・・・」

思わずつぶやきながら、

そのある意味見慣れない「欲求への正直さ」

あるいは「紛れも無い野放図さ」に半ば感心していると、

ちっと舌打ちをしてハンドルを大きく切り返し、バック

し始めたクリスティーナが言った。

「いいや、有り得るのよ、この国では!!

なんだって有りなの、『ルーマニアだから』!!」


街が誇る「フィルハーモニー」のピアノは、

ドイツ・ライプツィヒ製のブリュートナーの

コンサートグランドだったが、

いかんせん状態が悪く、どのくらいメンテナンスをしないと、

あるいはどのくらい破壊すると、こういう音になるのか疑問、

と言ったレヴェルの代物だった。

「音程が合わせられない」

と言って、ホーっとため息をついたクリスティーナは、

「主催の責任者に掛け合ってくる」

と言い残して、ヴィオラを置いてしばらくその場を離れた。

ペダルを踏みもしないのに、あちこちで音が残って

とんでもないハーモニーを生み出すピアノに触れながら、

ピアノの性質の弱点を制覇し、

長所を探す手立ては無いものかと思案する。

ピアノ奏者にとっての舞台での仕事の第一歩は、

言うまでもなくその日の「手強い相手」である

ステージに乗ったピアノの性質を知り、対策を練ること

である。

しかしペダルがふみっぱなし状態では、

対処の限界がある。とはいえ、結局

ブラームスはブラームス、その条件の中で

彼の音楽を最大限奏でる以外に無い。

息せき切って帰ってきたクリスティーナは、言った。

「ゴメン。主催者が言うには、

オーケストラ公演をする大ホールの方に

このピアノを引っ張っていった結果、

戻すときにいろいろ壊しちゃった形跡があるって。

さっき主催者も音を鳴らしてみて、さすがにショック

を受けたって。

今日調律に来てもらって何とかベターにするように

務めるからって言ってる」

一度言葉を切ったクリスティーナは、

もう半日のうちで何度聞いたか分からないほど口癖になっている、

「ルーマニアだもん。これが元共産圏のピアノだよ」

を最後に口に乗せて、

やっと各席からヴィオラと弓を手に取った。


リハーサル後は、午後2時ごろ、少し遅い昼食を取るために

クリスティーナの実家に出向く。

玄関が既にダイニングルームと兼用の、

シンプルな造りのフラットは、その先に書斎、

寝室、クリスティーナがもと使っていた部屋、と続き、

その何の秘密も持たず全域を開け放たれた細長い空間が、

陽もほとんど当たらないのに妙に清々しかった。

書斎にはキリストとマリアのイコンが飾られ、

あとは壁一面の本棚にぎっしり詰まった本と、

しっかりした造りの書き物机の上にドンと置かれた

コンピュータがある。

奥の元クリスティーナの部屋には、

これまた音程が半音下がった飴色のアップライトピアノ、

そしてペルシャ絨毯が敷き詰められた上の家具調度品の

一つ一つが、ルーマニアの民族工芸を思わせる

ロマンティックで凝ったデザインをしていて、

モザイク模様が彫りこまれた古い木のベンチには、

贅沢な手刺繍を施したクッションや、

カヴァーが掛けてあった。

ダイニングではいそいそとクリスティーナが、

昼食の用意をしている。

「母特性の、チョルバ(野菜を細かく刻んで、

卵が入ったスープ)と、

サルマーレ(ロールキャベツ)」

だと言う。

ルーマニア料理の代表選手といえるそれらは、

「女性が一人前」だと認められる為の試金石のような

メニューで、煮たお米と豚挽き肉を

酢に漬けておいたキャベツで小さくくるんでスープで

煮込む「サルマーレ」は見た目以上に手間隙が

かかるらしい。

一口入れると、絶妙なハーモニーを醸すお味である。

ほのかな酸味と、お米でつないだ柔らかい挽き肉の

フィリングが口の中で崩れるようにとける感触が、

初めての感覚で、なんとも温かい気持ちになれる、

「母の味」である。

様々な種類があり「これがそうだ」

とは言えないほどヴァラエティに富んだスープだという

「チョルバ」も、丁寧に切り刻んだ野菜のうまみが

溶け込んだ、優しい味だ。

これらを前日に作り、冷蔵庫に全てしまい、

銀行の法律関係の仕事に従事する母は、

毎日8時に家を出て行く。

「私が出会ったときから」

という言い方をクリスティーナはした。

すなわち、物心ついた時から、

「母はそういう人だった」

という。

「自分の事は二の次で、他人のためにだけ何かをし続け、

怠ったことがなく、またそれに対して愚痴も言わず、

そしてそれに人生を賭している」

そうこうするうちに、

祭司である父、ヴァシレ氏が帰宅した。

「ホーレ、ケーキを持って帰ったぞ」

という祭司服を身につけた一家の主の手には、

ただいまお葬式で喪主にいただいたという、

ピンクや薄いグリーンのクリームで飾られた

スポンジケーキが紙皿に乗せられてあった。

そして私を見るなりドイツ語で、

「ようこそお越しくださいました。クリスティーナの父です」

と丁寧に言い、続けざまに、

「日本人だっておっしゃるから、もっと違う人を

想像してましたが・・・だってね、貴女よりも日本人ぽい

顔のルーマニア人も知ってるし、

何処か貴女、日本人って言う気がしませんね」

と自己紹介も早々に、

流れ込むように屈託なく会話が始まった。

ええ、そうですか、典型日本人だと思うのですけれど、

と応えたいぶかしげな私とクリスティーナに、

じゃ、ホラ見せますよ、私の日本人のイメージを、

と言って無邪気に見せられたその写真は、

北京オリンピックを前に世界に発信されている

コンピューターのクイズからの画像で、

男女交えて10人以上の中高校生たちだった。

特筆すべきはどう見ても同じ遺伝子から生まれたと

しか思えないほど酷似したその10人の表情で、

皆糸のように目が細く、また笑顔の作り方もほとんど

一緒で、誰が誰だか全く見分けがつかなかった。

「アジア人の顔とは」

というスタンダードを示したつもりだろうが、

そのクイズの質問内容は

以下の通りらしい。

「この中で、男子は何人、女子は何人でしょう」

「誰と誰が兄弟でしょう」

男女の区別もつかぬほど似通った10人に、

兄弟わけなど出来ようハズが無い。

今、チベット弾圧問題が爆発して、

中国のオリンピック開催は世界の物議を一挙に

醸している時勢、こんなクイズで笑うのは

不謹慎とも言われようが、

このちょっと人を食ったようなクイズはしかし、

アジア人の風貌の特長を極めた人々の

集大成、それも全員がウリ二つならず

ウリ10個、といった感じで真に迫っている様子が、

なんとも可笑しかった。

祭司の父とヴィオラ奏者の娘のルーマニア人親子と、

中国より更に極東のアジア人である私は、

ひとしきりこの画像を上から下から嘗め回すように見た上で、

本番前の午後の台所にて、

ああでもないこうでもないと議論しながら、笑いを

止めることが出来ないでいた。



続く














東京でのリサイタル後、

実家でご来場の方々へ御礼状を書いていた際、

それを通りかかって覗き込んだ父が言った。

「ふーん。東京を故郷、と言うのかね。

東京出身のほとんどの人にとっては、

自分たちには故郷が無い、という概念に

なってるらしい。

アンタは東京を出て行って、別の国に住んでいるからこそ

そういう観点に立つんだな」

言われてみれば、なるほど、そんなものかな、

と思う。


久しぶりに訪れる「生まれ故郷」は、

満開の花の、そこはかとない桃色に彩られた、

特に皇居を中心とした整然とした

町並みから大きな感慨をもたらす。

しかし実のところ、日本に対する、故郷とか、

祖国という自覚は希薄な方だ。

おそらく前世は日本でないところに生まれた

と頭の片隅で信じている私は、

かなり幼い頃から世界の東の果ての島国で、

決して居心地が良いとは感じていなかった。

理由の一つに、私が生まれたときに付けられた

名前が大きく関係すると思う。

「珍しい」イコール「非常識」「奇異」と映りがちな

この国にあって、

自己紹介をする際に毎度「?」顔で見られる

経験をすれば、子供心にも、

必然的に自己のその土地での存在理由を

疑う要因になるだろう。

実際自己紹介にのぞむときのそこはかとない胸のつかえは、

大人になった今でも降りない。

だからこそ、初めて名前を名乗ったときの人々の

反応で、失礼ながらある程度人の容量、器を

判断してしまうクセがある。

「え?」といぶかしげに聞き返されるのが私の名前のせい

だとしても、それは決して気持ちの良いものではないからだ。

印象的な一シーンが、私の脳裏に焼き付いている。

桐朋の学生時代、指揮者の大友直人さんに

一度だけお目にかかかったことがある。

ピアノ科の3年先輩のNさんが、当時大友さんに指揮法の

レッスンを受けていて、私は指揮伴、すなわち

指揮の練習用ピアノとしてかり出されたのである。

指揮伴は交響曲を弾くため通常二台ピアノで行われるが、

もうお一人のピアニストは朴(パク)さん、という方だった。

レッスンに出向いた際、名前を名乗ってご挨拶をすると、

大友氏は、

「はい、パクさん」

「ジョウホウさんですね」

と、事も無げに私たちの名前をこちらが言った通り繰り返し、

全く「?」の入る余地を残さない屈託のない握手をして、

そのままスッと和やかにレッスンに入った。

その顔色が一分も変らない無駄のなさは、目の前の著名な人が

とてつもない多くの場面を乗り切って得た人格の器の容積を、

瞬く間に目の前に広げられたかのようだった。

たかが名前、されど名前、なのである。

以来、人の名前を聞いたときに

自分が聞き慣れず覚えられないからといって

顔をしかめるような事だけはすまい、と思うのだが、

これが意外に、人間が据わっていないとかなり難しいことである。

レッスンのあと4人でお食事に行き、

「今日はN君のおごりですよね」

と言って未だ若い学生だったNさんを少々慌てさせ、

食事が終わる頃には大友さんご自身がいつの間にか

全てお支払いを済ませていらっしゃったということも、

スマートさ極まれり、15年近く経った今でも忘れられない。


音楽界の巨星ダニエル・バレンボイムとパレスチナ人評論家

エドワード・サイードの対談集「相似と相反(みすず書房)」

が手元にある。

最初の章で既に目に付くのが、「アットホーム」すなわち、

自分がどこに居ると居心地がいいと感じるか

について語られる場面である。

バレンボイムは、

「ピアノが弾けるところならどんなところでも」

と応えたのち、

「僕がどこかで自分の家に居るような気分になるとすれば、

じつはそこに移行(トランジション)しているという

感覚があるからだろう。流動性という観念と

しっくりいっているときが、

僕は一番幸せだ(中野真紀子訳)」

と述べている。

これは、ロシア系ユダヤ人として

ブエノスアイレスに生を受けた、

また音楽家という果てしない長旅の連続のような

人生を送る巨匠の、偽らざる感情なのだろう。


日本に居ても、

「祖国感」が薄い私は、「戻ってきた」

という安心な感よりは、他の国に行くときと全く同じく、

「別の場所からやってきた」という不確かな

感覚に襲われることが多い。

諸々の事情が重なった、一種の先天的病ともいえる。

そういう意味で、精神的に帰るべき確固とした土地を持たない

私は、偉大なバレンボイムのそれになぞらえることは

憚られるものの、やはり「流動性」に身を任せることが幸福で、

またそうせざるを得ない人間の一人に入るかも知れない。


移動することが日常の一部になり、

各土地で音楽をする機会に少しずつではあるが

恵まれてきても、やはりどうしても払拭しきれない

感情がある。

「私は西洋音楽をしていてもいいのか」

という漠然として、時折首をもたげる、

喉の奥に骨がつかえるような

根本的な問いである。

物心ついたときから、繰り返される、

あるいはこの道を進めば進むほどにより色濃くなる

その問いの陰影。

しかしそれが決定的に和らぐきっかけとなった出来事が、

2月終わりのルーマニアにあった。




ブダペスト・フェリヘジ空港(ハンガリー)から、

少し車で走ると、ルーマニア方面に向かって

寂びれた農地の間を、行けども行けども細い一本道が

続いている。

暗闇の中で、車が前方から来ないのを見計らって

対向車線へと果敢に飛び出していく乗り合いバスの中で、

「とうとうここまで来てしまった」という想いが、

私に不安のため息をつかせた。

フェリヘジ空港から2時間ほどでルーマニア・

ハンガリー国境の街、

アラッドに到着すると言われているのに、

両脇に侘しい街路樹を囲わせた道路は、果てしなく

延びるばかりである。

「ここまで」のここ、とは、言うまでもなく

私が今まで訪れた中で最たる東ヨーロッパに当たる

ルーマニアという旧共産圏の国のことである。

自分が極東から来ておいて言うのもなんだが、

やはり旧共産圏の国、しかも子供心に記憶に焼きつく、

チャウシェスク政権打倒の革命をやってのけた、

この東ヨーロッパ随一のラテン民族の国家は、

やはり足を踏み入れるのに今でも私を躊躇させる

何か特異なものが目前に漂う気がしていた。

ブダペスト空港で、他の乗り合いの数人のお客を

待つために、一人の初老の男性と時間つぶしに

マクドナルドに入った。アメリカの親戚に3ヶ月間世話に

なっていたというアラッド出身、

現役時代スポーツカレッジの教授だったという彼は、

真っ白の頭に少年のような笑みをたたえるのを

突然ぷっつりとやめ、こう言った。

「全く、これから貴女が初めて訪れる国、

我が祖国ルーマニアというのは、

アルバニアに続いて貧民国ヨーロッパ第二位と

きていますからね。

・・だって貴女、私の大学の退職金は、

300ドルだったんですよ・・・。

それで一体、どうしろっていうんですか、この先。

はっきり言ってね、チャウシェスクを倒してからの

この20年近くというもの、我々の暮らしなんて、

何一つ変っちゃいない。いやそれどころか、

全員がある程度生活を保障されていた共産時代に

くらべて、悪くなったところもあるくらいでね。

イリエスクもコンスタンティネスクも、

何にもしちゃくれませんでしたよ」

そして彼は、ホーっとため息をついたのち、

急に思いついたかのごとく根強いラテンの人懐こさを再び取り戻し、

花の様に笑って言った。

「それにしても今日は良かったですよ。

こうして思いがけず日本人のお嬢さんと久しぶりに、

英語を話す訓練が出来てね・・・

実を言うと、アメリカでは、親戚のヤツが、

全てルーマニア語で済ましてくれてたから、

3ヶ月間ほとんど英語なんてしゃべらなかったんだ」


車はある街へと入った。

「死んだように」静寂というより衰退を思わせる

その建物の連なりは、いよいよハンガリー・ルーマニア

国境のようだった。

夜の闇から、警備隊に射るように目を一人一人覗き見られる

国境監査を越えると、ルーマニアの草原を少し走り、

またもや死の淵を思わせるような落ちぶれた街の片隅で、

イギリスでビジネス交渉を終えたという

一人の女性が降車していった。

闇の中に消えていくその女性を見送って、

私たちは更に一時間ばかり無言でアラッドへと進む。

暖かい車の中はひっそりとして、

ラジオがひたすら政治情報を伝えるのみだった。



続く

















2月5日スペイン、海岸沿いのカルタゲーナ

(スペイン語読みでは、カルタへーナ、と発音するに近い)の、

物静かな入り江で、人々がその薄い潮風ににさらされながら、

食事をする音のみがやたらに目立つかのような午後の

レストラン。

魚介がふんだんに乗ったパエリアの蟹の身を、

苦心してほぐしながらその恵みを味わっていると、

ヴィオラ奏者のネリーが言った。

彼女はドイツ・ケルンで嘗て勉強したこともあるそうで、

使用言語はドイツ語である。

「このレストラン、私もおととい初めて人に教わったんだ・・

このさほど『盛況』って感じのしないところからみても、

地元民も、知らない人が多いんじゃないかしらね。

穴場っていう感じかな」

適度にすぼまった形の、

周囲に崖が張り巡らされた海岸は、未だ季節が

一応「冬」に属するからか、

観光業にまみれた感じが微塵もせず、

澄んで波打ち際まで幾層にもエメラルドグリーンを広げた

水辺は、至って「プライヴェート」な空間を醸し出し、

その証拠に人々はほとんど黙って、

波の方に一様に背を向けて、

フォークやナイフの音を響かせ続けるのだった。

私は前日にここでリサイタルをし、

その慌ただしさと、いつものように夢遊病のような

「本番」という異空間を終えて、身体が浮くような

感覚を覚えながらも、どこかで当然ホッとしていたし、

初めての国スペインで空いた一日の食事が

つつがなく楽しめる事に満足し、

その全てをアレンジし、提供してくれた

周囲のスペイン人たちに感謝もしていた。

そんな私を見透かしたかのように、ネリーが続ける。

「ねえ、カナデ。ドイツ人って、何で老後ここに来て、

生涯のんびり過ごすことばかり考えるの?

彼らのほとんどは、現役時代最も稼いで、

活躍して、自国で社会に貢献した人たちばかり。

それで居て、ちょっと年取ったからって、

南の我々の国に来て、海岸に家買って、

その後の人生、ずっと何もせずボーっと異国で

時間を無駄に消費するのよ。社会と一切の鎖を断って、

スペイン語のひとつも話さずにね!

・・・そりゃ、私たちだって海を限りなく愛してるわよ。

だからって、私にはその精神構造と

そしてそれを実行する人の数の多さが、

信じがたい」


前日、

「ホラ、こうしてね、年中太陽にさらされて、

心も身体も温まって、

果物や魚介に溢れて、

粋な人たちにに囲まれて、

そうして私たちは働くことを少しばかり引き延ばしたり、

忘れたりしがちなのよ」

と言った、同じスペイン人が今日言うことがこうなのだから、

人種というもののイメージは、例え大雑把にでも、

一面では全く捉えきれない。


スペイン出発時は、前日まで仕事が詰まっていて、

しかもフライト時間が早朝5時だったため、

一晩一睡もせず飛行機に乗り込んだ。

機内で寝たとは言え、睡眠量と質は、

たかが知れている。

その日だけでなく、近辺睡眠不足が続いていたのは、

「異国」への過大な期待感や、

それを知らない事による贅沢な「不如意」

(どうして自分がそこへ今から乗り込んでいくのか、

あるいは行かねばならないのか、と言う

理不尽な気持ちの交じった不安感)

によるものだったらしい。

そんな思いを未だ抱え続けたまま目覚めて、

航空機がこの国の端に近寄り、

雲を突き破って海から陸を満遍なく

眼窩に映し出すようになると、

そのチョークで書いたような海岸線や

乾ききって何段にも分かれて色を違えた地層の連なり、

輝ける漁船の帆先、などが

その全容を惜しげもなく機上の人々にほの白く燦然と

さらした。

そしてその瞬間、

「太陽に祝福された大地」

に訪れる者(私は初めて、機内のドイツ人たちは、

それが休暇なのか仕事なのか何度目か何十度目かは

分からないが)のアッと息を呑むような、

声にならぬ嘆声が周り中から否応なく漏れるのを、

私ははっきりと聞いた。

ゲーテが常に南を、イタリアを賛美し、それに執着したことも

トラウマか習慣のようになり、

ドイツ人の太陽熱に対する憧憬の念は、

過剰とも言えれば、今も昔もありきたりであるとも言える。

しかし、飛行機に乗ってほんの2時間ほどで、

吹雪く明け方のデュッセルドルフ空港からこの

白光の大地にありついた途端、

それもむべなるかな、という気が芯からしたのだった。


初めての異国では、

私の中での常識はいろいろと覆った。

まず、伝統に則って(というより身体が自然と要求し)

普段は習慣に無い「シエスタ」なる昼寝を存分に実行し、

夜からやっとピアノにさわり始める。

翌日は、一日計5回の食事をするとまで言われる

この国で最も重要な意味を持つ、

ランチ時間のパーティに呼ばれ、

本番前日だったけれども迷うことなく参加した。

何が理由か、「人の呼ぶところ、必ず行かねばならない」

と納得させるだけの空気が漂う、

ここスペインなのである。

日曜ともなると、お昼が2時ごろから6時ごろまで

のんびりと決行されるこの国では、

アンチョビの酢漬け、海老のサラダ、

セロリのブルーチーズボート、などの前菜から

始まって、手のひらの半分ほどもあるムール貝に

手づかみでかぶりつきつつ、

鯛のメインディッシュオーブン焼き、へと入る。

ジャガイモのソテーが脇役のその一皿後は、

30、40代の二組のカップルがそれぞれの

自慢のデザートを披露する。

一つは、リンゴとレーズン入りのヨーグルトクリーム、

もう一方はココアの粉を振った、フランス風の

パイナップルとキウイのババロアスフレで、

両皿とも、「親の世代から伝わった得意レシピ」

だと言う。

美味しいものに付随するのは、

燦燦と窓辺に降り注ぐ陽射しと、

賑やか極まりないおしゃべりだ。

私と話すとき、メンバーは一様に英語がさほど得意でないから、

「このお菓子の材料は一体何?」

なんて会話になると、

「ええっと・・・動物の脂肪!

そんなんじゃダメか。ベーコン、って事に

なっちまいかねないな」

と言って、全員が屈託なく大笑いになる。

「我々の国スペインは、ヨーロッパの南端、

陸の孤島なんだ。どうも、

外国の情報が入りにくい環境にあるのも手伝って、

自分たちの殻に閉じこもりがちで、

したがって外国語の必要性も問われず、

上達もしない、っていう悪循環ね」

という彼ら、「なーんだ、島国日本と似ているじゃないか」

という話に移り、

それから王室存続問題と日本の皇室との比較、

隣国フランスやドイツが猛反対したにもかかわらず

決行されたイラクへの軍備派遣問題、

テロリズムと社会、など、総選挙直前の

現在の人々の話題を独り占めしている諸問題へと、

朗らかに進んでいった。

結果、1500年代後半、比較的早い時期に、

果敢にも次々と日本に乗り込んで

カトリック布教や貿易を推進してきた

このヨーロッパ最南の国と我が島国との共通点は、

決して少なくないことが、程なく判明していった。


本番当日は、ピアニストで、

カルタゲーナ音楽院の講師をしている、

マルガリータ・ドミンゲツの自宅の、

イタリア式のコーヒーマシンで淹れた香り高いカフェオレから

始まる。

「ドミンゲツ、はね、ドミンゴの息子、

という意味なの。ドミンゴっていうファーストネームの祖先が

居たのよ、家の家系には。今じゃ、誰の息子、

なんて言い方はせずに、

ただ単にその苗字を代々受け継いでいるだけ。

因みに、ドミンゴっていうのは、日曜日のことね。

かの有名な歌手のドミンゴは、ミスター・日曜日さんってこと」

と言う彼女は、情熱の国、スペインが生んだ、

熱血漢でエキゾチック美人。

「私たちはコケティッシュ、

カラフルな服やアクセサリーで自分たちを

演出し、男の人たちに目配せするのは得意。

でも、決してプレイガールじゃないの」

というセリフをするすると口にすることが許される、

スペイン人女性の特権を持ち合わせた人だ。

彼女のエネルギーは朝から炸裂していた。

「次の選挙は、知っての通り前回4年前のテロの混乱の

さ中にあった選挙の後だから、もの凄く期待と関心が

高まっているの。私は絶対に保守派はイヤ。

カトリックの不健康な縛りつけを強いる政党なんて、

もう古すぎる。

無条件の離婚や、同性愛を認めた革新的な社会党に、

何としても勝ってもらわなくちゃ」

そうして彼女は、紙を持ち出してきてやおら、

その他左翼共産党をはじめ、

カタルーニャ地方の右翼政党「ER」、

「エウスケラ」というスペイン語と一線を画した

独自の言語を話し、スペインからの独立を要望している

バスク地方のテロ組織「エタ」と関係を持つ政党

「ANV」(公式には認められていない)、などについて、

表を作りながら話し始めた。

大きな内乱のあとで、

更にフランコによる30年の独裁を耐え抜いたこの国の、

貧困の極地にさらされたアンダルーシア地方にて

嘆きとその克服の表現として生まれたものに他ならなかった

歌謡と舞踊「フラメンコ」は、

その芸術の色合いを歴史と共により現代に向かって

濃くしてきたようである。

私は本来、本番当日には政党や選挙の講義は愚か、

「フロ・メシ」みたいな、ニッポン男児の

短縮言葉の象徴のような会話ですら言うのも聞くのも

節約しがちな傾向が在るくせに、

このときばかりは昼まで小一時間、彼女の

話に耳を傾けていた。

それもこれも、翌日海辺のレストランで

ネリーが言った言葉にどこか象徴されるように、

風光明媚な平和の国というスペインのイメージが覆されつつ

あったというのも大きい。

人々が近年まで抱えてきた困窮や悲劇は深刻だったがゆえに、

自分たちの生活を司る政治体制に

ピリピリとする程の関心と疑念を抱かずには居られない

その切羽詰った空気は、ドイツとは比べ物にならないほど

人々の屈託の無いエネルギーから、

肌で感じ取ることができる。


たとえそれが観光王国スペインであって気持ちが

何となく浮き足立っていようと、

一度の舞台に一念をかけるということは、

体力と気力を消耗するものである。

若年のお客さんが多かったカルタゲーナ音楽院で、

演奏後の、今までに味わったことの無い人々の特殊な反応の中、

「やれやれ、これは一種の闘いだな」

と胸をなでおろすと同時に、

その喜びと苦しみとどちらも天秤にかけるには

大きすぎて壊れるな、と思いながら舞台をあとにする。

そういえば出演前に洗面所に行くと、

丁度一人の少女が出てくるところにぶつかった。

栗色がかった金髪をした12、3歳の彼女は、

今日のプログラムを見てアジア人が弾くことを知っており、

その当人だと分かった瞬間に大きく目を見開いて、

まるでお悔やみを述べるかのように一語一語を区切って、

「頑張って」

と言ったのだった。

その祈りにも似たエールが、

さほど大げさなことでないのを知るのは、

いつも全行程が終わってあとのことで、

私は完全に拍手がやんでから、舞台袖でしばし苦笑した。


帰りの飛行機で、

「エア・ベルリン」の機内冊子を読んでいると、

現代の女闘牛士の記事が載っていた。

15歳にもならぬうちに、父親の闘牛の場面に

遭遇し、それに「魅了され」、

「自分は女性の髪を洗ったり切ったりする職ではなく、

闘牛士になりたいと強く思った」

という彼女は、インタビュアーの、

「牛の目の前に立ち向かい、それを結局殺すに当たって、

何を感じるのか」

という問いに、

「魔力、そして愛情」

と応える。

「闘牛は、牛と、闘牛士との間の、献身的なダンス。

そして、そのダンスの中で第三者の存在に当たるのが、死。

生と死、そして危機は、同じ情熱への、単に違う概念として

あるだけよ。

そして、闘牛士というのは、あえて他人がやりたくないことを

すすんでする人たちなの。それによってこそ、

観衆を恍惚に導くのよ。牛に向かうとき、

私はとてつもなく強い人格を持ってして、

一個の女性になりきるの。この魔力が常に、

私をその都度魅了する」


私の目の前にあるのは、

角を持って暴れる牛でもなんでもなく、

ただの大きな木の箱(楽器)だが、

それでも闘牛士とピアニストの職業の特徴には、

少し共通項があるような気がする。

このパッションと光に彩られた国の

伝統競技が、自分の命に別状があるところで

大いに一線を画しているにせよ、

「他人がしたくないことをあえてする職」

というところで似通っている、と思うのは、

私だけだろうか。

少なくとも、おそらく舞台に立った事のある人なら、

誰もが味わうであろうその「魔力」

というのは、捨て身であり、崖っぷちの

領域でしか存在しないことだけは確かなのである。

ギリギリまで追い詰められて、

それでも「愛情」を持って、

目の前の牛(それは対象物だけでなく

自分の精神でもあるのだろうが)を制する人だけが、

おそらく他者に初めて何かを伝えることが

できるのだということも含めて。


「一音一音を、命に係わると思って弾くんだ―

いや、実際それが、係わってるんだよ」


往年のピアニスト、フリードリッヒ・グルダの言葉より
































夭折願望、という言葉がある。

これを願う者は、言うまでもなくとてつもない自意識に

苛まれた、自己陶酔型の部類に入るだろう。

三島由紀夫は、常にラディゲを意識し、

日毎に老いて行く自分を如何とも許しがたかった。

結局彼がそれを達成するのは45歳のときだったが、

40代半ば、それもかっきり5という数字で逝った彼は、

まずまず自分の計画と実行力に満足して旅立っただろう。


作曲家の中にも、若くしてこの世を去った人はたくさんいる。

24歳で亡くなったルクーが私の知る限りにおいて

最も不慮の死を遂げた人になるだろうか。

モーツァルトが35年の生涯に書いた曲数と

溢れんばかりの楽想は正に超人の域をも超えているし、

伝説に昇華するに相応しい「夭折」ぶりであるのは

明らかだ。


31歳で生涯を完結したフランツ・シューベルトのソナタを、

東京のリサイタルで弾く。

この曲に11月ごろから本格的に取り組み、

1月のウィーンで始めて本番に乗せてみた。

最後に、連弾の友情出演をしてくれたピアニスト

パウル・グルダ氏は、

シューベルトが初めての曲で、

彼に客席で聴いてもらうと緊張するかもしれない、

と踏ん切りがつかずグズグズ言っている私を、

コインを投げて裏だったらホールに前半行かず、

舞台袖にいる、と気遣ってくれたのち、

楽屋でふとつぶやいた。

「シューベルトね、ふん。

オレ自身こういう曲は、未だ弾いてない。

いくらも彼の他の曲は弾いているけど、

終わりの方のピアノソナタだけはな・・・・

何と言ったらいいか、あえて避けて通ってるよ。

もうちょっと経ってからだな、といつも思うわけだ」


細胞の隅々まで音楽家であるグルダ氏をしてこう言わしめる、

たった31歳にしかならなかったシューベルトの、

最後の作品に手をつけるに当たっては、

私だってご多分に漏れず自分を納得させるだけの

理由が存在した。

その一番の理由は、

ついおととい終わったドイツ・アイフェル地方のコンサートで、

絶対にこの曲を弾いてほしいという主催者側の依頼があった、

という事による。

個人的にも至極親しい年上の友人、

マルゴット・バンガート夫人の60歳の誕生日を記念しての、

大掛かりなパーティの前座コンサート、

という企画だった。

彼女のこの曲でなければダメだというその願望の強さは、

一筋縄ではなかった。

曰く、

「今までの人生、辛いときも楽しいときも、

この曲と共にあった」

というのがその理由だった。

秋以降は忙しいので、それ以前の計画になかったこの曲を、

譜読みから始めるには骨が折れる、と

随分グズグズ迷ってはいたが、

結局腹を決めて、奮起して取り組んだのである。

結果的にウィーンやスペインのリサイタルで弾く曲も、

シューベルトに成り代わった。

つまり今回はそんな、

不可抗力的な理由によりこの曲に着手したわけだが、

いずれにしろ弾くに当たって立派な「訳」が

再三に渡ってあったのは事実だ。


何故だかこうして、

「訳」もなく弾くことが許されぬ気配が漂う、

ピアニストにとって真の厄介さを要求するこの曲の作者は、

あくまでも自らは無感覚のうちに高速度で成熟したのであって、

「夭折」の願望などありはしなかった。

モーツァルトのそれより更に理不尽な

年齢で世を去ったにも係わらず、モーツアルトほど

「夭折」の衝撃すら感じさせずに逝ったこの青年は、

死ぬということの実感も無いまま、

ある晩秋の日に命の炎を消した。

そして残された者に、到底古今東西存在し得ぬ、

長く影を引く恒久の深遠を「計らずも」無意識に

落としていった。

彼自身はそれと知らぬまま、

この世の任務をすっかり短期間に終えてしまい、

その奇跡を創造し、地球に送り込んだ

神によって再び、

あっさりと天に召されたのである。


この曲と様々な側面と、時間の流れを共にした今、

東京でもう一度弾くことのできる喜びに、

感謝で一杯になる。





上法 奏 ピアノリサイタル


2008年3月22日(土) 午後2時開演(1時半開場)

JTアートホールアフィニス

(地下鉄銀座線・虎ノ門駅3番出口より徒歩4分)


プログラム

ドビュッシー・ベルガマスク組曲

フランク・プレリュード、コラールとフーガ

シューベルト・ソナタD960

シューマン・リスト編曲「献呈」


全自由席 3500円

お問合せ先 オフィス尾崎 080-5082-1605

E/mail ticket-ozaki@live.jp




この社会保障アパートは、1924年から、

1928年の間に建てられた建造物である。

戦争でもびくともしなかったようだが、

一度大掛かりな補修が1980年にされたようだ。

公民館風のホールには、当地ウィーンが世界に誇る名器、

ベーゼンドルファーが堂々と陣取っている。

少しそれに触れただけで、

楽器の持つ特有の重み、奥行き、得も言われぬ深みに

二人とも魅せられた。

「音、いいねえ。それ、じゃあ、合わせ前に、まずは建物見学だな」

とのパウル氏の号令に、3人はひとまず主催者に挨拶だけして、

外に連れ立って出た。

パウル氏が、率先して案内する。

このアパートは、社会主義に則って、

贅沢ではないものの、この範囲で生活が賄えるよう、

行き届いた配慮がなされた住居である。

当時は床屋に八百屋、高い煙突を備えたランドリー棟、

そして果ては図書館や映画館まで設置されていた。

現在映画館は壊されて体育室の代わりとして使用されるに

留まっているらしい。

人間平等をモットーに、全てが不足なく支給されるかのようで、

人々が限りない不自由と無気力を強いられる社会主義。

ウィーン市がそれに一時期全力を注ぎ、

それの産物が今こうして良い形で受け継がれ、使用されている事に、

複雑な感情を覚えるのは、仕方ない。

アパート群は、真ん中には噴水や遊び場があつらえてあり、

コの字になった棟が左右に連なっていて、一種独特な威容を与え、

そびえ立つ、と言うにふさわしいその堅牢な高さと厚さが、

1920年代ウィーン市政の意気込みを物語っている。

アパートの各棟には、記念碑が設置され、当時の市長の名や、

設計に携わった建築家の名前が連ねてあるとともに、

当時競技会を持ってこの建築に当たったがゆえ、

5段階の等級のつけられた全戸1587の住居でできている、

と記されている。

「なんて堅固な住居・・」

とそびえるアパートに向かって言うと、

「あのなあ、日本に比べたら、ヨーロッパっていうのは

いつも時代も、安定した、しっかりした建築造ってきた訳よ」

とパウル氏が呆れたように笑って言った。

「日本ていうのは、昔から大きな建築物も木で

造ってきたって言うけど、それじゃ、いつか壊さなきゃしょうがないわね、

風通しもいいけど、気密性悪くて寒いでしょうしね」

と叔母様が言った。

日本に帰る度にその急激な変容振りに驚かされること必須だが、

ヨーロッパのように、執拗に先代の残したものを守り続けるよりは、

常に動いて、いまやどこからどう見ても

機能の最先端の我が国。

日本の精神というのが、

そのように過去への愛着よりは

実は進化や発展を好み、意外とさっぱり思い切りが良いというのは、

島国の、海に囲まれた危うい気候や地震などの地理条件により元来、

「夢うつつではかなく」

在る事を強いられた結果かもしれない、と改めて思った。

「待てよ。音楽が聞こえるぞ」

と足を止めて、私たちが砂利道を行くのを制したパウル氏、

こんな巨大な黙するアパートの一室から、

かすかに音楽を奏でる人がいたら、というのは、

芸術家パウル氏の少々ロマンチックな連想だったようで、

ラジオから流れる歌謡曲が、

春風のように穏やかな気流に乗って、窓から静かに

漏れていたのだった。

「一つのこれは完成された社会、村だな」

とパウル氏が言い、

「この建物の向こうは、もう、さっきの

『ゲリー』だか『オゲリー』に出てしまうよ」

と、グルダ家特有のセリフで締めくくり、

叔母様と私は低く笑った。


ホールに戻って、マフラーを解くと、

我々最後のリハーサルである。

「叔母さん、君はそこのロビーで待っててよ。

ほら、コーヒーの装置もあるし、お菓子だってあるじゃない。

タバコでも吸って、どうぞのんびり」

え?御歳80で未だタバコと来たか。

あまりにもそれが似合いすぎるところが、叔母様

ハイディ・ミリヤンさん、豪快な女性である・・

リハーサルが始まると、パウル氏が懐から

おもむろに文庫本を取り出して言った。

「ねえ、いいもの見つけちゃった。

今日の朝ね、偶然に本棚からパッと取り出した詩集が、

我々の今日の曲目(ラフマニノフの6つの小品・バルカローレ、

スケルツォ、ロシアのテーマ、ワルツ、ロマンス、

ロシア正教を讃え、

栄誉を意味するスラヴァ、という6つの作品より成る)

にぴったりなんだよ。運命的だね。

ヤジコフっていうロシア詩人、知らない?

ちょっと難しいドイツ語訳だけど、読んでみて」

渡された詩は、「ヤジコフ」なんて、なんだか

騒がしいものを連想させる名前からは程遠い

沈静の詩で、それがロシア人らしい内面的な嵐を伴い、

又精神の栄光へと導かれていく内容だった。

「ね?今日は、ロシアの冬って名目でね。

ロシア正教の合唱団と、ショスタコーヴィッチのカルテットも

呼んでるから、そのうちのだれかに、これをロシア語で

朗読してもらってから、我々の連弾を始めるぞ」

と宣言したパウル氏、続いて又懐から

何かを出す。

「感じ出そうと思ってさ、我々にインスピレーションを与えるための、

こんなものを更に家で発見したぞ」

得意気にダーん、とピアノの上に展示されたそれは、

なんと折りたたみ式東方の三賢人の像である。

一様にいかめしく口角を下げた三老人の姿は、

ピアノ弾きながら眺めるものとしては、いかにも

気が散れて、ふさわしくない・・・

「アハハ、ちょっとやめてよね、笑っちゃうじゃないのよ!

立てるなら、顔を聴衆の方に向かって置いてよね」

と言った私が大笑いしたのを見て取れば、ピアニストは

もう満足して、

「聴衆も、気が散れるな。多分、これは無しだ」

と言ってヒヒンと笑い、

そそくさと懐にそれを三つ折にしてしまい込むのである。

手品師じゃあるまいし、そこまで演奏前にパフォーマンスを

繰り広げなくてもいいんじゃなかろうか。

しかしパウル・グルダ氏は、その全血筋と存在にかけて、

あらゆる意味において

片時もエンターテイナーであることを怠らないのであった・・・


本番というものは、不思議なもので、

それが始まってみないとどのような展開が待っていて、

どのような感情とともにそれが動き、流れ、

終結していくのかは分からない。

聴衆のエネルギーや、共演者の出す気、

おそらく一人一人の人間の中に渦巻く世界が、

全て相俟って作り上げられる空間は、

そのときどきで唯一のものを生む。

「社会主義の象徴のこの建造物で、

社会主義が生んだ悲劇と、その概要を、

それに遭遇する前、あるいはそれに翻弄された、

ロシアの芸術を通して皆さまと一緒に考えたい」

と挨拶したグルダ氏の言葉とともに始まったコンサート。

間にロシア正教の力強く美しいアカペラの合唱を入れて、

3曲ずつ弾いたラフマニノフの連弾曲は、

こんな空気は二度とないと思わせるような、

社会保障住居から集った老人を中心としたお客さんの、

我々に一心に注がれるまなざしと集中する耳とを

痛いほど感じながらの演奏だった。

それに応えるべく、又隣のグルダ氏のひっきりなしに

発信されるシグナルとが融合して、一音一音に

何かしらインスピレーションを得ることができた、

稀有な経験だった。

席の一番前には、ハイディ叔母様の鋭いまなざしが光っていて、

それからも良い刺激をいただく。

ラフマニノフという身体的にも巨大だった、

ロシアの音の文豪が生んだ世界の一瞬一瞬に、

キレイに着飾った約100人ほどの溢れかえる聴衆は、

尽く反応し、その大河のように流れる熱気は、

簡素なホールの隅々まで、人々を包み込んだ。


本番が終わると、

楽屋のカバンの上においてあったプログラムが消えていた。

ロビーに出て行くと、ごった返すお客様が

極東から来た人間に人懐こく、情に厚く、

話しかけてくださる。

人の波ににもまれるうち、叔母様に出くわした。

「あら、カナデ、あんた、良くやったじゃないの。

なかなか興味深く、聴かせてもらったわよ」

と叔母様は、その低い背の丈から繰り出される、

力強い腕で私の両腕をガシっと掴んで、そう褒めてくれた。

「だけど、一体何をうろうろ探してるの、あんた」

と尋ねるおば様に、

「あの、プログラムの紙を失くしてですね、

どっかにもう一枚ぐらいないかと思って」

と言うと、即座に叔母様節が飛ぶ。

「だけどね、アータ、自分の名前と、自分の弾いた曲と、

一緒に弾いた共演者の名前ぐらい、分かるでしょ!

欲しけりゃあとで自分で書けばいいじゃないの、ね!」

それはそうなんですがね、そういうモンダイじゃなく・・・

叔母様、今日の記念に取っておきたい、

って言うのもあるじゃないですか。

そういえば聞いてなかったと思い、尋ねた。

「それはそうと、叔母様ご自身も、

やはりピアニストでいらっしゃいましたっけ?」

「違うわよ。あたしはね、自分じゃ何も弾かないのよね」

と言って言葉を切った叔母様は、

「だって、家の弟がね、親から才能ってものを、

ぜーんぶ取ってっちゃったんだからね!」

とおっしゃる。その言い方がすごく可笑しい。

「でもね!!」

叔母様は続けた。

「それは、ホーンとに、今考えると、好都合だったよ。

だってね、これが半分半分になってたらアンタ、

きっと、もの凄い詰まんない事になってたよ、ね?」

うーん、そう言われれば、そうなのかもしれない。

天才は一つの家庭からは、2人とは出ない、

と一般にはよく言われることである。

「だけどね!!!」

更に、叔母様はまたもや私の腕をシカと掴んで、

言い放った。

「あたしはね、本当に、音楽のことは何でも

知ってるよ!!カナデ、あんた、ドイツ語にはね、

こういう言い方があるんだよ、

『骨の髄まで』ってね。『骨の髄まで』私は、自分が

音楽的な人間だって、分かってるんだからね!!!」


・・・・圧巻であった。

世界は広しと言えども、一体、フリードリッヒ・グルダという、

並外れて全てが可能だった、そして生涯をその才能の海に溺れて、

自らそれを存分に享受し、しかもユニークな形で他者に分け与えて

燃焼しつくしていった稀な人物の、たった一人の実の姉のほかに、

このセリフを100パーセントの確信で口にできる人間が、

果たして有り得ただろうか。

否、である。


お客様に、パウル氏の友人のジャーナリスト、

というかたがいらして、その方と長くおしゃべりしていると、

パウル氏が肩越しに、

「ホイ、」

と声をかけた。

「今日の、お前の取り分」

と言って片手に握られたそのお札を、

私は結構です、と断った。

出演料は、全て聴衆のわずかな寄付金で、

パウル氏などはこれにかかわる全ての企画、

演奏、などを無報酬で請け負っているのである。

前々日にも快くほぼ無償で自発的に賛助出演をしてくれ、

多大な力をいただいた上に、今日も心づくしの

音楽の一日を、私のためにも用意してくれたのである。

「嬉しかったし、いい経験だったもの、そんなの要らない」

と言うと、

「何でお前?あんなに弾いたのに、要らないの。

ふーん、自分でケルン帰る交通費払いたいなら、

強制はできないから、そうしな」

と『グルダ風』に素っ頓狂に言って、

「そんじゃあ、この分は、カルテットと合唱団に

廻すな」と言った。それから、

「オレはこれから主催者と反省会せねばならないから、

とりあえず叔母さんに車で送ってもらえ」

と言う。

「え?でも叔母様、もっとパウルと一緒に居たいんじゃ?」

と言うと、叔母様自身が出てきて、

「いーや、そんなこと無いよ。

パウルにはね、今しがた、解雇されましたからね、

あたしは、あとはアータを家まで送って、帰るだけ。さ、行くわよ!」

となった。


帰りの車に乗り込んで、ハイディ叔母様は、言う。

「今日の演奏会の主催は、お客集めによくも

まあ、尽力したもんだ!聴衆がいなかったらね、

あんた、催しにも精彩に欠けるってもんだよ。

そしてね、あたしは思うに、それを機能させるのが、

最近どんなに難しいかってね、それは主催の努力、

手腕にかかってるんだよ。

今日の主催チーフに、褒めてあげたいね、私は!」

車は、打って変わって昼間と景色の違う、

闇のウィーンを走っていく。

その間、私は彼女のご両親や、

その祖父母の時代までさかのぼった、

グルダ家のルーツなどを聞かせてもらっていた。

ある信号のところで、叔母様は言う。

「カナデ!その前の道案内を見てちょうだい!

なんて書いてある?そこは何通りだって?」

目を凝らしてみるが、はっきりとは分からない。

「うー・・・通りの名前は、分かりませんねえ・・・

19番地、って言うのだけ見えるかなあ・・・」

「違う、17番地!!ダメだアンタ、この老婆よりも、

役に立たない」

知り合って5、6時間しかたたないのに、

怒られてしまうこの率直な老婦人の車中は、

しかし限りなく楽しい。

別れ際に叔母様は言った。

「そいじゃ、アンタ、くれぐれも元気でね、

又会う日まで。だけど、

ちゃーんと、ドア閉めてよ。

半ドアはイヤだからね。それじゃ」

お礼を言って、車を降りるとそこは横断歩道で、

丁度彼女の前を渡ることとなった。

車の目の前で、大げさに両手で子供のように

手を振ると、信号の明かりにほのぼのと照らされた

車中の叔母様も大きく手を振って、

しかしまた程なくしてパッとムッツリした真顔に戻り、

前を向いてしっかりハンドルを握り直した。































1月の2週目辺り、

ウィーンの街角を毎日うろうろしていた。

当地に向かう機上で

「現地ウィーンは、冬の真っ只中、

マイナス8度で、しかも、突風も吹いております」

とアナウンスされ、やれ到着してみれば

機長お達しの通り、ここはシベリアかと思うほどの

氷を含むような風が全身を覆った。

さすが、内陸の栄華の古都、ウィーンである、

寒さも半端ではない、と妙なことで感心していたら、

2日もすると、あっという間にケルンと同じく

生暖かい暖冬の気配がしてきた。

しかしこの街には、分厚いショールやマフラーを

巻きつけたウールのコート姿の男女が、

上手く溶け込むことこの上ない。

くすんだ建造物と、ゆっくり街を横断するレトロな交通網や

東から来たであろうポンコツ車が行きかう中、

海からはるか遠くの地球の内部に閉じ込められて

色を深くした眼差しを湛えるウィーン人、そして更に奥まった

瞳を持つ東欧からの移民が、ジッと風を避けるように、

足を止めてたたずんでは、進んでいく。

その比類なき古都の現代の風景に外国人として加わっていると、

一つのフレーズが何とはなしに

頭に浮かんでは消えた。


「何かにロマンを抱いたりを愛したりできるのは、

それを未だよく知らない者か、

知り尽くしたのちそれを失った者だけだ」


砂ぼこりにまみれる整備の行き届いていない首都の砂利道を

ノスタルジーに包まれて歩く私は、この街を知らなさ過ぎる。

そして文化の宝庫を脈々と受け継いできた

ウィーン市の人たちは、そんな悟った風情をして誰もが

黙然と歩いている、そんな気がした。


今回一回目のソロリサイタルが行われる会場、

ウィーン音楽劇場協会の建物を、

リハーサルを終えて出たところで、

「マイナス8度って脅された割には、

生ぬるいなあ、ウィーン」

とつぶやいた私に、当地在住のピアニスト、

パウル・グルダ氏が即座に応じた。

「マイナス8度ってお前、そりゃ随分と主観的過ぎることを

言うね。大げさな。そんなわけないだろ」

「え?だって、来た日に飛行機の機内でパイロットが

そういって放送したんだもん。私の主観じゃありませんがね」

「そりゃ、地上何千メートルは、マイナス8度以下だろうがさ」

「目的地ウィーンは、ってちゃんと言ってましたが。

雲の上の気温なんて言ってません」

しかし、そうグルダ氏が主張するのも仕方がないくらい、

冬の厳しさは私が来てからというもの、一気に影を潜めた

ウィーンだった。

翌日は、私のソロリサイタルで、グルダ氏は再びプログラムの

最後の15分、連弾の賛助出演を買って出てくれていた。

会場にて、合わせをし、明日は本番で、

翌日又合わせをして、その翌日はグルダ氏が企画してくれた

連弾のコンサートがウィーンのどこかで行われる。

「お前が必ず気に入る場所だ」

と事前に何度も念を押されていたが、正式にどことは

伝えられていなかった。

車に乗り込んでから、

「教えて欲しいんだけど、明々後日は、どこで弾くんだっけ」

と尋ねると、

「あのね、ソツィアル・ゲマインデ・バウ、つまり、

ありえない、非常に安い値段で住むことができる

住居の一角にあるホールさ」

とパウル氏は言った。

「アウクスブルクの、フッゲライみたいな?」

と訊くと、

「あれは教会が係わっている住居で、又全然別だね。

時代もこちらは20世紀だ。1920年代のウィーン市は、

社会民主党の市政で、

巨大な社会保障アパートをいくつも建てたんだよ、

その中の一つだね」

とパウル氏は言った。

「すごく楽しみだよ。今もその当時の住民の子孫が

代々住み続けてるんだけど、彼らが聴衆の大半になる。

前々から、そこで演奏会をやりたいと思ってたんだが、

お前が来るって言うから、

ここぞとばかりに企画したぞ。リハーサル前に、

建物見学会もするからな。興味深いと思うぞ」

そして、ハーとため息をつきつつ、

少しばかり誇らしげに彼は続けた。

「もう、長い一日だったな、全く。

誰もが俺に何かを求めてくるからな」

明日のリサイタルには、賛助をご自分で買って出ていただいた

とは言え、忙しいところリハーサルに駆けつけてくれた彼に、

なんだか悪くなって私は言った。

「ごめんねえ」

「お前?違うって。誰もそんなこと言っとらん。

全然別件だ」

ハンドルを切りつつ、彼は言う。

「今日はね、しかしその中でもいい出逢いがあった。

インタビュアーってのは、大概的外れでイラつかせるヤツラ

が多いけれど、今日の記者はうちの父のことを、のっけから

なんて表現したと思う?

『フリードリッヒ・グルダは、生来、子供っぽく生まれ、

そして子供らしく生き抜いた』とね。

『子供っぽく』生まれたんだとさ。俺は、そういう描写を

する人物は好きだね。いや、実に気に入ったんだ」

と目を細めて笑う。

パウル氏は、実は父フリードリッヒ氏の本を執筆するため、

現在材料収集に東西奔走している最中である。

ひっきりなしに訪れるインタビュアーに、

父のことを語る場面は人生を通じて数多とあっただろうが、

それも近頃は、自分が往年の父との交流があった

音楽家や仲間達である他者から語られる父の

エピソードに耳を傾け、それから得る

新鮮な驚きが多いようである。

「フリードリッヒが係わった全ての人たちが、

本当に個人的で、思いもよらない、個性的な

エピソードを持ってるんだ」

と口吻気味に言うパウル氏には、

誰もが年を経るたびに避けようのないほど

親に生き写しになる過程を、

ご多分に漏れず最近日常のふとした場面で垣間見せる。

ときどきフリードリッヒ氏が乗り移ったかのように、

他人に思わせることに気づいているのかいないのか、

父上の事を語りながら真からの愛情をにじませることが以前に増して

多くなった。

「なかなかいい気分だぞ、そんな日ばっかりじゃないからな、

人生は。タ~ラ~ラ~ラララ~!」

ご機嫌のグルダ氏は、明日と明々後日私たちが弾く

ラフマニノフの連弾曲の一曲を口ずさみながら、

ウィーン市の度真ん中を、

道の端から端まで使って車で蛇行ワルツを踊り、

私を笑わせた。


ところで、その3日後に予定されていた社会保障住居の

演奏会には、パウル氏の「叔母様」がいらっしゃる事に

なっていた。

リサイタルを何とか終え、パウル氏の圧倒的な賛助出演で

盛り上がりの幕を閉じた(これがメインディッシュとなってしまったのは

言うまでもない)翌日、私たちが未だ一度も合わせをしていない

新曲を含む6曲を、念入りに合わせている合間に、

パウル氏は言った。

「明日は、叔母さんが聴きに来るぞ。フリードリッヒの兄弟ね。

ところでお前は、明日の会食は、どこなんだい。

そこまで叔母さんと迎えに行ってあげるから」

翌日、私はヴァイオリニストのアレクサンダー・アレンコフ教授に、

パウル氏との本番前にお昼ご飯にお会いする事になっていた。

アレンコフ教授のお計らいにより、今回のソロリサイタルが光栄な事に

実現したのである。

「ヒーツィング(シェーンブルン宮殿より一つ郊外のほうに

地下鉄を行ったところ)駅の近く」

と応えると、

「真に都合がいいね。叔母さんの家はシェーンブルンからすぐ。

オッケー、2時15分前にヒーツィングの日本食屋の前で」

と相成る。

しかし、パウル氏がフリードリッヒ・グルダの息子さんだというのは

当たり前だが、フリードリッヒ氏の血を分けた兄弟ね・・・と

なんとも不可思議な思いに駆られた。

高校生の頃、学校の図書館でフリードリッヒ・グルダの

モーツァルトやベートーヴェンを

日がな一日ヘッドホンで耳にしながら、

レコードジャケットに大写しになった、頭に

バンダナを巻きつけた鷲鼻の芸術家の横顔を見て、

「なんて奇妙なオジサンだろう・・・」

と自分から最も遠い、宇宙からの使者のように感じていたものだが、

その人の肉親に会うとは、当時は夢にも思いつかなかった。

パウル氏と合わせ後に、ナスにミートソースが詰まった

トルコ料理を食べながら、ふとウィーンにいることすら

突然おかしなものに思えて、

「あのさ、子供の頃ピアノ好きでやってて、

だーれもウィーンに行くこととか、アナタと一緒に

ピアノ弾いたりすることなんて、考え付かないよね。

不思議としか言いようがないなあ」

とつぶやくと、パウル氏

「分かるわけないよな、当たり前だろ。

俺たち、その頃知り合いじゃなかったもんな」

と、あっさり返された。

そう、人生なんて、何も分からなくて当然で、

不確かさや偶然でしか出来上がっていないのである。

それが良かれ悪かれ・・・・


翌日、心温まる会食をアレンコフ先生と終えて、

そこから程近い約束の日本食レストランへと向かった。

すぐ目の前に差し掛かったその看板文字を、

ウィーンのホコリまみれの道から上がる硝煙のような

土臭い空気が目に入らぬよう、ジッと凝らしてみると、

ちょうど目の前の青い車からパウル氏が出てきて、

手を振った。

駆け寄っていくと、パウル氏、早くもちょこんと

車の後ろに座っていらっしゃる。

そして前にはなんと、一人の老婦人が

がっちりとハンドルを握って待っていらした。

「どうぞ」

と言って手を握る叔母様に、私は息も切れ切れに

車に乗り込んで、全くの初心者のドイツ語みたいに

つっかえながらやっと言う。

「えっと、カナデ・ジョウホウです。お目にかかれて、

光栄です」

車はスーッとスタートした。

「ホレ、叔母さん、西北のほうにこれから進むんだよ。

分かってるよね」

パウル氏が後ろから言うと、

「ハイよ。任せなさいよ!」

と威勢の良い張りのある声で応じる叔母様。

まさか、叔母様が運転するとは思いもよらなかった。

免許もなく、機械に弱く、運動神経の鈍い私には、

70代の女性が車を操るとは想像もつかない事態である。

「カナデ、アレンコフさんとの会食は楽しかったかい?どこで会ったの?」

と訊くパウル氏に、丁度車の目の前に見えてきた古風なカフェを指差した。

「ここ、このカフェです!」

「ア~なんだ、ヨハン・シュトラウスが、毎週日曜日に新しいワルツを

披露してたカフェじゃない!!」

叔母様とパウル氏が同時に叫んだ。

この二人は一見して息がぴったりらしい。

「あの・・・叔母様は、グルダさんの妹さん、

でいらっしゃるんですよね」

と尋ねる私に、叔母様はハンドルを豪快に切りながら言った。

「違うの、わたし、彼の姉なのよ」

「え・・・?」

姉という事は、フリードリッヒ氏は今生きていれば77歳、

今年78になるお年だったのだから、

そうすると80近いか、それを過ぎている事になる!

「叔母さん若く見えるでしょ。皆に妹、って言われるんだけど、

実は年上なのさ」

と甥っ子パウル氏は後ろから身を乗り出して言った。

そのとき、警察車が横から車体を出して割り込もうとした。

すると叔母様、

「うるっさいわね、私が先よ!50キロ以下で走ってるんだから

文句言うな!」

と言って警察を制し、そのまま走ったのである。

そして何事も無いように続けた。

「そうなのよ、みーんな、家の男は死んじゃってね。

男は女よりも生物学上弱くてさ。

自然の摂理に従って、ワタシの旦那も、

この子のパパも、そしてしかも

この子のママも、皆亡くなっちゃってねえ。

だけどさ、あたしにはこうして弟の残したカワイイ甥っ子が、

パウルも含めて3人いるからいいの」

「こういうのをねえ、カナデ、無いよりマシ、って言うのさ」

とパウル氏が車の後ろから子供のように顔を出して

言ってきた。

「ええっと、叔母さん、そこの建物に、

ペンキで『ドロゲリー(ドラッグストア・の意)』と書いてあるでしょ?

そこを左曲がって」

とパウル氏が言う。

「ふん、あたしにはさ、『ゲリー』としか見えてないけどね」

とせせら笑う叔母様。文字は、半分確かに街路樹に

隠れていた。さすがである。グルダ家は、

何か言葉を発したり返したりするたびに、

ただでは起きないらしい。こうなるともう、

何がしかそれに参画しないと済まないような雰囲気が漂っておる。

それを察知し、言ってみた。

「ワタシから見ると、因みに、『オゲリー』となりますですね」

横と、後ろの叔母と甥から、乾いた笑いが漏れた。

見ず知らずの80歳の叔母様に、

いきなり車に乗って3分後にそんな言葉を発しなくてはいけないような、

それでやっとこの車の一員、あるいは端くれとなるかのような

車内、やはり恐ろしい人たちである。

青いそのポルシェは、一つの村をなすかのような

堂々たるアパートメント群の中へと、

あっという間に分け入って行った。


続く

パキスタンの、ブット元首相が暗殺された。

支持者や市民の混乱の極致、

それが更に引き起こす暴動の数々を見て、

全世界が2008年を前に暗澹たる気持ちに陥ったはずだ。

民主主義を推し進めようとしていた

矢先に殺された逞しい女性指導者、

そしてその事件に踊らされ、傷ついていく人々、

年の瀬に空気が浮き足立っているときに、

余計にその事態の重みと理不尽への怒りが

増してくる。


言うまでもなく、国家的な問題や争いが起こると、

まず犠牲になるのは、人々個人の目的や

幸福の追求だ。

「国家の意向」により徴兵されれば、それから先の

生活の自由はなくなるし、

この度のように大きな指導者が死に至らしめられると、

国民全体の心理がそれに対する反感で蔓延し、

個人の生活を切り崩して一丸となってそれに反旗を

ひるがえす事だけに従事する。

家庭生活や、個人の片付けるべき仕事は、

一時に隅に押しやられる。

年末も年始も、あったものではなく、

人々は混沌と満身創痍の身体を抱えて、

狂い、さまよい、泣き崩れて、倒れる。


ブット元首相は、志半ばにして殉死したが、

同じ女性で、君主として生涯を送った

16世紀イングランドの「エリザベス女王」

の映画が今話題となっている。

クリスマス前にこの映画を偶然見た。

ギャラントリーを謳歌し、音楽やダンスや語学や

薬物学に長け、

贅の限りを尽くし、近隣諸国への戦いの指揮を自ら執り

(この度は、カトリック国スペインを相手取る)

次々に権力を手中に収めたこの女傑は、

征服欲が勝り、誰をも心底信用することがなかったため、

常に周りにたくさんの男性を侍らせながら、

ついに結婚することがなかった。

この映画の中で、女王役のケイト・ブランシェットが身につけている

ドレスに、しばしばライトブルーや目の覚めるような

明るい青が目立ち、何となくそのことが印象に残っていたところ、

それはこの度の監督と衣装係の特別意思で、

実はこの時代に青系の衣装はなかったということだった。

「青は、希望と、力の象徴。是非、その色を頻繁に使うことで

この女王の強さ、意志の力、魅力を浮き立たせたかった」

と衣装担当者はあるテレビ番組で語る。

歴史上特異な女王とされ、

キャラクターが強烈で、女性としてのしなやかさや

麗しさに欠けるとされるこの役を、

端整且つ豪快に、しかも一すじの女性らしさも

きちんと匂わせる事に成功した女優ケイト・ブランシェットは

「その青い衣装はとても着心地が良く温かく、

それに随分励まされて、撮り終えた」

と語っている。

監督は、エリザベス女王が立って沖を眺める

海沿いの丘を例えて、こう言う。

「山から眼窩を見やるとき、人には二つの思考しか

浮かばない。この山を征服するか、

あるいは山から転がり落ちるか、二つに一つだと。

映画を撮るというのも、まさにそんな心境でしてね」

それを聞いて、思い切って「青」を敢えて駆使し、

その時代の風流にわざと逆らった監督に、

何となく爽快な気分を抱いた。

そして、同時に映画の中で、

国家権力に憂き身を費やした女王の、

女性としての幸福を諦念する中に、

寵臣ローリへの一度だけ見せる心の弱さのハイライトシーンが、

目に一度ありありと浮かんだ。


エリザベス女王やブット元首相は、大きな目的のために

生涯を費やしたが、ある意味、

人が個人的な目的や、意義のために働けることこそ、

何と言っても平和と幸福の象徴だということを、

現代の私たちはどんなときにも思い出すべきなのかも知れない。

2007年私自身は、

思いがけず何かと新体験をさせていただいた年だった。

一方その中で、幾らか「私の意思でなく」

しかし絶対に「そうせざるを得ない」、あるいは

「そうされてしまった」小さな出来事というのが

今までになく発生し、それらが今年度の終わりになっても

時々思い出されて私を苛み続けることがよくあった。

その不可抗力と不可思議、そして理不尽は、

ささやかな営みをする名もない私にとってでさえも、

非常に疑問を残すところとなった。

人は、常に幾分かの妥協と打開策とをもって

世間とのコンタクトを持つのだとは思うが、

つながりを持つために個人が世間や

組織に媚びたり合わせたりしなくてはならぬうちに、

道から外れて本質を見失いかねない、

という危険はある。

私の問題などは命に別状はないが、それでも社会というのは

ドイツでも日本でも、

それと上手く折り合いをつけながら、自分らしく行くのは、

改めて難しい所だと極めて渋く苦い思いをすることがある。

「エリザベスの青」

のようなことがまかり通るには、

又とてつもない確信と社会的信用、

人間の器とが必要とされるのだろうが、

周りを見ていても、人の個性をも商品ビジネスにすることが多い今、

芸術家もどんどん性質が画一化される傾向にあると、

危惧する。

本来人は、ときどき、一つ自分の語彙を奪われる事により

アイデンティティを示せないとジレンマに駆られる

こともある、微妙な生き物であると思う。


そんな、小さな単位の問題、

個人の存在価値を考える以前に、

これからというときに、次代の旗主を失い、

その地盤である国家が大混乱に巻き込まれ、

その事実にやり場のない怒りを持って、

年の瀬のこの時期に老若男女が一挙に

暴動に走らざるを得ない国民の不幸、

その計り知れない不安と悲しみの大きさは、

想像するに余りある。

宗教も国家間の問題も越えて、

全人類が一つの敷居を越える、

年度の初めに向けて祈ることは人様々だろう。

いずれにしろその日に人類が揃って、そして時間差でその瞬間を

少しの希望を託して迎え入れることだけは確かだ。

その新たな年への想いは程度の差こそあれ、

それぞれ切実なのではないか。








der Kranz ist ein Symbol fuer die Ewigkeit,

die gruenen Tannenzweige

symbolisieren die Hoffnung

und Licht bedeutet „Leben“


ークリスマスリースは、永遠のシンボル、

深緑のモミの枝は希望を象徴し、

そしてロウソクの光は、「人生」を意味してるー

私の59歳の友人

マルゴット・バンガート夫人の言葉より


弟の奥さん(すなわち義理の妹)から大変凝った、

白い木が浮かび上がるように出来た仕掛け絵本のような

クリスマスカードが届いた。

12月という月は、彼女のお誕生日もあり、

私と妹、母に祖母、となぜか皆が誕生月で、

自然とこのように家族中でお祝いをしあうムードが高まる。

自身も仕事で猛烈に忙しい中、

朝起きない弟を叩き起こしてくれているという、

私より6歳も若くてかわいい、このしっかり奥さんが、

私への誕生祝いの言葉に添えて、こんなことに触れていた。

「雑多なイルミネーションとクリスマスソングで騒がしい

渋谷の街などを通り過ぎるたび、

神聖なるドイツの12月を想像し、

敬意に似た思いに駆られる」


言われて見ると、ドイツの12月は神聖だろうか。

イルミネーションは多少趣味がいいとは言え、

あちこち民家の軒先でもやたらに華やかだし、

クリスマス市は、ここぞとばかりに

細々した雑貨に高値をつける。

店を覗くのにあまりに寒さに耐えられなくなると、

それを補うように、温めたワインにシナモンや柑橘類を

入れて煮込んだ「グリューヴァイン」の登場と相成り、

人々がくつろげる環境と雰囲気、商業主義とのバランスが

上手く取れるように出来ている。

クリスマスにプレゼントをくれるのは、

この国ではサンタクロースでなく

いつも家族や友人と分かっているから(ドイツでは年齢は関係ない。

子が親に、プレゼントをするのは、

そして親しい友人がクリスマスの祝いで贈り物を

し合うのは幾つになってもほぼ常識だ)

この時期のドイツの経済周りは日本の比ではないはずだ。

広場に軒を連ねる期間限定の観光場所である

クリスマス市を除いては、20日を過ぎると既に、

街中の雑貨屋では「売れないよりは掃けたほうがまし」

とばかりにクリスマスグッズに半値がついている。

イヴ直前には、人々が老若男女、それに群がる

姿があちこちに見られる。

人気はトナカイ、星型、色とりどりのガラスなどの

ロウソク立て。ランプ型のものや、

街灯型のものも目立つ。

これらの用具は、ロウソクの光を好む現代ドイツ人にとって、

必ず心に必要とされ、男女を問わず決して疎ましがれることのない

アイテムである。

その過剰な種類の豊富さは、人々がこれを必要としている事に

目をつけたもので、考えようによっては、

日本のクリスマスやバレンタイン産業と大して違わない、と

穿った見方もしてみたくなる。


「人生は、結局、要約するとギブ&テイクじゃない」

と言った人があった。

かなり近い人なので誰とはいえないが、

なんとまあ、実もふたもないことを、

と一瞬思った。

「ギブ&テイク」と聞いてしかし、真っ先にドイツに居て

思い浮かぶのはこのクリスマスシーズンである。

クリスマスグッズ業者が喜ぼうが悲しもうが、

人々は、24日の夜にきよしこの夜を大きく枝葉を広げて

ロウソクに光を灯されたもみの木を背にして静かに合唱し、

それからも延々と伝統の聖歌を歌い続けて、

その後プレゼント交換を行って、互いに命ある喜びを

祝い、抱き合う。

ある年招かれたクリスマスでは、その家族全員に

私はチョコレートの箱一つを持って出かけ、

彼ら一人一人が私に一つ一つ心のこもった小さな

贈り物を用意していてくれて、

何ともバツが悪かった事がある。

しかし彼らのその様子は、

プレゼントを父親が30代後半の娘に、

30になった息子が母親に、又その反対に互いに

何かを送り合う瞬間瞬間がスローモーションで

目に焼きつくかのような印象的な光景だった。

娘が両親に贈ったコーヒーマシンには、

年々老いて行く両親に向けて、

ささやかな朝の贅沢と、極単純な扱いのみを要する

最新式の機械を提供できるだけの経済力と余力が

キャリアウーマンの娘にあることの豊かな安心感を無言で

両親に届け、

娘が両親にもらったふわふわのネル生地のバスローブは、

その何とも微妙な赤ピンクの色合いが娘に良く似合って、

いかにも温かそうで、

「いつまでも私たちの娘なんだよ」

と生まれたときから彼女を知っている人にしか

出来ない贈り物だという事を、如実に表現しているのだった。

そして彼らは、包みを開けてそれぞれ歓声を上げ、

「うわあ、こんなのがずっと欲しかったんだ。

まるで夢みたい」

と一様に目を輝かせるのだ。

12歳は12歳の、

36歳は36歳の、

70歳は70歳の若き澄んだ瞳を、一杯に見開いて。


ギブ&テイク、と言った人が、

あながち間違っているのでもないことは、

その経験を通して分かった。

ギブするからには、テイクもしないと、

と損得勘定のように意味されがちなこの言葉だが、

テイクするにはギブをする相手のエネルギーと愛情とを

感じとって、受け止めるだけの、

ただならぬ礼儀と絶対の信頼の元に築かれた愛情とがいるのであって、

それを持たぬものにはギブ&テイクは成り立たない。

言ってみれば、ギブ&テイクの、通常使われている意味合いを

考えると、それは単に虚しい作戦心理に過ぎない。

相手より少しでも多く何かを取るために、

何かをとりあえず放り投げておく、という心理は、

既にギブ&テイクの本来の精神や資格から外れているのだ。

相手が何をくれるかなどという事を考え付きもしないで

何かを心から、身体から自発的に進んでした事にしか、

他人はそれに対して感謝の気持ちを抱くことは出来ない。

それ意外は受け取るに値しない、ウソの代物なのである。

しかし最近、そのウソものの、見かけ上のギブ&テイクどころか、

あからさまに「テイク・&テイク」をしようとする人も増えた。

それは、モノの交換に関することではない。

例えば、人には100パーセントの礼儀を求め、

余すところなく受け取り、自分がその当たり前の礼儀を

人に向けたり、返せない人というのがいる。

音楽の場においても、

こちらが勉強になることは一つもないのに、

こちらのエネルギーだけを消耗させ、

奪っていく人がある。

このような人たちにあって厄介で残念なのは、

ギブできる要素を持ち合わせていない人に限って、

やたらにテイクに徹しようとすることだ。

能力があってギブが出来る人ほど、人に敬意を持てる。

礼儀と仕事との関係は、密接に結びついていて、

それが上手く行っている人ほど、より良い仕事が出来、

成長も望める。


先日11月にケルン音楽大学で、

単発でクラリネットの学生コンサートの伴奏をしたとき、

出番が終わってあとの学生たちを聴いた。

一組の学生たちのブラームスのクラリネットソナタは、

多くのことを語り、私の知らない言葉をいくつも発していた。

二人が切磋琢磨して、掘り出した独自の解釈が、

堂々とブラームスの晩年の大作に対峙していて、

それどころかそのエネルギーにおいて拮抗していた。

学生というのは、こんな風にひたむきに、

何かを深めることができるのだと羨ましく、

自分に後ろめたいような気持ちになると共に、

これこそが「ギブ」の精神そのものだと感じた。

彼らはこの演奏に対して、一円も稼いだわけではない。

もちろん彼らの能力を見せ付けるための行為でもない。

ブラームスが書き付けた音符に、

ただ彼らなりに一心に応えた結果だった。

その無償の身の捧げ方にふと思いがけず接したときにしか、

人が人に感動することは有り得ない。

そういう意味で本当の音楽家であることは、

おそらく多くの人にとって、難しい。


ここドイツの人々に、「大いなる方」と呼ばれ、

このクリスマスによって改めて祈りを捧げられる存在がある。

信心深い人は減り、日曜日に礼拝に通うことなく、

教会税を避ける傾向にあるものの、

家族が一堂に会し、

彼に向けて皆が一斉に祈りを捧げるこの季節は、

やはり義理の妹が言うように、神聖さと静粛さが根強く残っているだろう。

彼は自己の存在も明かさない。

それでいて黙って全世界を創造し、

地球を人々に与え、人々にそれぞれの人生を

贈る。

彼だけが、人々からの無条件の賛美を受け取ることができる。

なぜなら、もしその存在があったと仮定して、

または世界全体が遠い永遠の次元のたった一瞬の

気まぐれな自然発祥現象であったとしても、

「神」

というその黙秘する存在、あるいは神秘だけが、

唯一全てを与え、何かを得ることがないからである。


























突然ですが、明日23日の午後6時15分から、

NHKのラジオ番組「地球ラジオ」に出演致します。

このブログに直接出演依頼のメールをいただいて、

今日収録いたしました。

何回か取っていただけると伺っていたので、

安心してとちりながら、のどを詰まらせながらしゃべっていますが、

実際一回で終わってしまい、全ては後の祭りでした(笑)

今は何だかバツが悪いですが

後になれば良い思い出になると思います。

NHKの須山さん、ありがとうございました。


ラジオとお時間がおありになりましたら、

是非お聞きになってみてください。

他のコーナーも、海外の生活に関する珍しいエピソードや

生きた情報が満載で、興味深そうな番組です。

海外でもインターネットで生放送を聞くことが出来ますので、

私もこれを機にリスナーになりたいと思っています。


秋ごろから立て込んでおり、

久しぶりの更新が宣伝になってしまい、恐縮です。

どうぞ宜しくお願いいたします。


上法 奏


10月7日、ヴァイオリニストの久保田巧さんと、

ピアニストのパウル・グルダ氏のデュオリサイタルが

四谷区民ホールにて開催された。

新宿御苑横の真新しい、

東京のはるか遠くまで良く見渡せるホールに、

秋晴れの空と相俟って、ブラームスの作品を中心に

ウィーンの同時期の作曲家達の隠れた名作が

大切に織り成される。

そのお姿と等しく気品と優雅に溢れた久保田さんの

透明感に満ちたヴァイオリンに、

パウル・グルダ氏の片時も絶える事のない

ひらめきと和声美への執着が柱を添えていく。

脳にお二人のインスピレーションのシャワーをひっきりなしに

浴びせていただいているような、

幸せな午後であった。


パウル氏のお誘いで、その後あつかましく

打ち上げにご一緒させていただいた。

久保田さんとパウル氏のほかに、

今日の公演の主催者でいらっしゃる新宿文化センターの八木原さん、

トッパンホールのコンサート企画制作部長で、

久保田さんのご主人様西巻正史さん、

梶本音楽事務所の柳本美香子さん、

昨年のパウル・グルダ氏来日の際の、

新宿文化センター側の通訳を務められた

池谷潤子さん、などのメンバーで、

私一人とても場違いな人間だったが、

温かい皆様ととても楽しい和やかなひとときを

美味しい日本料理と共に過ごさせていただいた。

所はパウル氏御用達の新宿三丁目のお鮨屋さん、

「加賀鮨」

小鉢に大切に盛られた幾つかのお通しを前に、

演奏後の一口を心待ちにしていたであろうパウル氏は

突然横で言った。

「ハジ・マリ・マス!」

え?っと振り返ると、お箸を掲げたパウル氏、

皆のいぶかしげな視線を受けて負けずにきょとんと

していらっしゃる。

「始まります、とは言いませんよ。

もし言うとしたら、始めましょう、

か、それか単純に『いただきます』でよいのでは」

と私が笑いながら言うと、

「ああ、そうだ。いただきます、っていうぴったりの言葉が

あったんだ。それだそれだ」

と言ってパウル氏、なおも箸を口に運びながら

「始まります、は、初めまして、とほぼ一緒の意味だよな?」

と問うた。

「う~、違うんだよね全然・・・始まりますは

Es faengt anで、初めまして、というときは又別の

『das erste Mal(最初)』を意味する漢字を使うから・・・」

と説明したが、本番後にも拘らず好奇心と向学心旺盛な

芸術家に、

「でも、親類だよな」と念を押されてしまっては、

それ以上アイデアが浮かばないこちらは根負けして

「そんな感じ」と言う以外にない。


「加賀鮨」から臨む外はもう既に暗くなりかけていたが、

今日の午後のような空気を最近どこかで味わったなあ、

とふと思ったら、少し前、講習会で働いた

9月のイタリアにさかのぼった。

まだ充分夏の熱気を残したかの国は、

ドイツでは見られない「抜けるような」

青空を毎日惜しげもなく広げて、秋だというのに

今の日本と同じく射る様な紫外線を容赦なく

人々に浴びせながら、圧倒的な生の喜びを

大地に届ける。

その日トスカーナ地方のワインの産地で有名な

講習の開催地であるモンテプルチアーノから、

ローマの空港にワゴン車で迎えに来てくださった

サングラスを掛けた人懐こい男性が、

イタリアの太陽の威力を既にガラス越しに思い知らされている

助手席の私にひっきりなしに凄まじいイタリア訛りの

英語で話しかけていた。

「モンテプルチアーノの名物料理はァ~

何と言ってもォ~~ピチ・ア・ラ・ラグーですゥ!

ピチって言うのはですねえ~トスカーナ名産のォ、

スパゲッティのような麺なんですがァ~~手打ちでェ~

スパゲッティより、ぜんぜん太いですゥ~!

ラグーは、いわゆる、ミートソースですゥ~

でも、ドイツでェ~皆さんが言ってる『ボロネーゼ』

とは全く違う代物ですゥ!!

トマトはチョビっとォ!!!で挽き肉をォ~~ニンニクとォ

オリーブ油でェ~炒めて、4時間ぐらい

ぐつぐつ煮込みますゥ~~!

最後にはァ~汁はァ~~ほとんどアリマセン!!」

という具合で、この最初に教わったトスカーナ代表料理、

ピチ・ア・ラ・ラグーは、滞在中何度か味わうこととなり、

確かに不思議な食べ応えの麺と共に、

シンプルな外見ながら大変美味しかった。

小高い山の天辺が、そのまま町の中心地になるという

モンてプルチアーノは、観光客が途絶えた暁の

冬の町並みを想像することが難しい、

あまりに静寂とレンガの建物に囲まれた、

孤高の一つの城のような町である。

いよいよぐるぐる坂を回転しながら丘に上り詰める車の中で、

運転手さんが言った。

「モンテプルチアーノはァ~今はいいですゥ~

こうして、音楽祭もあれば、

ワイン目当ての観光客もワンサカ来ますゥ~

でも、後二ヶ月たってご覧なさい~~

人っ子一人いなくなってェ~~町は、死に絶えますゥ~!!

若い人のためのォ~ろくなディスコも、パブも、映画館も

ありません~!彼らは、みいんな~

ローマやァ~ミラノにぃ~出て行ったきりぃ~

帰ってきやしません~!私ぃ~でもォ、

それも理解できますゥ~

この町に冬暮らすのはァ~ほとんど地獄ですゥ~!」


パウル・グルダ氏は、夏に会った時、

「オレの近況の一つ」

と銘打って、今年の春、

ご自身のお兄様の書かれたスペイン語の詩に

曲をつけたんだ、と嬉しそうに話していた。

彼はそれを私の前で歌ってくれたのだが、

至極もの悲しくはかなく、そしてスペイン風の内なるほの暗い情熱に

彩られた、美しいリートだった。

パウル・グルダ氏の兄上は、音楽家ではなく

確かエフワン関係の会社に従事していらっしゃり、

パウル氏いわく

「大変理性的で、落ち着いた人格者であり、

成功したビジネスマン」

という事だった。

フリードリッヒ・グルダのご長男に当たる

その方が、今年スペインで語学研修を受け、

その修了の際、一つスペイン語の詩を書くのが課題であったという。

パウル氏は、詩の内容を

ドイツ語に訳して私に教えてくれた。

うろ覚えなのだが、それはこう始まったと記憶している。


   消えることのない皺の刻まれた顔で・・・


そしてこう続いていく


   もう決して手繰り寄せることの出来ない、過去に流れてしまった

   時間を想う・・・


確かこのような文句にぶつかる


   嘗て私を愛してくれた女性達よ


私の記憶は定かではないが、

詩は全面的に懐古的な美しさと情に満ち溢れていたのは

確かだった。

語学学校のこんな粋な宿題が、

名を成した中堅の年齢の兄弟によって

一つの作品に昇華する。

パウル氏は、

「これをドミンゴが歌ってくれるって」

と言っていたが、弾き語りをするそのパウル氏自身の

声は、自分の作品ということもあるだろうけれど、

その追憶の彼方にある世界と、

完全な一致を見ていたような気がした。


モンテプルチアーノの最初の晩、私はこの閑散として、

昼間と打って変わって急に風が否応なく冷たく感じる

町をひたすら縦横に歩き回っていた。

イタリアの田舎の石畳は、旅人に優しい。

人にひたすら何百年と踏まれ続けて、

丸く、すべっこくなって溝に馴染んで、

靴がそこにはまり込んだりすることがない。

レンガのそびえ立つ裏路地は、

くねくねと畝って人々がひとたび声を発すると、

そこらじゅうの人が家の中からも一語一語をはっきりと

聞き取れるほど密集したエコーを作る。

ひそひそ声も、忍び足の歩調も、

ここでは一切かき消されることがない。

車は滅多に通らないから、その音たちが

この町の全ての夜の息吹だからだ。

町は眠ろうとする。嘗てここに生き、

ここを歩き、愛した人たちの声や足音を、

滑らかになった石畳や雨風にくすみが沈着したレンガに

黙して染み込ませ続けながら。

まるで町全体が刻々と

「消えることのない皺」

を永遠に刻み込んでいくように。


四谷区民ホールの音楽会の翌々日、

ドイツに戻るのも間もなくとなり、

イタリアから日本に持ち帰ったピチをふと思い出して、

たまに会う家族に「ピチ・ア・ラ・ラグー」

を見よう見まねで振舞ってみた。実家でこうして料理をするのは、

至極珍しい。

挽き肉を4時間煮るところは割愛して、

新調したIHの台所を駆使して極短時間で、

サラダやミネストローネに必要だった

バルサミコ酢やズッキーニは、スーパーで見当たらず

リンゴ酢と冬瓜に成り代わってしまったけれども。

黙々とそれらを口にしていた妹が、

一言だけ言った。

「イタリアの味だ」