ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

ライン河沿いの古都、ケルンの街角から送る、人々の歌声をつづる日記

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都知事選挙と共に、先日来代作事件が毎日話題になっています。私一個人の意見は求められていませんが、音楽に携わるものとして一度言及したいと思います。


今度は代作をなさり世間に公表した新垣さん擁護をされる方の側の潮流が大きく、それをマスメディアもまた煽ります。今起こっている旋風は佐村河内さんファンだった方の心理と原理的には変わらない、その傾向こそが今回私たち日本人が振り返るべき点であり危険要素だと思うのです。因みに生来感傷に弱い私自身特に、あの音楽を熱狂的な感動と共に迎え聴き入った方々のお気持ちは察するに余りあります。曲に断定的批判的姿勢でなく、好意的に向き合って聴き真価を最大限に汲み取ろうとした評論家の方々(またそれは必ずや何処かに根拠のある)を、お粗末な曲を評価した専門家の責任と断罪する同業者の方は、事後には誰もが賢者であると言うとおり、余りに上から目線且つ短絡的です。全てをそんな一言で片付けられることではありません。

また、桐朋学園大学が新垣さんを解雇しないよう嘆願する署名活動が盛んですが、必要ないと感じます。桐朋は厳正に対処しますとは言っても辞めていただくとは一言も書いてませんし、そもそも本来の体質として、圧倒的に授業が人気の先生を解任するような学校ではない。外でどんな動きを起こそうが、音楽の事を隅から隅まで知り尽くしていて、それに命を捧げて没入していて、その異次元の世界の中から言葉を絞り出してとことん面白い授業が提供できる先生が一番大事なのです。少なくとも私が学生だった時代はそうでした。例え万が一辞められたとしても、彼を慕う人は今後も教えを請うでしょう。これからいくらも教鞭をとる道だってあるはずです。私はお顔を存じ上げているだけの人間ですので新垣先生の今後のことは知りません、というスタンスではなく、むしろ彼のような存在に我々がそんな心配をするのは無用、そういう心境です。


この全ての経過を見るにつけ、私にはいずれにしても、当初は無意識だったとはいえ(あるいは無意識だったからこそ)音楽という媒体を通して計らずもここまで深く長くまた多くの人々の心に何かを植え付け、直接影響を及ぼした新垣さんという方こそが、世間を騙した張本人の演技者Sさんなどと比較にならない程とてつもないカリスマであり、正に突如として彗星のごとく現われた強大なエイリアン的個性であるという感を禁じ得ませんでした。時代の生んだ寵児というものは、たとえ無作為で控えめであろうと謙虚でいらっしゃろうと、最終的にその存在の強烈さを隠すことが出来ません。その「華(ある種の毒と言い換えてもいいです)」を生涯持ち続けて行く。宮本輝氏がある対談エッセイに記していた、偉くなる人は善の部分だけでなくそれに比例して闇の部分も巨大化した姿なのだ、という表現がそれに近いです。

ゴーストライターなんてどこにでもいる、という風潮ひとつで片付く問題でしょうか。それが通用する範囲と、そうでない範囲とがあります。クラシック音楽という分野は今まで、本来それとは一線を画してきた通念だったはずでした。新垣さんの交響曲は、マーラーだったりチャイコフスキーだったりショスタコーヴィチだったり、いろんな過去の作曲家の作風を実験的に真似てそれなりにフレーズにしている箇所が有ると私の耳には聴こえますが、それに混じって「新垣氏」の言葉が前面に見えてくる所が存在するようにも思えます。どんなに割り切っていたとしても、そもそもすべての芸術に通ずる、作曲という内に耳を傾けるところから始まるとされる作業に、また大きな長い楽曲において、技術と借り物の書法のみで少しも自己の声が一切入っていないなどということが有り得るのか、私にはにわかに信じ難いのです。結局はこの度のことを告白するにいたったのは、世間へ向けられた詐欺が大きくなったことへの責任の重さと共に(それだけなら、もうちょっと前に気づけたはずと思います)そこが多分ご本人にとってもどこか問題だからというところもあると感じます。おざなりな片手間の劇音楽の仕事「だけ」を(つまりゴーストライターを)純粋にこれだけ長い間続けてきたと仮定するなら、そして一時はそれに疑問を抱かず従事してこられたなら、そうなれば覚悟を決めて告白せずに一生この手助け仕事を本物のしごとの合間にしている選択肢もあったにはありました。一人の強烈な個性は、いつしか気づかず自己と作られた他人との境目がなくなり、シラノ(ド・ベルジュラック)は結局、自らの名前を音楽の手紙の中で言葉の端々において語ってしまっているのです。(吹奏楽のための小品というのを聴きましたら、目が覚めるようなオリジナリティに溢れていて、交響曲とはまた一線を画していると感じます)念仏の如く敷き詰められたあの数の音符の中に、新垣さんご自身どんな思いで身を投じていたのでしょう。作曲という芸術の営みの、本音と建前、世の中の求めるものと芸術家の挑みたいこととの隔たりは、ここで皆さんが連日言われているとおりそんなにも大きいのでしょうか。やはり何よりも商業価値の歪みが生み出した一事件だったのでしょうか。


このことは、マスメディアや音楽界それぞれの構造や現状をもっともっと深く掘り下げて問題の原因の根を探ることが出来ると思います。しかしまずは我々がともかく、能力が並外れて誠実ないい人がそそのかされて悪魔の仕事を手伝ってあげた、とまたもやそんな単純構造のストーリーでは最早語るべきではありません。最初に傷を受けた方々、名誉を汚された方々のことに思いを馳せなくてはなりません。また、現代に生きる私達が、作曲家だけでなく演奏家の方も、クラシック音楽をどのように社会にこれから伝えていくのか、一層個人個人が問い、工夫し検討していかなければいけないのだろうと思います。いずれにしてもこの度のことで、私たちはいいか悪いかを決め付けて感情で称賛したり断罪したりするのは一呼吸置き、また誰かの運動に参加したり影響を受けたり意見を鵜呑みにしたりするのではなく、多角的に見て冷静に我々個々の内に、物事への真の基準や指針を新たに持つきっかけとすべきではないでしょうか。




ハードスケジュールという訳でもなかったのだが、依然として続いている今年の長すぎたヨーロッパの冬にすっかり固まった体をほぐしに、昨日は北オーストリアの温泉地に行って、仮療養?をしてきた。仕事が旺盛になる4月の月曜日ということもあって、リラックス好きのオーストリア人客もまばら、久しぶりにゆったりと贅沢な時間が取れた気がする。

一昨日は相方がウィーンへと、私はちょうど反対方向のレーゲンスブルクに日帰りで遠征をしてきた。ある作家の家にお邪魔して、もうすぐインターナショナルブックナンバーというのだけ取得して、2冊目のドイツ語の本として自費出版しようと思っていた詩集の校正の件でだった。お宅を訪問すると 厳しい冬の名残の風に吹かれて、一面の紫パンジーのお庭が迎えてくれる。「こんな気候も無視して、花は自分の季節だって主張するのよ。でも、これを見に来る人が今年は希少なだけ」というのは、私の師匠の一人で、作家のクローンさん。

泡がたっぷりのカプチーノやオレンジジャムとチョコレートがけのソフトクッキーなどが木のしなびたテーブルに出され、校正に取り掛かる前に、こう切り出された。「この本を見て。レイアウトや構造など。理由は後で言うから」しばらくその赤い表紙の冒険ストーリー本を手に取り内容にもあまり集中できず何となく眺めていた暁に、彼女は更に言葉を投げかける。「もしこの本の感じが気に入ったのなら、この出版社から新しいプロジェクトとしてあなたの詩集を出す気はある?」

思ってもみない言葉だった。現代では小説すら全く売れなくなった時代に詩集などもってのほかで、作家や詩人の方々は出版社探しに相当苦労されているという事で、私のような者がそういう機関を探すとなればライプツィヒの本の見本市に直接出かけて、現地でどこが比較的抒情詩を出版しているかをリサーチし、その場で売り込むしかないのでは、という助言を何度か受けた。その時間が取れなかったため、今回も一冊目のように、自費出版でインターネット販売システムを利用しようと考えていた。

そのプロジェクトは、彼女が最近その出版社と共同で立ち上げたもので、詩集はこれが実現するならば第一冊となるとのことだった。社長には私のことや私の作品内容についてはいろいろ話してあると。

それから本格的に、最近書いた詩の校正に取り掛かって、5時間。この過程はいつも思いの外苦しいものであり、葛藤の連続となる。「こういう言い方はドイツ語では絶対ありえない」という意見と、それがどこまで「文学」の間なら許されるのか、許されえないのか、という狭間で師匠と弟子二人で悩むからというのが、いつものパターンである。しかし午後遅く、そんな重いディスカッションの最後には、その出版社の社長と挨拶とやっと打ち合わせの電話に辿り着いた。穏やかな、途切れ途切れの言葉少ない方で、何だか安心できた。クローン女史の出版記念朗読イベントで2010年に私が演奏した際のことをよく覚えていると言った。大方の詩をすぐにメールで送ることになり、「またバイエルンに来るときに、近いうちに一度3人でテーブルをつき合わせて出版打ち合わせをしましょう。ご一緒出来ることを楽しみにしています」と仰ってくださった。

帰りに、クローン女史のパートナーで記者、評論家のG氏が、電車の旅のお供に持っていきなさい、と不意に玄関で大きい真っ赤なりんごを手渡してくれた。

りんごとは少々季節外れだったが、これが帰り道口にしてみると、かりっとした歯ごたえといい、ほのかな甘さ、芳香な香りといい、長らくヨーロッパで口にしたことのない種類の美味しさだった。ヨーロッパの各家庭には、しばしばりんごの木が見て取れ、自家製りんごをご馳走になったり、お土産にいただいたりすることが多いのだが、割りにどれも小ぶりで何よりも歯ざわりがしっかりとしていず、シャリシャリとした感覚で、日本の堅牢な富士りんごに慣れていた私には、ずっとこの果物には漠然と物足りない思いがあった。あまりにも久しぶりにこんな「日本風」りんごを口に出来た喜びで一杯になり、長引いたヨーロッパの冬の終わりも悪くないななどと考えた。クローン女史は、今日の終わりに、詩集のタイトルは良く考えて頂戴、・・・たとえば、あなたは日本語とドイツ語、人生で二つのファクターに出会ったんだから、「出逢い」でもいいわね、と言ったのだが、私自身としては、日本語もドイツ語もどうでも良く、何とはなしに日本語では絶対書かないであろう詩をドイツ語で書き始めたら続いた、というだけの話であってわざわざそれに関連させて「出逢い」との命名は嫌だなあ、と即座に思った。しかし、一つのプロジェクトは立ち上がったときには想像もしない葛藤と苦労が待ち受けているもので、それに向き合おうとして下さる方がこうして私の周りに存在するのだとも思った。どちらにしろ私はどこに居ようが、何をしようが、何人だろうが、一風変わった名前の生まれながら季節外れのりんごのようなものではないか。春は今日やっとここ欧州に訪れたような感があるが、りんごならりんごらしく、いつ何時も精一杯自身の最良であろうとすればいいのかもしれない。始まったばかりの遅い春をしかと歩みだそうと思った。


ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ-東京・3月18日、23日

ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ-京都・3月11日


本年もまた、3月に音楽会を開催させていただく運びとなりました。まず3月11日、奇しくも東日本大震災から一年にあたります日ですが、京都・青山音楽記念館バロックザールにてソロリサイタルを開催いたします。祈りと再生、と題したこの度の音楽会には、ブラームスとシューベルトという内省的な二人の作曲家を前半に置き、彼らが音楽に託した人類に共通する痛みの感情、人間愛を分かち合い詠いたいと思います。後半はモーツァルト、ハイドン、グルダ、という、それぞれの時代には革新派で知られた生命力溢れる作曲家たちの個性から活力を受け継ぎ、大地に吹き込む思いで臨みます。その後3月18日、23日にはそれぞれ東京・仙川桐朋別館ホールにて、京都のプログラムを基軸に一日目はソロリサイタル、二日目はソロと室内楽を混ぜた演目でシリーズの音楽会を行います。室内楽は長年尊敬し信頼を置いております友人のヴァイオリニスト青木調さんとのデュオを、2009年に引き続き共演いたします。収益の一部は、津波でピアノを失った音楽家や愛好家の方々へピアノを寄贈するための運動「被災地へピアノを届ける会」へと寄付させていただく予定でおります。このような時世にあって私個人や音楽にできることはまったく限られていることは承知の上で、私は自分の仕事へ力の限りを尽くすつもりでおります。皆様大変お忙しいとは存じますが、ご来場賜りましたら真に幸いでございます。





上法 奏 ピアノリサイタル 「祈りと再生」Andacht und Wiedergeburt

(財)青山財団助成公演



2011年3月11日(日)午後2時30分開演(2時開場)

青山音楽記念館 バロックザール


入場料3000円

※未就学児の入場はご遠慮ください

チケット販売 青山音楽記念館

Tel 075-393-0011

チケットぴあ

Tel 0570-02-9999(Pコード157-158)

※セブンイレブン、サークルK、サンクスでも購入可


お問い合わせ 青山音楽記念館

Tel 075-393-0011

615-8282京都市西京区松尾大利町9-1



Program

ブラームス 間奏曲 作品117より第1番 第2番

      間奏曲 作品76より第6番

J. Brahms: Intermezzi Opus 117-1, 117-2, 76-6

シューベルト 楽興の時より 第二番、第五番、第六番

F. Schubert: aus „Moments Musicaux“ Opus 94 Nr.2, Nr.5, Nr.6

ブラームス ピアノ小品集作品118より  

      間奏曲第一番

      間奏曲第二番

      バラード 

      間奏曲第六番

J. Brahms: aus den Klavierstücke Opus 118


Nr.1 Intermezzo


Nr.2 Intermezzo


Nr.3 Ballade


Nr.6 Intermezzo


モーツァルト きらきら星の主題による12の変奏曲

W. A. Mozart: Zwölf Variationen in C „Ah, vous dirai-je Maman“ KV 265

ハイドン ソナタ第60番 ハ長調

J. Haydn: Sonate C-Dur Hob. XVI:50

グルダ プレイ・ピアノ・プレイより 第1番、第5番、第6番

F. Gulda: Play Piano Play Nr.1, Nr.5, Nr.6






上法 奏 リサイタルシリーズ 2012 


Kanade Joho in Tokyo 2012 


両日とも 仙川アヴェニューホール


主催・チケットお問い合わせ

弥生音楽工房 yayoiongakukobo@yahoo.co.jp

カンフェティ 平日10時から18時 電話0120ー240540


入場料一回3500円

※未就学児の入場はご遠慮ください



第一回 2012年3月18日(日)午後2時開演(1時半開場)

Program


ハイドン ソナタ第60番 ハ長調

J. Haydn: Sonate C-Dur Hob.XVI: 50

ブラームス 間奏曲 作品117より第一番 第二番

      間奏曲 作品76より第六番

J. Brahms: Intermezzi Opus 117-1, 117-2, 76-6

ブラームス ピアノ小品集作品118より  

      間奏曲第一番

      間奏曲第二番

      バラード 

      間奏曲第六番

J. Brahms: aus den Klavierstücke Opus 118


Nr.1 Intermezzo


Nr.2 Intermezzo


Nr.3 Ballade



Nr.6 Intermezzo

モーツァルト ピアノソナタKV332 ヘ長調

W.A. Mozart: Sonate für Klavier KV 332 F-Dur

グルダ プレイ・ピアノ・プレイより 第1番、第5番、第6番

F. Gulda: Play Piano Play Nr.1, Nr.5, Nr.6






第二回 2012年3月23日(金)午後7時開演(6時半開場)

Program


ブラームス ヴァイオリンとピアノのためのソナタ第一番 作品78ト長調

J. Brahms: Sonate für Violine und Klavier Op.78 G-Dur

ブラームス 間奏曲 作品117より第一番

J. Brahms: Intermezzo Op.117-1

シューベルト楽興の時」より第二番、第五番、第六番

F. Schubert: aus Moments Musicaux Nr.2, Nr.5, Nr.6

モーツァルト きらきら星の主題による12の変奏曲

W. A. Mozart: Zwölf Variationen in C „Ah, vous dirai-je Maman“ KV 265

モーツァルト ピアノとヴァイオリンのためのソナタ KV454 変ロ長調

W.A. Mozart: Sonate für Klavier und Violine KV 454 B-Dur



ヴァイオリン
青木調(写真)






















ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

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3月に東京で演奏会をするのが通例となって久しいですが、

今回はヴァイオリニスト、アレクサンダー・アレンコフ氏が4年ぶりに

来日され、共演することになりました。

しごとをテーマに、先ごろ久しぶりにブログをつづりましたが、

この方こそこれまでの長く尊い道程をひたすら頑固に耕し、

大地に創造の木を立て続けるためにご自身の身を投じて来られた、

稀有な芸術家のお一人です。


1938年ウクライナで生まれ、モスクワ音楽院で

ダヴィッド・オイストラフに師事。

当時のソビエト国家より授かった「グリンカ弦楽四重奏団」

の名の下に、第一ヴァイオリン奏者としてカルテットを

創立し、長年活動。

ショスタコーヴィチやハチャトリアン、シュニトケなどの

作曲家と直接の共同仕事をし、彼らの作品を幾度も初演。

ウィーンに居を移してからは、ソリスト、室内楽奏者として

活動する傍らウィーン市立音大教授を長年勤め、

多くのヴァイオリニストを世に送り出しました。

その教育は徹底した厳格さと海のような愛情の深さで

広く知られます。


2006年にまったくの偶然で氏と知り合う幸運に恵まれ、

以来演奏会や講習会などのお仕事をご一緒して参りました。

その謙虚さ、氏の、芸術と人々の心に真っ直ぐ向きあう

純粋なお姿には、毎回自然と頭が下がるような思いを覚えます。

掛け値のない、損得勘定など有り得ない、

ひたすらに自己を芸術に捧げきる人物像、

それがアレクサンダー・アレンコフ氏です。


何よりも特長的なのは、近頃滅多に耳にしなくなった、

ビロードのようなヴァイオリンの音そのものの厚さとふくよかさ、

そして首尾一貫確固とした解釈の堅牢さです。

「現代」という乾いた響きの、

全てがつかみどころなく、

めまぐるしく変化していく日常の流れの中で、

変わってはいけないものを求めてやまない全ての方々に、

一人でも多く彼の音色から語られる語彙、

心情の深遠さをお聴きいただきたいと願っております。




東京 

2011年3月10日 19時

古賀政男音楽記念館 けやきホール

デュオリサイタル


関西

2011年3月20日 18時

西宮ルーテル教会

(室内楽コンサート)


(11日から15日、東京で公開レッスンもございます。

詳しくは下記までお問い合わせください)

kanade73@hotmail.com








「手紙」という言葉が、現代において死語に近くなっている。

私自身、ドイツに11年居る間に最も変わったことといえば、

手紙を書かない人間になったということが挙げられる。

メールは毎日何十通と「打つ」が、実際文字を自分で綴る

ことが滅多になくなった。

よって、久しぶりにそれをしようとすると、「できない」。

訓練ができていない時間が重なって、

もはや文字が文字の様相を呈していない。自分で嫌気がさすから

結局パソコンに向かって「打つ」という作業に移る。

出来上がった「手紙」を見ると、内容的には昔書いていたものと

違わないと信じたいけれど、やはり個性の大きな表現である文字を

書き記すという工程を省くことで、文章の合間にも何か大事な風の

ようなものが存在しないことを認めざるを得ない。


今年の初め、そんな私にたくさんの手紙が届いた。

そのうちの多くが、生涯必ず特別な場所にとっておこうと誓うほどに

貴重な手紙だった。

手紙自体が珍重なのだから、書くということを実行できること

そのものからして既に尊いことなのかもしれない。

でもそのうちの一通は本当に重く、私の中に大きな痕跡を

残したにもかかわらず、返事が一番後回しになって、

未だ書けないまま、

封筒に入ったその手紙がパソコンの横に置かれている。


それは私の文学の師である、作家ヴォルフ・ぺーター・シュネッツ

氏からのものだった。

氏に出会ったことで、ドイツ語で詩を書くにいたって二年半、

昨年末に、人々の助力や激励により、終に曲がりなりにも一冊の

小詩集を出版した。

規模的にこれ以上ささやかな本は世の中に存在しないだろうと

思われるほど薄い、60ページ余りの現物が出来上がるまでの

過程は演奏会を続けてやり続けるのと同じ体力と自己投資が

要った。

そして何より他者の善意。

それらをこね回して、

最後は身投げするような思いで仕上げたものを、

師であるヴォルフ・ぺーターに年始の挨拶として送った事への

彼からの返答だった。

この作家は、人からの手紙に、返事を出さなかったことが、

人生にただの一度もないという。

確かに、どちらから出したか分からない手紙は、

私がいつも最後に力尽きるので、彼からの返事で一旦終わること

ばかりだったし、

たとえ3日後に会う、というときでも、レーゲンスブルクからケルンの

私に返事を送っていて、実際会ったときには何も言わないのに、

家に帰ると手紙が届いていた、ということすらあった。


「君の、私が良く知っている詩も含めて、送っていただいた本を

読み通しました。新しいものも、そして古いものにも、

新たな側面を発見しつつ」

と始まった手紙はこう続いた。


「ついに君は、自分自身を、君の言語の中に見つけた、という印象を

持っています。

君の新しい詩には、非常に見慣れない、斬新な映像が存在し、

私はしばし時間を忘れてその中に留まっていたい気持ちになります。

それらは何度読んでも終わりがありません。幾つかは、

まるで夢の中の映像のようにも見えます―

一緒に過ごしたあのバイロイトでの日々(彼の作家のための

ワークショップ)を、私は決して生涯忘れません。君からは、

常にびっくりするような驚きが期待できた。君が、

自分自身を発見したことに、私は喜びを隠せません。


私はもう書くことをほとんど止めました。

これまで、書くという行為が、こんなに力の要るものだとは

知りませんでした。

そのような力が残っていないことに気づき、

そして、今、自分のアイデンティティを模索している最中です。


君が今年も、音楽とピアノだけでなく、

君の筆に忠実であるように。

その暁には、この詩の本も、更に自然と成長と発展を

遂げていくことでしょう。


PS 君の詩集には、しかもミスプリントが見つかりませんでした。

どんなに注意深く気を入れてこの本を作ったか、という証拠です。」



氏は、一枚の新聞記事を同封していた。

そこには「詩人、ヴォルフ・ペーター・シュネッツが身の回りを

整理する」


と見出しがあり、彼が自分の作品から、また彼と交流のあった

作家たちの蔵書、又手紙など、一切合財を州立図書館に寄付する、

という内容だった。


・・・・・・・・「4年後の、75歳の誕生日に、私は一体何をするのだ?」

と詩人は自らに問いかける。

昨年70歳の誕生日、「書くこと」への壁が立ちはだかった。

作家にとって、初めての経験。

書くことは彼の人生、夢。子供のころから作家になりたかった。

レーゲンスブルクとエアランゲン市の芸術部門監督として働く傍ら、

毎日おびただしい量を、何かしら書いた。

「書くことは第二の私自身、14日に一編は、必ず詩が書けた。

今私ときたら、毎日手紙だけしか書けない」

彼の書き物机の上には、A4の紙に今日の必要項目が掲げてある、

例えば「電球を替えること」。

彼にとっては、それは「書く」

という意味。


足を悪くしたことで、書く意欲が奪われた。

「書くことにここまで体力が要るとは」

書くことが息をするほどに容易かった過去が信じられない。


ほとんどが詩集である彼の作家生活は、

また、数多くの文学者たちとの対話の歴史でもあった。

ノーベル賞を受賞したエリアス・カネッティ、カール・クロロー、

ギュンター・アイヒ、ジークフリート・レンツ。

貴重な初草稿や、互いの文学への意見交換の手紙。

彼らへのみならず、

生涯にしたためたシュネッツの手紙は4万通に上る。

それら文学者たちからの手紙を入れた箱、

またシュネッツ自身の覚書ノート28冊が、

この度州立図書館に捧げられた。

「この決断は、楽ではなかった」

と作家は語る。・・・・・・・・・・・・・・・・・



ヴォルフ・ペーターは、一編の詩を、又同封してくれていた。



一年の終わり


さて、

間もなく最後の日が来ます

白い夜の連なりと共に

まだ多くのことが

言われていないというのに


我々は

蒼い夢の中で

髪の中に吹く風を編みながら

互いに手を差し伸べます


そして進みます

君は沈黙するけれど


眠りが

我々の足跡を

消してくれます

手のひらいっぱいの

雪で



かなで・じょうほうへの、挨拶と共に。


W.P



これを読んで私は、

魂を綴ってきた作家が、自ら魂そのものになったのだな、

という感想を持った。

夏にレーゲンスブルクで会ったとき、足が益々悪くなった、

アクティブでなくなった、とこぼす彼の背中は、

それでも広くて温かく、以前より一層強いオーラに満ちていた。

未だに彼自身にそのことが伝えられないでいる。


ひとつの救いは、

記事のある一行「シュネッツは、ほとんど声にならない声で

言った」

と描写してある箇所に彼が線を引っ張って、私へ向けて、

「有り得ない」

と書き加えていたことだった。


彼の心の声は決してかすれては居ない。

また倍にもなって筆に響き渡る日が

近い将来必ず来るという気がしてやまない。

それまでの間、師はしばし「魂」として存在し、沈黙するだろう。


彼を思い、また考えることは、

人は仕事はお金や業績をもたらし、

ものは物質でできていると思いがちだけれど、

実はやはり最終的には違うのではないかということである。

本当の仕事というものは数で数えられる領域に

関係のないところで発生し、

また物も魂でしかできないと言うことである。


魂に近づくために私も時々書いている。

それがないと、人でいられない気がして

いたたまれなくなってくる。

極端な空腹と病魔と貧困を除いて、

人の感じる不幸というものの本質は、

どんなときも人が精神そのもの以外の何かに、

屈服し、押しつぶされるときなのではないか。

私は少なくともそうである。

音楽も、精神になりきるときだけ、

仕事をしたと言えると思っているし、

「しごと」が課すものは、実はそういうものであると

思う。





























ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

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ブログからすっかりご無沙汰して失礼いたしました。生活は新しい風を吹かせ、刻々とした動きを止めることはできません。私は昨日まで、ドナウ川にかかる世にも美しい橋で有名なレーゲンスブルクに滞在しておりました。橋のたもとに宿を持ち、毎日河を渡り行き交う人々を眺めながら、人は何のために、何を求めて岸から岸へと移動するのかと漠然と考えていました。皆様は今日、どんな距離の橋を渡り、何処の対岸へ辿り着いていらっしゃるのでしょう?

さて、CD販売のお知らせをさせていただきます。

ケルンに移り住んで10年、節目となる年に、同じくケルンに在住し当地のケルンWDR(西ドイツ)放送交響楽団でコンサートミストレスを務める、ヴァイオリニストの荻原尚子さんとのデュオで、CDが完成しました。シューベルトと生誕200周年のシューマンの作品で、曲の選択は割に渋いものとなっています。今年4月の日本でのコンサート旅行のプログラムを基に、シューマンの後年の小品集「3つのロマンス」を加えて、2月にケルンで録音いたしました。お聴き戴けましたら大変光栄です。

以下の事務所で販売、お取り扱いしております。

事務所名Vit-Vie Music ビットビーミュージック
メールアドレスromanze@vit-vie.com



ロマンツェ 荻原尚子 上法奏

シューベルト・ソナティナ第一番 ニ長調 D384


シューマン・ソナタ第二番 ニ短調 作品121

シューマン・3つのロマンス 作品94

定価2000円 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そうこするうち、昨年のバイロイトから既に

早一年が過ぎようとしており、私は廻りめぐって、

また彼の地に物を書きに(少なくとも試すだけ)

あるいは、大好きな物を書く人々の

渦に巻き込まれるため、行ってきます。

作家・ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏は

本年9月70歳を迎えられるため、

助手で詩人、推理作家でもあるバルバラ・クローン

女史のアイデアで、彼の周りの作家仲間が集い、

彼へ贈るための一冊の詩と散文の本を共同制作、

刊行する事になりました。

そこへ私にも参加、寄稿のお誘いがかかり、

びっくりするやら戸惑うやら、コンピューターに

溜まった昨年来書き溜めた詩の中から、

慌てて10編ほどをメールでお送りし、

あとはクローン女史がどの作品を選定したかも

定かでなく、今年夏に出来上がった本を見て

更に驚く予定です。

この回で最終にして、バイロイト(その前に

ウィーンが控えています)

に発ちたいと思います。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



講習最終日は、バイロイトから4、50分

車を走らせたのどかな田園風景が広がる

ヴァルメンシュタイナッハにて、参加者、

また講師も含めて全員が自作品を聴衆の前で

披露する、朗読会が行われる。

前日は、いろいろな課題が出されつつも、

コンサートと同じく「ゲネラルプローべ(本番用

通し稽古)」が行われた。

本来初心者である私の順番は二番目で、

初っ端に持ってくると緊張するだろうし、

ドイツ人が最初にドンと囲いを作って、

遠国出身のものが思い切って一風変ったものと発音の

「ドイツ語詩」を披露するということで、

シュネッツ氏の配慮が感じられた。

ここまで来ると、私にとって恐いものは何もなかった。

通し稽古は、初めて立って、紙を目の位置に掲げながら、

皆の視線の集まる中4編の詩を読んだが、

全く声も震えず、むしろ一度「これを人前で読んでいい」

と言われたものに何の不安もなく、あとは

いかに「舞台用の顔をするか」ぐらいのことであった。

無論私の発音はドイツ人が「今なんて言った?」

と聞き返したくなるような不明瞭な点や間違っている音

があるとは思うが、あとは流れで、いかにそれらしく

聴こえさせるか、というところだと思った。

その点に関してだけは、職業柄人前で弾いて

散々嫌な思いを味わい、テンションの様々な持ち方を

知らず知らず経験し、コントロールしてきたそれまでの

人生が役立った。指や身体や感覚の隅々まで神経を

行き渡らせなけらばならない、

あるいは感覚がなくなるほどの極度の緊張に

襲われることもある演奏行為と言うのは、

それだけ微妙な作業を一秒内に何千と行っている、

ということだとそのとき私は改めて実感した。

言葉を変えれば、もちろんそれは作家たちの場合、

それが机なり、コンピューターなり、書くための道具に

向かっているときにそれが行われているのであり、

しかも自分のうちからたとえ言葉一つと言えども

生み出す行為というのは、作曲と同じで

自分の中にオリジナルの表現や語彙が自然に

泉のようにある程度溜まって溢れ出すという事に

他ならず、それゆえ時間を要する。

また溢れ出したものを素早く形にする、

その集中力やタイミングは、日常の中のものではない。

「目の色を変えて」必死にそれを掴むべきであり、

人間の脳はでなければあっという間にあふれ出た

詩句など風が吹けば飛ぶような調子で忘れ去る。


天才とは、それを「多量に」生み出せ、

また「劇的に集約された」「その人独自の」表現で、

そしてそれを何らかの方法で「確実に形に残す」

人のことを言う。

そして特に詩の場合、シュネッツ氏が言うように、

ひたすら一つの言葉に至るまでに

忍耐と待機を最も要するようである。

ドイツの代表的近代抒情詩人ライナー・マリア・リルケ

は若き詩人への手紙に、こう書いている。


・・・それはすべての進歩と同じように、

深い内部から来なくてはなりません・・・略

月満ちるまで持ちこたえ、それから、生む。

これが全てです。すべての印象、すべての感情の

萌芽は、まったく自己自身の内部で、

幽暗の境で、名状しがたいところで、

無意識のうちに、自分の悟性の到達し得ないところで、

安全に発育させるようにし、深い謙虚さと忍耐を持って、

あらたな明澄の生まれ出るのを待ち受ける。

これのみが芸術家の生活と呼ばれるべきものです、

理解するにも、創作するに際しても。


そこでは時間で量るということは成り立ちません。

年月は何の意味も持ちません。そして十年も

無に等しいのです。

およそ芸術家であることは、計量したり数えたり

しないということです。その樹液の流れを無理に

追い立てることなく、春の嵐の中に悠々と立って、

そのあとに夏がくるかどうかなどという危惧を

いだくことのない樹木のように成熟すること。

結局夏は来るのです。だが夏は、永遠がなんの

憂えもなく、静かにひろびろと眼前に横たわって

いるかのように待つ辛抱強い者にのみ来るのです。

私は日ごとにこれを学んでいます。苦痛のもとに

学んでいます。そしてそれに感謝しています。

忍耐こそすべてです。・・・・・・



ヴァルメンシュタイナッハの当日は、

晩秋を思わせる冷たい雨が、朝から

しとしとと降っていた。

お昼ごはんのとき、シュネッツ氏が

私に、「君は、ジャケットかコートをちゃんと

宿舎に持っているのかね?ないなら、

私のアノラックを貸してあげるから、

心配しなくていい。ヴァルメンシュタイナッハの

夏の小屋は、かなり冷えるぞ」

と言い、スタスタと歩いて車のトランクから水色の

ジャンパーを取り出してきて、私にかけてくれた。

なるほど、広い草原の入り口にある会場、

フライラント博物館の小屋は、8月とは思えないほど

しっとりと冷えていて、お客さんが一杯になっても

気温が上がらず、皆が身体を寄せ合って

暖を取るような雰囲気の会となった。

会場左手に設置された朗読組みの席に一チョ前に

腰掛け順番を待ちながら、私はシュネッツ氏の

ジャンパーに身を潜めていた。

水色のそれは私に似合わず、しかも以外に

大変大きくて腕がすっぽりと埋まっても尚まだ余った。

師の背中の広さを、私は衣服の中でかみしめていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「どう?その後張り切ってる?ちゃんと恋してる?」

こんな調子で始まるメールをくれるのは、

ミュンヘンの元心理学者、エネルギッシュなフラウケだ。

恋は70歳の彼女にとって、息をするのと同じ行為らしい。

70歳記念のお誕生日の写真を彼女は何枚も添付して

送ってきた。そこには、バイロイト以上に目の輝きを増したかに

見える彼女が、何かのゲーム中の写真らしく、

口を広げて、大笑いしていた。

シュネッツ氏からは、柔らかい直筆の手紙を

何度もいただいた。あるときヴァルメンシュタイナッハ

の朗読会のあとに撮られた私の写真が入っていて、

「これこそが若さの美しさというものです」

と書いてあった。気に入った表情の写真でもなく、

朗読会の疲れで冴えない顔だったが、それでも

私はそこにいた人たちの半分の年数しか生きていない

人間なのだった。

「あれから、ちゃんと書いておるかね?」

手紙の中で「恋してるか」とは別の心配を尊敬する師は

してくれ、確認し、私を鼓舞してくれた。

バイロイトの終わりの反省会で彼は、

「あなたに本当に計り知れないエネルギーを

一同がもらいました・・・・正直、参加を許可したときは

どうなるか、不安で一杯でしたよ。

でもあなたに皆が触発され、新たないい空気を生みました。

ありがとうをいいます」

と言い、翌日別れ際に、

「書きなさいよ。とにかく、そのままやっていくんだ。

『単純な言葉で分かりやすいものを書く』

というのは、馬鹿げているとか子供じみているのとは

全然違う。あなたはそのまま、自信を持って

自分が思ったとおり書くんだよ」

とゆっくり、遠い目を交えながら、諭すように

私に言ってくれた。何よりの言葉の贈り物だった。

「レーゲンスブルクに来てね。どっち道フラウケは

ヴォルフ・ペーターに会いに来るでしょ?」

とのバルバラ女史の問いに、

フラウケは事も無げにこういった。

「いやあよ。ヴォルフ・ペーターなんかに会わない。

レーゲンスブルクには、もっと大好きな

友達が一杯いるから、彼に会う時間なんかないわよ」


秋のある日、フラウケから小包が届いた。

「カナデ、私が書かれた、シュネッツの本よ!!!

『青春の罪』、よ。約束どおり送るわよ。

年内に読んで返してくれればいいから」

あろう事か、彼女はシュネッツ氏の直筆のメッセージ

とサインが入ったこの原本を私に送ってよこしたのだ。

手垢も付けられないと、おそるおそるページをめくると、

終わりから3章目ぐらいに、「サロメ」という

見出しが見つかった。

戦争の終結から、直後の混乱を子供時代に

黙って味わった冒頭から読み始めてすぐに、

私の好奇心が上回って、「サロメ」を先に

読むことを余儀なくされた。

サロメことフラウケと、若き日のシュネッツ氏が、

学校帰りの道の草むらを分け入って、歩く場面である。


・・・・略

サロメは、真っ赤なルージュを引いていて、

とてつもない大きな瞳で私を見つめていた。

何を言っていいか分からないただ戸惑うばかりの

私に、彼女は何の抵抗もなく突然こういってのけた。

「あなた、あたしのこと好きでしょ」

私は驚いた。彼女のセリフ、そしてそれを口にするという

行為、しかもそれがまったく正しくなかったことに。

私は彼女に恋などまるでしていなかった。なのに、

次の瞬間、まったく反対の短い言葉が口をついて

出てきたのだ。

「そうだよ」

彼女は颯爽と身を翻し、言った。

「あ、そう。でもお生憎様。私はあなたのことなんて、

まるで好きじゃないんだもの。悪く思わないで

頂戴よ」


私は泣いた。フラウケがあまりにもフラウケのまま、

書かれた事に、

そして50年前の情景が色あせることなく、

今に至って一層燦然と光り輝くほどに、

彼女が正直に自分自身であり続けた事に。


ふと気づくと、本の裏表紙に一枚の新聞記事が挟まっていた。

「青春の罪と、そのモデルとなった女性達」

と題された大きな記事には一人一人のポートレイトが載っている。

フラウケは無邪気に歯を出して笑い、バンダナをかぶり、

ショートパンツから延びた長い足の膝小僧を抱えていた。

その横にヴォルフ・ペーターの海水浴らしい写真が出ていた。

今の面影はなく、金髪らしい薄い色の髪がなびき、

砂を両手に抱えて、膝をついてやはり屈託なく

笑っていた。美青年であった。



















生活に追われるというのは、真に恐ろしいものです(笑)

曲がりなりにもコンスタントに何かしら書きつけてきたものが

半年以上もストップしてしまいました。

その間見聞きしたり経験したことが

以前より少ないわけではなかったのでしょうが、

それらが「シーン」となり「言葉の列」になるまで、

ある一定のプロセスと、それに伴う生活に対するのと

別の力が要るようです。

どんな状況に於いても、生活するために生きることから、

生きるために生活していく覚悟を今一度持ちたいものです。


という訳で、このブログを見てくださっていた極少数の稀有な

方々のほとんどもお忘れになったであろう、

未了の巻、「私のための一文・・・」シリーズ完結に向けて行きます。

もうかれこれ一年近く前の事になるかと思うと、

時の流れの速さに押しつぶされそうです。


寛大な皆様いらっしゃいましたら、

お付き合いいただけますなら幸いです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



夕方7時から、バイロイト青少年芸術祭では、

ソーセージの屋台とビールが振舞われて、

街をあげての盛大な記念祭が行われていた。

この芸術祭を20年以上取り仕切ってきた

女傑S・タマー女史が、壇上のマイクに向かって

誇らしく開会宣言を行っている。

「今日は、私がこの日のために、お天道様にも

お願いして、この晴天を授かりました!

私の迫力には、大いなる方も恐れをなしたようです!」

黒いワンピースで身を隠しきれない、

縦にも横にも豪快な体躯の持ち主である彼女は、

マイクなど必要ないかのような

張りのある声を響かせる。

「アラ、あんた」

ポーッと突っ立っていると、ふとピンクのポロシャツ

のB・B女史がソーセージの列に加わるため

横に来ていたのに気づいた。

「カナデ、あそこに全員分の席とって置いたわよ。

分かってる?」

問われて目を凝らすと、若者の集団の間に、

ヴォルフ・ペーターはじめ文学クラスの熟女方が

サングラスや帽子を日よけに、粋な感じで固まって

座っている。

「ああ、ハイ。じゃあ、後で加わらせてもらいます・・・」

正直、明るく屈託のないフラウケや、

エレガントでいつもふんわり優しいジャクリーンなど、

すっかり安心して付き合えるほかの女性メンバーと一線を画す、

クラスの中で一番とっつきにくく苦手なB・B女史が

ソーセージの列の前後になってしまったのは

間が持たない、と一瞬思った私だった。

列は炎天下の中どこまでも伸びて、

とてもさっさとソーセージにありつけるとは思えない。

そういうときには目の前の人に心を開けなければならない、

と私は妙な決心をした。


「Bさんの昨日の魚が飛んで・・・っていう詩、

斬新ですごく良かったです・・・・って言っても、

私にとっては、何がいいたいのか中身の意味までは

分かりかねるんですがね。

何か映像が見えて、それが頭の中ではじけて

膨らんでいったっていうか・・・すごいって感じただけです。

意味ってのは文学に長く係わってると、

段々と見えてくるものなんですかね??」

B・B女史は眉一つ動かさず冷静に即答した。

「意味なんて、私にだってわかんないわよ。

なんであんなもの書いたのか・・・・

ただ、そんなとんでもない場面が私の頭に浮かんで、

それが面白いかなって思って、そしたら

ひとりでに次の場面へ動き出していって・・・

それだけのことだわよ」

日にさらされた細かく刻まれた口元や目元の筋に

目をやらなければ、一体何歳だか見当もつかないような

眩しいおかっぱの金髪にサングラスをヘアバンド状にはめなおした

B・B女史は言った。

「意味なんて、分かる必要やある必要なんかないわ」

それから彼女は今まで私に向けていた

太陽のせいで眉間に皺を寄せて細めていた視線に

一層の真剣味を交えて、滔々と語り始めた。



「あたしが書き始めたのは、初めにも言ったけど、

孫ができてからよ。

可愛い孫を喜ばせたい気持ちだけで童話なんか

書いてた。

だけどそのうちそれじゃ飽き足らなくなって、

詩や散文の教室にまで行くようになって、

地元のミュンヘンでも、こういう講座があって、

常連になった。正直向いてるって、思ってる。

自分には才能があるってね。

嫉妬されそうになる事だってある。それは残念だけど

肌で感じるものよ。私が一番私らしいものを

書いたときにそれはモノになってないって、講師に

一蹴されたこともあったわ。でもそんなの、

やっぱり嫉妬なのよ。自分の書いたいいものは、

自分が一番分かるものよ。

たとえ他人がどんなにそれを批判しようとメチャメチャに傷つけようとね」

周りの人々は誰も私たちに注意を払わず、

ソーセージの列の進み具合にイライラするか、

壇上のS・タマー女史のマイク一杯の挨拶に耳を奪われていた。

「でもそんなの、才能や本人の希望なんて、

所詮ちっぽけな理由に過ぎない。

私が書いてる理由なんて、そりゃ書かなけりゃいけないからよ。

書くのが義務だって、私のお腹の誰かが言うからよ。

アンタ、自分の根本が何で始まってるかって

考えたことある?」

私はないと答えた。

「私はハッキリしてるわよ。戦争。

子供の頃、何もかもが理不尽に壊れていく様子を

黙って見させられたのよ。

私や私の世代の人生の始まりは、

『破壊』だったのよ」

破壊、という言葉が燦々と降り注ぐ太陽の光に、

柔らかくこだまし何事もないように溶け込んでいく。

「破壊から人生を始めた人間達は、

それを積み上げなくちゃいけない。私はそんな欲求に

突き動かされて書いてるの。書かなきゃダメ」

そこで彼女は一度言葉を切って、

こういった。

「私には例えば使命があると思う。

・・・アンタ、私の国には、

あの恥ずべきナチスを支援した人たちが大勢居たのよ。

・・・それを知ったときの子供の頃の驚愕、恐怖、怒り、

悲しみ、それをどう表したらいいのか。ドイツ人であることを

隠したいと思った事もある」

「私にはだから、体の底から人類に伝えたいことがある。

歴史が繰り返した愚行の数々に反駁しながら。

それを言葉に置き換えて、抽象化して遠くから強く言うの。

そうせずには居られないの。分かる?」

私は言葉を失っていた。クールな表情のB・B女史が、

身体の裡で燃やしていた薪のあげる火の強さに。

いつの間にソーセージの列が短くなって、屋台の匂いが

近づいたとき、B・B女史が言った。

「それで、アンタは一体どうして、書いたりなんかしてるの?」

私は答えに窮した。しかし本当の回答はやがてすぐに一つ出てきた。

「それは・・・私は戦争なんて見てないし、

大した経験もないですけど・・それでもこれまで生きてて書かなくては・・・

生き延びてこられなかったんです、ある意味本当に」

ホラ見なさい、と言ってB・B女史は間髪を入れずに

私の肩を叩いた。「アンタも私と同じ穴の狢なのよ」


ヴォルフ・ペーター・シュネッツが、自身好んで朗読会で

読む、現代に贈る短い詩をここで記す。


言葉


私は沈黙するために

街へ出た


人々が

口の中に

武器を銜えている


後方より

言葉を

撃ってくる


彼らが私に会うとき

私の傷口は

ひとつ微笑んでみせる

















ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

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更新が滞りすぎて、幽霊会員ならぬ幽霊ブログ化してしまっている本ページです。この度日本での3月の企画を終え、事後報告的に、プログラムノートのの駄文を一度掲載させていただく事とします。お忙しい中いらしてくださいました皆様には、企画を支えて頂き心より感謝いたしますと共に、このページを開けても既にお渡しした文が載っていること、お許しくださいませ。


2009年3月 春の室内楽シリーズ


第一回 ケルン放送響の奏者と共に 

3月6日午後6時半 代々木ムジカーザ

上法奏(ピアノ)

ラファエル・ルーイック(ヴィオラ)

イオネル・ラドニチ(オーボエ)

ルートヴィック・ラスト(ホルン)


第二回 ロマン派の名品を集めて 

3月15日午後2時 けやきホール(古賀政男音楽博物館内)

上法奏

青木調(ヴァイオリン)

上法閑(チェロ)



夢を形に・・・・・二つの室内楽コンサート           上法 奏



私が圧倒的に好きな短編小説の中に、村上龍の「空港にて」がある。人々をそこから一挙に遠くに飛ばそうというエネルギー溢れる空間だけに、題名から既に展望やロマンがそこはかとなく感じられるが、この本には予想をはるかに上回る真の希望が書かれている。


ドイツに縁あって住み始め、空港と我が家との往復が数え切れないほど重なって、あれよあれよという間に9年が経った。1年が過ぎた頃最初の家から引越しをしたのだが、越した先が奇しくも音楽家の家だった。ケルン放送交響楽団ホルン奏者ルートヴィック・ラスト氏が改造した家の一階が、それから私の8年住み続けている我が家である。

家の下見をしに行ったとき、未だ改装中でコンクリートを塗り固めただけのがらんとした灰色の空間に、他に置き場の見当たらなかったらしいドイツ・ライプツィヒ製の木目グランドピアノ、ブリュートナーが置かれていた。「まずは、ピアノでも試してみるかい?」当時40過ぎだった、青い目をしたホルン奏者の大家さんは私に尋ねた。冬だったから、かじかむ手をほぐしながらおそるおそる鍵盤に手を置き、ほとんど音にならぬ音でポロポロと数小節何かを弾いた。そのときイヤに鋭い目線を送っていたかに見えたルートヴィック・ラスト氏は、あとで聞くに、実は真剣そのものだったそうだ。当時彼は私の部屋の真上に住んで、隣の敷地に自分の将来住む家を自ら建設中だった。新居が出来るまでは一年近く掛かる。その間、上で私のピアノを始終聞いて過ごさねばならないのだとしたら、耳障りじゃないピアノ弾きじゃないとダメだ、と思っていたそうだ。「あれは入学試験だったんだよ」と後に、このよく笑う家主はカラカラと笑い声を立てながら言っていた。

一年後、天井の高い、ホルンが良く鳴り響く小音楽ホールを二階に携えたオリジナルの木の家が出来上がると、早速ルートヴィックは音楽仲間を呼んで、自由な形式のハウスコンサートを催すようになった。仕事帰りのオーケストラの団員、バイエルンからの客員奏者、学生、趣味の音楽家。年齢、性別、国籍、実力は問わない。とにかく、弾きたい者が、弾きたいだけ音楽を奏でて、去ってゆく。即興も、民俗音楽もよし、オペラの断片、室内楽の初見大会もあり、ちょっとした小曲から大ソナタまで、音楽があれば、あとは他の皆が黙って暖炉の反対側の壁に寄りかかって聴き、音が鳴りやむと歓声と拍手を贈る。食べ物があったり無かったり、ビール瓶とグラスはいつも人々の両手に握られていた。

そんな調子で、ドイツの変わりやすい天気にさらされるように、私は毎日音楽に埋もれて暮らしたのだ。否応無しに、いつも人の前で弾かされた。時には弾けないコンディションのときもあり、理不尽な初見をさせられたり、ばつが悪い思いをしたことも多かったけれども、次第にそんなことはどうでも良くなってきた。音楽を言葉の代わりとして、気持ちを交える手段として、息を吸うように扱う人々が居ることを、自然と知ったのである。

自宅で音楽をすることを、ケルンのフィルハーモニーや、ウィーン楽友協会で吹くよりずっと幸せに感じる、と家主ルートヴィック・ラスト氏は高らかに言う。彼にとって音楽は、生きる事に直結している。20代前半で、誰もが羨むケルン放送響の副主席ホルン奏者、という席を射止めてから彼は、ステージでホルンを吹きながら、槌を振るい、家を建て、薪を割り、火をおこし、土を耕し、野菜や果物を植え、花を育て、大地と渾然一体となりながら生きてきた。この人を一言で表すならば、ひたすら「大らかさ、寛容さ」という事に尽きる。老若男女、全ての人を招き入れ、ご馳走を振舞い、一緒に音楽を奏で、笑い、励まし、共に遊び、語り合う。私もその一人だった。見ず知らずの日本人を、数小節ピアノを弾かせただけで間借り人にし、それから何十回と危機を救い、相談相手になり、ケルン放送響が来日する際には必ず東京で一緒に演奏しようと約束して、既に8年の歳月が経過した。これからもこの友情はずっと続いていくだろう。今回は、彼とのデュオで、その名も等しい、ルートヴィッヒ(ルートヴィックは、ルートヴィッヒのバイエルン訛り)・ヴァン・ベートーヴェンの輝かしい名曲、ホルンソナタに挑む。

同じ釜の飯を食べた仲、という言葉がある。この家で、今回のほかの二人のメンバー、ラファエル・ルーイック氏、イオネル・ラドニチ氏と、食事を交えながらするリハーサルの始まりは、こんな感じである。

「カナデ~オーブンの天板、貸してくれないか?」大柄なラファエルがやってきて、天板をひらりと片手に乗せてルートヴィックの台所へ行く。すると、ジャガイモやカボチャを薄切りにしておいたイオネルが、それを天板に並べ、オリーブ油とローズマリーをかけて、焼く。傍では、ルートヴィックが特製牛ステーキのソースを作るために、数え切れないニンニクの皮をむいている。たっぷりの溶かしバターに、そのつぶしたニンニクが入って、ぐつぐつ煮込まれる。男性方は真に器用で且つ豪快、あっという間に料理が出来て、私はお皿を並べるぐらいしか当てにされていないのが、ありがたくも悔しい。

こんな食事をした後に、リハーサルが始まる。今回弾くカール・ライネッケのトリオは、オーボエ、ホルン、ピアノという珍しい編成の貴重なオリジナルだが、オーボエ、ヴィオラ、ピアノという組み合わせは見当たらなかった。今年、このケルン放送響日本ツアーを最後に残念ながらオーケストラを定年となる、イオネル氏の年齢を全く想像させない瑞々しく潤沢な音色をイメージしたら、ケルン近郊出身のマックス・ブルッフが作曲した、大好きな「クラリネット・ヴィオラのための二重協奏曲」がふと頭に浮かんだ。早速イオネルに、それをオーボエ用に編曲できないか、と相談を持ちかけると、あっという間に彼はコンピューターでクラリネットパートをオーボエの音域に編集し、それも「オーボエ・ダモーレ」で吹くのがいいと、言ってくれた。その上私に内緒で、ヴィオラのラファエルとこっそりリハーサルをし、この曲の演奏実現が可能かどうか試してみた、というのである。

私の付け焼きのアイデア、そしてイオネル氏の仕事が、もしかしたら実を結ぶかもしれない。青春をそこここに散りばめ、形取ったようなこの魅力的な曲に惚れ込んでしまったイオネル氏は、楽譜出版社に早速電話をして、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ、ピアノのトリオ版の出版を提案したらしい。出版社側はかなり乗り気で、イオネル氏のパート譜、またスコアを喜んで受け取り、現在前向きに検討している、とイオネル氏は少年のように目を輝かせて話してくれた。

ヴィオラのラファエル(愛称ラフィ)氏は、私が昨年11月まで働いていたデトモルト音楽大学の、ヴィオラクラスの元学生だった。外人の相手だからといって容赦なく早口でぺらぺら喋りまくるこの大柄なドイツ人に、何だか胸がスーッと晴れて、一瞬にしてこの人とは友達になれそうだ、と思った。学校を卒業したての自分に対して、それが止むを得ないと分かっていても、ほとんどの学生はいぶかしげな視線を送ったり、変に遠慮したり、あるいは逆に横柄な態度に出たりすることが多かったのである。

半年経ったとき、ある日仕事が終わって、彼とデトモルトからケルン間を、列車の食堂車でビールとジュースを飲みながら一緒に帰った際に、彼はおもむろにこう切り出した。

「カナデ、オレたち学生は君のピアノと弾けて楽しいって、みんな感謝してるぞ。ただしな、一つだけお願いしたいことがあるんだよ。もっともっと自分たちに批判をしてくれ。思いついた音楽的なアイデアや直すべきところ、音程で一つでも、リズム一個でも何でもいいよ、一つ残らず全部遠慮なくぶちまけてくれよ!じゃなきゃ、ためにならないからな。オレが言いたいのは全く、それだけだ!!」

そのときほど目からうろこが落ちる思いがしたことはない。私はそれまで、お茶を濁すように、自分を押し殺して「学生のために」音楽を「合わせる」事に集中していた。歳も大して違わないヴィオラの学生たちに、何だかんだと自分の個人的解釈を押し付ける自信も当時はなかったし、何より違う環境、立場になって、自分自身が戸惑いの渦中にあるという不安を、全面的に顔に出していたのだと察した。そして内部では実のところもやもやした霧の中で彷徨っているような、心許無い日々だった。それをラファエルが、ビールグラスを傾けながら、特急が周囲の景色をはじき飛ばすように走りぬく中、一挙に粉砕してくれたかのようだった。

いい成績で卒業して、一人前のヴィオラ奏者となってケルン放送響で弾くようになってもなお、彼は私と合わせをする度に、いたずらをした子供のように振り返って、問う。「今のはどうだった?これじゃまだきっと、ダメだよねえ」

どんなにお世辞を言っても、私の顔のどこかに不満の表情を読み取る事にもう長けてしまったラファエルは、そしてこう言って帰っていく。「今日はあまりいい音楽できなくてごめんネ。明日は必ずカナデが満足するように弾いて見せるからナ!」その言葉を決して裏切らない、音楽にひたむきで純粋なラファエルが殊の外愛し、得意とするのが、偏屈で内省的だったブラームスの最晩年に書かれた円熟の極み、一番のヴィオラソナタである。

天真爛漫を絵に描いたような彼は、その名「ラファエル(大天使の一人)」の通り、大きな体躯に反して、背中に羽が生えているのではと思わせるほど何ものからも解放されて、軽々としている。その憎めないキャラクターには、私の小著に何度かエピソードとして登場していただいた。貴重な永遠のキッズ、それがラファエル・ルーイックである。

15日の共演者、青木調さんとの共演は、正に長年の夢だった。1996年、オランダの音楽祭で奇しくも同室となって以来のお付き合いだが、実はお会いした回数は、ほんの数回程度である。どうしてここまでコンタクトが途切れなかったかと言えば、それは調さんの類まれな誠意によるものとしか言いようがない。ドイツに渡って以来、ほとんどの友人とつながりが薄くなる中、彼女は毎回毎回、私の日本での本番に訪れてくださるという形で、友情を保ち、膨らましてくれた。ソリスト、室内楽奏者として、NHK交響楽団の奏者、あるいは後進の指導者として目の廻るようなスケジュールをこなす中、一体どうして私の会に毎度いらしてくださるのか、不思議でしょうがなかった。そしてその度に、心温まる感想のお手紙やメールを、時には手作りの美味しいケーキもいただいた。

一度だけ私の家で、急に企画したハウスコンサートで、調さんに一緒に弾いていただいた以外、私の方は近頃彼女の音楽を残念ながら耳にしていない。しかしそのときの鮮烈さ、彼女の生命を託したその音楽の多様さ、奥行きと幅は、私をたちどころに魅了してしまって、頭から離れなくなった。何としても一度、調さんと一緒に音楽をしたい、そんな強固な希望を、今回彼女は快く叶えてくれた。

そしてチェロは、妹の上法閑(のどか)である。どういう縁だか、同じ親の元に生まれて育ち、二十何年もの間同じ屋根の下に暮らし、何でも互いのことを知っていると思いきや、9年国を留守にしていると、久しぶりに会ったり、電話で話したりする彼女が、私の見逃した今の日本を生きていることを思い知らされる。しぐさも、思考回路も、そっくりだと言われるのに、違う尺度と時間の流れの中に生きる兄弟というのは、自分の変化や実像を映し出す小さな手鏡である。久しぶりに会う妹が、どんな音を持って現れるか、楽しみにしようと思う。

曲は、調さんの音楽的空間の豊かさが最も発揮されると考えたブラームスのソナタ第二番に、若き日の情熱「スケルツォ」を加え、チェロにはこの楽器の持つ温かい特性が生かされた、美しい小品を二つ選んだ。そしてメインには、私が15歳のときからレコードで聴きながら心の拠り所としてきた、シューマンのピアノトリオ第一番を演奏することとした。比較的コンサートのプログラムに乗ることの少ないトリオだが、シューマンの才覚がほとばしる、一小節たりとも無駄のない、美しい憂いに満ちつつ雄大な音楽である。


「ドイツ・オーストリアの音楽」と題した二つのプログラム中、型破りな存在となるであろうフリードリッヒ・グルダのピアノ曲「プレリュードとフーガ」について触れておきたい。20世紀最大の巨匠ピアニストの一人であった彼は、1930年オーストリア、ウィーンに生まれている。

2008年夏、私はグルダの次男でピアニスト、パウル・グルダ氏のウィーンの自宅を訪問していた。2週間当地の夏期セミナーで伴奏をする仕事があったのだが、気前のいいパウル氏は、彼がいないときに私が自宅のピアノをいつでも使って練習していいと言ってくれた。

ある日台所のテーブルに、一枚の置手紙があった。「カナデへ、これが先日話した、フリードリッヒ・グルダのバッハのCD」

そのCDとは、息子のパウル氏が自らマスタリングと解説を受け持った、亡き父フリードリッヒ・グルダのバッハのライブCD、新譜だった。パウル氏に依れば、フリードリッヒ氏は若き日に、かばん持ち兼、話し相手になる友人の男性を、世界中の演奏旅行に連れて歩いたという。当時は長旅で、そうでもしないと列車や船の時間が辛いものであったらしい。その男性は、いい録音機をスーツケースの中にいつも付帯していた。そして、全く何の気もなしに、気が向いたときにグルダ氏の演奏会を、レコーディングしていたのだという。その録音テープは、アパートの片隅に放っておかれ、本人はおろか、誰も聴くことがなかった。それを集めて起こしたのが、今回のバッハ集である。パウル氏が見せてくれたCDはサンプルで、まだ製品になる前の段階のものだった。

「ということは、これ、世界中の誰もがまだ聴いてない録音ってこと?」

とわくわくしながら尋ねる私に、パウル氏は「そういうことね、要するに」

と言い、一曲一曲最初の方だけを、少しだけ聴かせてくれ、「あとは、自分がいないときにでもゆっくり聴いてくれ」と言った。そのバッハ集の最後に入っていたのが、フリードリッヒ・グルダ自作のジャズ「プレリュードとフーガ」だった。

「私の、曲です」というフリードリッヒ氏自身の、のん気な声のアナウンスがあったのち、すぐに弾き出されたこの曲の圧倒的な力に私が唖然としていると、息子のパウル氏はため息とも付かない調子で言った。「ねえ・・・うちのオヤジは・・・バッハの後、これだからね・・・」

言葉にもならない、父への称賛のフレーズだった。

パウル氏がいないその日、台所にあった簡易オーディオに、そのCDを突っ込み、私はバッハ集を夢中になって聴き続けた。最後の自作「プレリュードとフーガ」には、止めを刺される想いだった。未だ嘗て、ジャズでフーガを作った人が在っただろうか?あるいは、これからも存在するのだろうか。

パウルのピアノの上に、ふと目をやると、譜面台にちょうどフリードリッヒ・グルダのピアノ作品集が広げてあった。ページを少しめくると、「プレリュードとフーガ」に行き当たり、私は恐る恐るその音符を拾って、ゆっくり弾き始めた。

それが始まりである。二週間の間、度々その曲をキッチンで流しては、ピアノに行ってポロポロと弾いてみる、その繰り返しだった。

それにしても、何という喜びだったことだろう。グルダのプレリュードとフーガは私に新しい生命力と次元を授けてくれた。この曲を知ったということが、まず日々の力となった。クラシック一本やりの自分の足枷が一つ取れ、知らない世界を深呼吸しながら少し歩き始めた感覚。音楽の最も高尚な、そしてバロックからクラシックを繋ぎ、現在に至るまで用いられてきた横と縦の線が奇跡的に交差されるポリフォニー形式で、ついに現代人の誰もが親しめる、しかし限りなく緻密に計算された偉大な音楽を作った人が存在した。私はこの曲をそれからステージで、あるいはルートヴィックのお客様の前で弾くたびに、まずその事に感謝した。そして、グルダ氏の生前の名刺代わりとしてあらゆる場所で弾かれたこの作品に対して、彼が存命中だったら例え直接会うことがなくても、恐れ多くてこれを弾いていることなど誰にも明かせなかったのではないか、と思った。

本年のお正月、再びウィーンに行く用事があり、彼の家を再び挨拶がてら訪問したとき、パウル氏は終わりの方に、「そういえば、夏に聴かせたこのCD、発売になったけど、もう持ってる?持ってなければプレゼントするよ」と言って彼氏自身がプロデュースした、ビニールに包まれた商品を手渡してくれた。

「パウル、・・・怒らないでくれる?」下から目を覗き込んで問うた私に、彼は不思議そうに向き直った。

「実は・・・秘密にしてたんだけど、私このプレリュードとフーガ、最近弾いてるの。夏にここに来てCD聴かせてもらったとき、あまりにも魅力的で、しかもその直後にピアノの上に楽譜発見しちゃったからね」どういう反応をするかと思った芸術家は、その途端机を叩いて、叫んだ。

「ホントか?よくやった!一体何が、怒ることなんだ?すごいなそりゃ、俺は嬉しいよ。君に心からおめでとうを言うよ!!」

そして、こう続けた。

「すごい曲だよな、本当に。誰がジャズでこんなこと今までにやらかしたって言うんだ?思いついた人はいるかもしれないよ、でも、実際にやってのけた人間はいない。・・・ところで、実は俺も丁度この曲、一週間前に始めたんだ。一度も手をつけないでいたんだよ。今まで自分にはこの曲は難しすぎるんじゃないか、ってずっと思ってたのさ」

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ある日リハーサルが終わって、楽器を片付けながらラファエルが言った。「今日みたいに良く弾けたら、日本にオレのファンが一杯出来ちゃうかも。へへっどうしよう」「それを言うなら、自分の方が勝つに決まってるぞ」応戦したのは、ラファエルより34歳年上の、ベテランオーボエ奏者、イオネル氏である。「まあまあ、二人とも、取らぬ狸の皮算用は止めて・・・」とたしなめる私に、イオネル氏はこう言った。「いいだろう。だって、夢を見ることがなくなったら、生きている意味がないじゃないか」

1973年、逃亡が見つかったら必ず5年間牢獄に入れられるという当時のルーマニアから意を決してドイツに亡命したイオネル氏が、何気なく「夢」という言葉を使うとき、そこには計り知れない意味を感じる。

村上龍の「空港にて」には、風俗で働く30代の女性が、理解ある人の協力を得て「義肢装具士(義足を作る仕事をする人)」になることを夢見る話だ。作家は「『この国には何でもある。しかし希望だけがない』と中学生が言う小説を書いてのち、しばらくしてこの『空港にて』で人生最高の短編を書いた」と自負している。希望が全ての人生の原動力であることだけは間違いない。「ドイツで時間を共にしている音楽家も加えた、最も信頼できる友人たちと、東京でアットホームな室内楽の喜びを発信できるプログラムと企画を」と発案したこの二つのコンサートの実現も、義足を作るほどではないにしろ、いつか成し遂げたいけれども出来ないかもしれないと考えていたことだった。一つの夢が叶うとき、そこにはひとえに心ある他者の無償の力が働いている。改めて共演者並びにスタッフの皆様、そしてご来場下さるお客様お一人お一人に、心より感謝申し上げる。ご自宅のソファに座って語らうようなリラックスしたお気持ちで、共演者たちが寄せ合う音楽への情熱、そこに込められた国境や民族を越えた友愛のメッセージの内に、春先の希望の風を少しでもお感じいただけたら、というのが私の更なる大きな願いである。



(「一文・・・」は、次回へと続きます。

間に別の話題へ一度ジャンプします)


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誕生日がやってくる。

今日は前日だが、この家の住人達が

こぞって土曜日を希望したため、一日

早めの誕生日パーティをする。

ドイツでは自分の誕生日は、自分で主催、

招待し、料理を作るのがならわしだ。

何度かこのパーティを開いてきたが、

その都度大勢分の料理を作りなれていない私は、

そこはかとなく緊張する。


11月後半は、日本だった。

京都・バロックザールでのヴァイオリンリサイタル、

ケルン放送交響楽団コンサートマスターである

荻原尚子さんの伴奏をさせていただいた。

ケルンの新コンマスが、若い日本人女性と聞いて、

どんなに強いタイプの人なんだろうと思っていたら、

あるとき面識を持つこととなり、彼女の飾り気のなさに

意外性を持ったのだが、その後しばらく経って

お電話をいただき、

日本でのリサイタルの伴奏を依頼されたときは

心底驚いた。

私と一緒に弾いた他のヴァイオリニストが紹介したとかで、

しかし聴いたこともない私にいきなりそんなお電話を

下さるとは、大胆な方だなあ、と思ったのである。


京都は、本当に幸福な演奏会だった。

そんなシンプルな言葉しか出てこないほど、

この度の尚子さんとの共演は、ひたすら真摯に

音楽と向き合う彼女とともに、

多くの純粋な人としての喜びを味わえた時間だった。

荻原尚子さんという人は、一言で言うに

どこまでも公明正大で、突き抜けるほどに

透明な人だ。

この広い音楽界で最高峰の地位にいる人、という自覚が

おそらくまずない。そんなことよりもより高みに行こうと、

彼女は日々謙虚に研鑽を積むばかりだ。

その周囲の潮流に全く流されない意思の強さと、

30歳を過ぎてもふわふわ浮いた風船のように自由な

天真爛漫さがどこから来るのか、私は

一緒に仕事をするうちにずっと知りたかった。

彼女の地元、愛知県の豊田市で、

京都の本番前に合わせをした際、その源が判明した。

ご両親がまず素晴らしい方たちである。

どこまでも明るく屈託がなく、

ハートそのものが溢れてくる、稀有な方々であった。

そして地元で発足した後援会のメンバーや、

元彼女の才能教育のご師匠、ご両親が見守る中、

彼女は私と黙々とリハーサルを続け、

人々が飽くことなく長時間お付き合いくださった。

途中で後援会主要樹立メンバーの岩月幹子さんが

焼いてくださった美味しいメープルシフォンケーキが

振舞われる。

「尚ちゃん」

と皆から小さい頃からの呼び名で呼ばれる彼女は、

ドイツに行こうが、当地の一流オーケストラの

トップに立とうが、ずっと「尚ちゃん」のままで、

彼女の音楽を長く見守り芯から愛する人たちが、

彼女の音楽から勇気を与えられ、

無償、無言のうちに彼女を支援しているのだった。

そこには首を傾げたくなるようなスター扱い、

偏愛性など一切見られない。

「尚ちゃん」は、一人一人にその気持ちに対して心から御礼をいい、

小さい頃に頑固に練習をしないで困らせた

先生を前にして、私に当時の先生の苦労エピソード

などを無邪気に語ってくれた。

夜は、美味しいお魚料理のお店で楽しいひとときを

持たせていただき、

その後ご一緒に後援会主要メンバー、高崎さんご夫妻と

岩月さんが荻原邸にお見えになる。

本番前に包丁なんて使っていいの、と心配されても

気にしない「尚ちゃん」がむいたリンゴを突付きながら、

メンバーが明日からの行程を話し合う。

「かなでちゃんは先にゆっくりお風呂に入っておいで」

とお母様に言っていただいて、一足お先に温まった私は、

臆面もなくパジャマとタオルを髪に巻いた姿で、

素敵な後援会の皆様を玄関で荻原家のご家族とともに

お見送りしたのだった。


京都行きの短い旅行はご両親と「尚ちゃん」との遠足のようで

楽しかった。

「お母さんのために、コンビニでお煎餅買っておいたよ」

という尚子女史。

「尚ちゃん!黄色い線の内側に下がらなきゃダメだよ」

と電車のホームで諭すお父さん。

京都の雑踏に着くと、お父さんがおもむろに振り返って

「番号、1、2!!」と我々に声をかける。

こんなに平和でユニークな家庭からこそ、

シンプルで偉大な「尚ちゃん」は生まれたのだなあ、と

私は思う。

京都の夜は、湯葉のお料理をいただき、

翌日の緊張を前に、部屋に引き上げた。


「尚ちゃん」は、

翌日力をありった注ぎ込んだ素晴らしい舞台の後、

ロビーに出て、応援してくださったお客様の前で

感激して泣いていた。

長年音楽をしていて、私はこんな人を間近に見たことがなかった。

彼女の半分も音楽の中に入り込めないのに、

鬼の首でも取ったかのように聴衆の人々に対して

振舞う人がいる。

彼女は、小柄な体躯から信じられないエネルギーと

感覚とを用いて、一緒に弾いている私が

ぞくぞくするほど音楽の隅々からインスピレーションを

我々に届けてくれた。

「生命を賭している」という言葉がぴったりだった。

彼女のプログラムの挨拶に、

「今日の演奏会が最高の喜びとなるよう、

精一杯尽くします」とあって、

その通りを実行する彼女に、胸が熱くなった。


そういえば尚子さんの取ってくれた飛行機は、

KLMオランダ航空だったのだが、

私は偶然最終ゲートでもう一人の幸福な知人に

出くわした。

「あ、カナデ・・・」

堂々たるマントに包まれた大柄な彼が、

ゆったりと腰を上げる。わが師、ヴァシリー・ロバノフ氏である。

「アンタ、どこ行くの一体?」

「日本です。先生は?」

「僕は・・・カナダだよ。お互い、長旅で、

めんどくさいね」

聞くと、彼はカナダの音楽フェスティヴァルで、

自作品を含む20分の演奏のために、飛ぶのだという。

「そいで、アンタは」

「私は京都で、ヴァイオリンの伴奏です」

と言うと、「そうかい。今度そういや、日本行くんだ。

ヴァイオリンの、コーリャ・ブラッハーと一緒に

弾くためにね」

と言う。

「ブラッハーは、偶然、今回私が一緒に弾く

ヴァイオリニストの、先生ですよ。

荻原さんといってね、ケルン放送響の、

コンサートマスターなんです」

と驚いて言うと、「あ、そう」

と事も無げに言う氏である。

彼にとっては、人々の関係性や、肩書きや、

日々の些事については本当に

無関心で、大抵の人が関心を持つことは、

彼には取るに足らない事なのである。

日本ではどこで弾くの、ときいても、

「わからない・・・東京じゃないかね・・・」

というばかりだし、

「コーリャは、よく日本で演奏会を得てくるよ

・・・彼は有名なんだろうね」

とつぶやく。悠然としたお方である。

「それよりね、カナデ。いつアンタの本、

ドイツ語訳にして出してくれるの」

質問が突如として際どいところに来た。

昨年3月に出した拙著には、彼が頻繁に登場する事は

言っておいたのだが、以来、彼はそれを読みたがって

やまないのである。大変申し訳ないが、

正確にドイツ語訳するには私の語学力が足りないし、

何しろ彼自身の描写を全てさらけ出すことは、

ご本人を前にして物真似をして見せるような

もので、なんとなく気が引けるのである。

「先生、当分は、というかほぼ100パーセント、

そんな日が来ることはありませんから、どうぞ

諦めてくださいよ。大した本じゃないですから」

「ふん・・・」

つまらなそうに視線を落とす彼に私は言った。

「それより、先生のホームページに載ってる

ロシア語の詩を、ドイツ語で読みたいです。

訳してくださいよ、是非」

「だって・・・・」

子供のように首を縮めていう彼は、ゆっくり続けた。

「ロシア語でだって、出版なんてどういう経路でするのか、

見当もつかないね。英語やドイツ語に訳すなんて、

お金もかかるしね」

しかし、とてつもないスケールの大きさを誇る

彼の世界を、言葉で経験してみたいものである。

ふと彼は前方のゲート入り口を指差して言った。

「ねえカナデ、あそこにアラブ系の、三人家族が

いるでしょ。・・・あの人たちを観察してると、

どうもちょっと不自然だよ。だって、一番前に並んでるけど、

いつまでも切符を通してもらえないじゃない。

チェックインのときも、もの凄く時間がかかったんだ・・・」

へえ、と私は彼の憂い顔を横目で見ながら、

細い目で世界の出来事を逐一観察しているお方だと、

改めて認識していた。

しかしそのうち搭乗への放送がかかり、

ゲートが開いて、三人家族は全く問題なくチケットを通し、

飛行機に乗り込んだ。

師は、パッと顔の色を明るくして言った。

「あ、ゲートが今しがた、開いたんだ。

・・・僕の心配は、完全な根拠のない杞憂に過ぎなかったね。

本当に悪いね、僕は。

あのねカナデ、僕はね、何かと朝ほどろくなことを

考えない人間でね。夜になればなるほど、ポジティヴに、

マシな思考になっていく傾向にあるんだよ。許してね」


アムステルダムに到着し、ゲートに行くバスで、

また師に会う。

「カナデ、生きてたかね。僕は半分以上

眠ってたよ」

師は、周囲に視線を投げて言う。

「アムステルダムの街は、あれだね、

ファミコンのように正確に、うまく作られているね、

上から見ると」

ファミコンのように、か・・・と私は思う。

この偉大な師は、日本のゲーム機に夢中になるあまり、

翌日のレッスンに来られなかったり、

腱鞘炎を(ピアノからでなく)引き起こす前科の持ち主として、

あまりに有名なのである。

「任天堂の新しい○○、知ってる、カナデ?

カナデは、ファミコン、好き?」

なんちゅう会話だ、と私はバスに揺られて

心許無い足元を必死で棒につかまって支えながら、

思う。

「別に、好きでもないです。テトリス、とかブロックを積む

ゲームに一時期はまったことはありますけど」

あ、ゲームボーイね、あれ持ってたの、

と師は、私がどこで何を弾くかよりずっとそのことの方が

人生で重要かの如く目をキラキラさせて尋ねる。

「先生は、じゃあ、どのタイプのゲームが一番熱中するん

ですか?」

よくぞ訊いてくれた、とばかりに彼は喜んで応えた。

「うん、やっぱりね、主人公がいて、

敵がいて、それを防ぎながら、宝探しをして、

生き延びて最後まで辿り着けるような、

冒険モノ☆ロマンと、ストーリー性があるもの」

典型的男性なのだろうか。

それにしても、音楽界において、

彼の社会への参画の度合いは、甚だ低く、

森の中で作曲やゲームや読書や携わるのが

何よりも大事な彼は、いわゆる審査員などの政治的なことは

一切関心がないし、私が学生時代、

学校で行われているコンクールなどは、

審査どころか聴きに来たこともない。

終わって電話をすると、

「カナデ・・・何だっけコンクールって・・・?

今、学校に向かって歩いてるよ。部屋で牛乳飲みながら、

話聞いてもいい?」

という有様だし、

試験前日のリハーサルでピアノ選びをするときも、

真剣に迷う私に、

「どっちでも完璧だよ・・・あのさ、お家に

帰りたいんだけど、いいでしょ?」

と懇願するような教授だったのである。

「ネコにどうしても餌をやりたい」

という理由でレッスンを中断したこともあれば、

「金歯を謝って飲み込んでしまった」

という珍しいハプニングでそそくさと家に帰ったこともある。

そんな教授のどこが凄いのか、と人々は

思うかもしれないが、彼がピアノの前に座れば、

そこに異次元がたちどころに開ける。

この人の境地には、世界の誰もが未だ嘗て

辿り着いたことがないだろう、

と彼の弟子は全員思っている。

それから彼の偉いところは、生徒が彼の前で弾くときに、

間違いなどに一切反応しないところだった。

メチャクチャになっても、顔色一つ変えないで、

視線一つ動かさずに、

横でジーッ(ボーッ)としている。

時々、そのまま寝ていて、おあつらえむきに

曲が終わった瞬間に目を開ける。

そして、ピアノに手を下ろすと、

弾いたこともない曲をおもむろに大づかみに料理してみせ、

「芸術とは究極的にはこういうものだよ」

と、無言で我々に突きつけるのである。

卒業間近には、誰もがそれぞれのやり方、

範囲内で、何かしら大きな大切な言葉を身につける、

それがロバノフ流の教育で、

それを意識すらしていないのがわが師である。

言ってみれば、「あとは野となれ山となれ」

で、別に他人にどうなって欲しい、

などという願望や展望など一切なく、

生徒の将来や成績を自分のために利用しようなどという

教授にありがちな姑息な考えから程遠い。

自分の人間離れ度合いも、おそらく分かっていない。


母が親しくさせていただいている書道家の方が、

「偉大な人はカッコつける必要がない。カッコつけてる人は、

所詮括弧( )つきなんだ」

と発言された、という。

私の最近会った、この二人の人が、

それを良く示している。

誕生日を前に、胸がすくような気持ちがしている。

随分遠くまで生きてきたなあ、と年齢を意識して

実感するが、少しも美しくも誇ることもない人生で、

情けないことや涙や怒りがふんだんに盛りこまれた

毎日であるにもかかわらず、

しかし面白すぎて退屈したことだけはなく、

他のどんな立派な人生とも、

これまでの自分の時間を取り替えたいとは思わないのは、

ひとえにこんな人々に出会えた幸福の大きさに

依ると思う。