更新が滞りすぎて、幽霊会員ならぬ幽霊ブログ化してしまっている本ページです。この度日本での3月の企画を終え、事後報告的に、プログラムノートのの駄文を一度掲載させていただく事とします。お忙しい中いらしてくださいました皆様には、企画を支えて頂き心より感謝いたしますと共に、このページを開けても既にお渡しした文が載っていること、お許しくださいませ。
2009年3月 春の室内楽シリーズ
第一回 ケルン放送響の奏者と共に
3月6日午後6時半 代々木ムジカーザ
上法奏(ピアノ)
ラファエル・ルーイック(ヴィオラ)
イオネル・ラドニチ(オーボエ)
ルートヴィック・ラスト(ホルン)
第二回 ロマン派の名品を集めて
3月15日午後2時 けやきホール(古賀政男音楽博物館内)
上法奏
青木調(ヴァイオリン)
上法閑(チェロ)
夢を形に・・・・・二つの室内楽コンサート 上法 奏
私が圧倒的に好きな短編小説の中に、村上龍の「空港にて」がある。人々をそこから一挙に遠くに飛ばそうというエネルギー溢れる空間だけに、題名から既に展望やロマンがそこはかとなく感じられるが、この本には予想をはるかに上回る真の希望が書かれている。
ドイツに縁あって住み始め、空港と我が家との往復が数え切れないほど重なって、あれよあれよという間に9年が経った。1年が過ぎた頃最初の家から引越しをしたのだが、越した先が奇しくも音楽家の家だった。ケルン放送交響楽団ホルン奏者ルートヴィック・ラスト氏が改造した家の一階が、それから私の8年住み続けている我が家である。
家の下見をしに行ったとき、未だ改装中でコンクリートを塗り固めただけのがらんとした灰色の空間に、他に置き場の見当たらなかったらしいドイツ・ライプツィヒ製の木目グランドピアノ、ブリュートナーが置かれていた。「まずは、ピアノでも試してみるかい?」当時40過ぎだった、青い目をしたホルン奏者の大家さんは私に尋ねた。冬だったから、かじかむ手をほぐしながらおそるおそる鍵盤に手を置き、ほとんど音にならぬ音でポロポロと数小節何かを弾いた。そのときイヤに鋭い目線を送っていたかに見えたルートヴィック・ラスト氏は、あとで聞くに、実は真剣そのものだったそうだ。当時彼は私の部屋の真上に住んで、隣の敷地に自分の将来住む家を自ら建設中だった。新居が出来るまでは一年近く掛かる。その間、上で私のピアノを始終聞いて過ごさねばならないのだとしたら、耳障りじゃないピアノ弾きじゃないとダメだ、と思っていたそうだ。「あれは入学試験だったんだよ」と後に、このよく笑う家主はカラカラと笑い声を立てながら言っていた。
一年後、天井の高い、ホルンが良く鳴り響く小音楽ホールを二階に携えたオリジナルの木の家が出来上がると、早速ルートヴィックは音楽仲間を呼んで、自由な形式のハウスコンサートを催すようになった。仕事帰りのオーケストラの団員、バイエルンからの客員奏者、学生、趣味の音楽家。年齢、性別、国籍、実力は問わない。とにかく、弾きたい者が、弾きたいだけ音楽を奏でて、去ってゆく。即興も、民俗音楽もよし、オペラの断片、室内楽の初見大会もあり、ちょっとした小曲から大ソナタまで、音楽があれば、あとは他の皆が黙って暖炉の反対側の壁に寄りかかって聴き、音が鳴りやむと歓声と拍手を贈る。食べ物があったり無かったり、ビール瓶とグラスはいつも人々の両手に握られていた。
そんな調子で、ドイツの変わりやすい天気にさらされるように、私は毎日音楽に埋もれて暮らしたのだ。否応無しに、いつも人の前で弾かされた。時には弾けないコンディションのときもあり、理不尽な初見をさせられたり、ばつが悪い思いをしたことも多かったけれども、次第にそんなことはどうでも良くなってきた。音楽を言葉の代わりとして、気持ちを交える手段として、息を吸うように扱う人々が居ることを、自然と知ったのである。
自宅で音楽をすることを、ケルンのフィルハーモニーや、ウィーン楽友協会で吹くよりずっと幸せに感じる、と家主ルートヴィック・ラスト氏は高らかに言う。彼にとって音楽は、生きる事に直結している。20代前半で、誰もが羨むケルン放送響の副主席ホルン奏者、という席を射止めてから彼は、ステージでホルンを吹きながら、槌を振るい、家を建て、薪を割り、火をおこし、土を耕し、野菜や果物を植え、花を育て、大地と渾然一体となりながら生きてきた。この人を一言で表すならば、ひたすら「大らかさ、寛容さ」という事に尽きる。老若男女、全ての人を招き入れ、ご馳走を振舞い、一緒に音楽を奏で、笑い、励まし、共に遊び、語り合う。私もその一人だった。見ず知らずの日本人を、数小節ピアノを弾かせただけで間借り人にし、それから何十回と危機を救い、相談相手になり、ケルン放送響が来日する際には必ず東京で一緒に演奏しようと約束して、既に8年の歳月が経過した。これからもこの友情はずっと続いていくだろう。今回は、彼とのデュオで、その名も等しい、ルートヴィッヒ(ルートヴィックは、ルートヴィッヒのバイエルン訛り)・ヴァン・ベートーヴェンの輝かしい名曲、ホルンソナタに挑む。
同じ釜の飯を食べた仲、という言葉がある。この家で、今回のほかの二人のメンバー、ラファエル・ルーイック氏、イオネル・ラドニチ氏と、食事を交えながらするリハーサルの始まりは、こんな感じである。
「カナデ~オーブンの天板、貸してくれないか?」大柄なラファエルがやってきて、天板をひらりと片手に乗せてルートヴィックの台所へ行く。すると、ジャガイモやカボチャを薄切りにしておいたイオネルが、それを天板に並べ、オリーブ油とローズマリーをかけて、焼く。傍では、ルートヴィックが特製牛ステーキのソースを作るために、数え切れないニンニクの皮をむいている。たっぷりの溶かしバターに、そのつぶしたニンニクが入って、ぐつぐつ煮込まれる。男性方は真に器用で且つ豪快、あっという間に料理が出来て、私はお皿を並べるぐらいしか当てにされていないのが、ありがたくも悔しい。
こんな食事をした後に、リハーサルが始まる。今回弾くカール・ライネッケのトリオは、オーボエ、ホルン、ピアノという珍しい編成の貴重なオリジナルだが、オーボエ、ヴィオラ、ピアノという組み合わせは見当たらなかった。今年、このケルン放送響日本ツアーを最後に残念ながらオーケストラを定年となる、イオネル氏の年齢を全く想像させない瑞々しく潤沢な音色をイメージしたら、ケルン近郊出身のマックス・ブルッフが作曲した、大好きな「クラリネット・ヴィオラのための二重協奏曲」がふと頭に浮かんだ。早速イオネルに、それをオーボエ用に編曲できないか、と相談を持ちかけると、あっという間に彼はコンピューターでクラリネットパートをオーボエの音域に編集し、それも「オーボエ・ダモーレ」で吹くのがいいと、言ってくれた。その上私に内緒で、ヴィオラのラファエルとこっそりリハーサルをし、この曲の演奏実現が可能かどうか試してみた、というのである。
私の付け焼きのアイデア、そしてイオネル氏の仕事が、もしかしたら実を結ぶかもしれない。青春をそこここに散りばめ、形取ったようなこの魅力的な曲に惚れ込んでしまったイオネル氏は、楽譜出版社に早速電話をして、オーボエ・ダモーレ、ヴィオラ、ピアノのトリオ版の出版を提案したらしい。出版社側はかなり乗り気で、イオネル氏のパート譜、またスコアを喜んで受け取り、現在前向きに検討している、とイオネル氏は少年のように目を輝かせて話してくれた。
ヴィオラのラファエル(愛称ラフィ)氏は、私が昨年11月まで働いていたデトモルト音楽大学の、ヴィオラクラスの元学生だった。外人の相手だからといって容赦なく早口でぺらぺら喋りまくるこの大柄なドイツ人に、何だか胸がスーッと晴れて、一瞬にしてこの人とは友達になれそうだ、と思った。学校を卒業したての自分に対して、それが止むを得ないと分かっていても、ほとんどの学生はいぶかしげな視線を送ったり、変に遠慮したり、あるいは逆に横柄な態度に出たりすることが多かったのである。
半年経ったとき、ある日仕事が終わって、彼とデトモルトからケルン間を、列車の食堂車でビールとジュースを飲みながら一緒に帰った際に、彼はおもむろにこう切り出した。
「カナデ、オレたち学生は君のピアノと弾けて楽しいって、みんな感謝してるぞ。ただしな、一つだけお願いしたいことがあるんだよ。もっともっと自分たちに批判をしてくれ。思いついた音楽的なアイデアや直すべきところ、音程で一つでも、リズム一個でも何でもいいよ、一つ残らず全部遠慮なくぶちまけてくれよ!じゃなきゃ、ためにならないからな。オレが言いたいのは全く、それだけだ!!」
そのときほど目からうろこが落ちる思いがしたことはない。私はそれまで、お茶を濁すように、自分を押し殺して「学生のために」音楽を「合わせる」事に集中していた。歳も大して違わないヴィオラの学生たちに、何だかんだと自分の個人的解釈を押し付ける自信も当時はなかったし、何より違う環境、立場になって、自分自身が戸惑いの渦中にあるという不安を、全面的に顔に出していたのだと察した。そして内部では実のところもやもやした霧の中で彷徨っているような、心許無い日々だった。それをラファエルが、ビールグラスを傾けながら、特急が周囲の景色をはじき飛ばすように走りぬく中、一挙に粉砕してくれたかのようだった。
いい成績で卒業して、一人前のヴィオラ奏者となってケルン放送響で弾くようになってもなお、彼は私と合わせをする度に、いたずらをした子供のように振り返って、問う。「今のはどうだった?これじゃまだきっと、ダメだよねえ」
どんなにお世辞を言っても、私の顔のどこかに不満の表情を読み取る事にもう長けてしまったラファエルは、そしてこう言って帰っていく。「今日はあまりいい音楽できなくてごめんネ。明日は必ずカナデが満足するように弾いて見せるからナ!」その言葉を決して裏切らない、音楽にひたむきで純粋なラファエルが殊の外愛し、得意とするのが、偏屈で内省的だったブラームスの最晩年に書かれた円熟の極み、一番のヴィオラソナタである。
天真爛漫を絵に描いたような彼は、その名「ラファエル(大天使の一人)」の通り、大きな体躯に反して、背中に羽が生えているのではと思わせるほど何ものからも解放されて、軽々としている。その憎めないキャラクターには、私の小著に何度かエピソードとして登場していただいた。貴重な永遠のキッズ、それがラファエル・ルーイックである。
15日の共演者、青木調さんとの共演は、正に長年の夢だった。1996年、オランダの音楽祭で奇しくも同室となって以来のお付き合いだが、実はお会いした回数は、ほんの数回程度である。どうしてここまでコンタクトが途切れなかったかと言えば、それは調さんの類まれな誠意によるものとしか言いようがない。ドイツに渡って以来、ほとんどの友人とつながりが薄くなる中、彼女は毎回毎回、私の日本での本番に訪れてくださるという形で、友情を保ち、膨らましてくれた。ソリスト、室内楽奏者として、NHK交響楽団の奏者、あるいは後進の指導者として目の廻るようなスケジュールをこなす中、一体どうして私の会に毎度いらしてくださるのか、不思議でしょうがなかった。そしてその度に、心温まる感想のお手紙やメールを、時には手作りの美味しいケーキもいただいた。
一度だけ私の家で、急に企画したハウスコンサートで、調さんに一緒に弾いていただいた以外、私の方は近頃彼女の音楽を残念ながら耳にしていない。しかしそのときの鮮烈さ、彼女の生命を託したその音楽の多様さ、奥行きと幅は、私をたちどころに魅了してしまって、頭から離れなくなった。何としても一度、調さんと一緒に音楽をしたい、そんな強固な希望を、今回彼女は快く叶えてくれた。
そしてチェロは、妹の上法閑(のどか)である。どういう縁だか、同じ親の元に生まれて育ち、二十何年もの間同じ屋根の下に暮らし、何でも互いのことを知っていると思いきや、9年国を留守にしていると、久しぶりに会ったり、電話で話したりする彼女が、私の見逃した今の日本を生きていることを思い知らされる。しぐさも、思考回路も、そっくりだと言われるのに、違う尺度と時間の流れの中に生きる兄弟というのは、自分の変化や実像を映し出す小さな手鏡である。久しぶりに会う妹が、どんな音を持って現れるか、楽しみにしようと思う。
曲は、調さんの音楽的空間の豊かさが最も発揮されると考えたブラームスのソナタ第二番に、若き日の情熱「スケルツォ」を加え、チェロにはこの楽器の持つ温かい特性が生かされた、美しい小品を二つ選んだ。そしてメインには、私が15歳のときからレコードで聴きながら心の拠り所としてきた、シューマンのピアノトリオ第一番を演奏することとした。比較的コンサートのプログラムに乗ることの少ないトリオだが、シューマンの才覚がほとばしる、一小節たりとも無駄のない、美しい憂いに満ちつつ雄大な音楽である。
「ドイツ・オーストリアの音楽」と題した二つのプログラム中、型破りな存在となるであろうフリードリッヒ・グルダのピアノ曲「プレリュードとフーガ」について触れておきたい。20世紀最大の巨匠ピアニストの一人であった彼は、1930年オーストリア、ウィーンに生まれている。
2008年夏、私はグルダの次男でピアニスト、パウル・グルダ氏のウィーンの自宅を訪問していた。2週間当地の夏期セミナーで伴奏をする仕事があったのだが、気前のいいパウル氏は、彼がいないときに私が自宅のピアノをいつでも使って練習していいと言ってくれた。
ある日台所のテーブルに、一枚の置手紙があった。「カナデへ、これが先日話した、フリードリッヒ・グルダのバッハのCD」
そのCDとは、息子のパウル氏が自らマスタリングと解説を受け持った、亡き父フリードリッヒ・グルダのバッハのライブCD、新譜だった。パウル氏に依れば、フリードリッヒ氏は若き日に、かばん持ち兼、話し相手になる友人の男性を、世界中の演奏旅行に連れて歩いたという。当時は長旅で、そうでもしないと列車や船の時間が辛いものであったらしい。その男性は、いい録音機をスーツケースの中にいつも付帯していた。そして、全く何の気もなしに、気が向いたときにグルダ氏の演奏会を、レコーディングしていたのだという。その録音テープは、アパートの片隅に放っておかれ、本人はおろか、誰も聴くことがなかった。それを集めて起こしたのが、今回のバッハ集である。パウル氏が見せてくれたCDはサンプルで、まだ製品になる前の段階のものだった。
「ということは、これ、世界中の誰もがまだ聴いてない録音ってこと?」
とわくわくしながら尋ねる私に、パウル氏は「そういうことね、要するに」
と言い、一曲一曲最初の方だけを、少しだけ聴かせてくれ、「あとは、自分がいないときにでもゆっくり聴いてくれ」と言った。そのバッハ集の最後に入っていたのが、フリードリッヒ・グルダ自作のジャズ「プレリュードとフーガ」だった。
「私の、曲です」というフリードリッヒ氏自身の、のん気な声のアナウンスがあったのち、すぐに弾き出されたこの曲の圧倒的な力に私が唖然としていると、息子のパウル氏はため息とも付かない調子で言った。「ねえ・・・うちのオヤジは・・・バッハの後、これだからね・・・」
言葉にもならない、父への称賛のフレーズだった。
パウル氏がいないその日、台所にあった簡易オーディオに、そのCDを突っ込み、私はバッハ集を夢中になって聴き続けた。最後の自作「プレリュードとフーガ」には、止めを刺される想いだった。未だ嘗て、ジャズでフーガを作った人が在っただろうか?あるいは、これからも存在するのだろうか。
パウルのピアノの上に、ふと目をやると、譜面台にちょうどフリードリッヒ・グルダのピアノ作品集が広げてあった。ページを少しめくると、「プレリュードとフーガ」に行き当たり、私は恐る恐るその音符を拾って、ゆっくり弾き始めた。
それが始まりである。二週間の間、度々その曲をキッチンで流しては、ピアノに行ってポロポロと弾いてみる、その繰り返しだった。
それにしても、何という喜びだったことだろう。グルダのプレリュードとフーガは私に新しい生命力と次元を授けてくれた。この曲を知ったということが、まず日々の力となった。クラシック一本やりの自分の足枷が一つ取れ、知らない世界を深呼吸しながら少し歩き始めた感覚。音楽の最も高尚な、そしてバロックからクラシックを繋ぎ、現在に至るまで用いられてきた横と縦の線が奇跡的に交差されるポリフォニー形式で、ついに現代人の誰もが親しめる、しかし限りなく緻密に計算された偉大な音楽を作った人が存在した。私はこの曲をそれからステージで、あるいはルートヴィックのお客様の前で弾くたびに、まずその事に感謝した。そして、グルダ氏の生前の名刺代わりとしてあらゆる場所で弾かれたこの作品に対して、彼が存命中だったら例え直接会うことがなくても、恐れ多くてこれを弾いていることなど誰にも明かせなかったのではないか、と思った。
本年のお正月、再びウィーンに行く用事があり、彼の家を再び挨拶がてら訪問したとき、パウル氏は終わりの方に、「そういえば、夏に聴かせたこのCD、発売になったけど、もう持ってる?持ってなければプレゼントするよ」と言って彼氏自身がプロデュースした、ビニールに包まれた商品を手渡してくれた。
「パウル、・・・怒らないでくれる?」下から目を覗き込んで問うた私に、彼は不思議そうに向き直った。
「実は・・・秘密にしてたんだけど、私このプレリュードとフーガ、最近弾いてるの。夏にここに来てCD聴かせてもらったとき、あまりにも魅力的で、しかもその直後にピアノの上に楽譜発見しちゃったからね」どういう反応をするかと思った芸術家は、その途端机を叩いて、叫んだ。
「ホントか?よくやった!一体何が、怒ることなんだ?すごいなそりゃ、俺は嬉しいよ。君に心からおめでとうを言うよ!!」
そして、こう続けた。
「すごい曲だよな、本当に。誰がジャズでこんなこと今までにやらかしたって言うんだ?思いついた人はいるかもしれないよ、でも、実際にやってのけた人間はいない。・・・ところで、実は俺も丁度この曲、一週間前に始めたんだ。一度も手をつけないでいたんだよ。今まで自分にはこの曲は難しすぎるんじゃないか、ってずっと思ってたのさ」
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ある日リハーサルが終わって、楽器を片付けながらラファエルが言った。「今日みたいに良く弾けたら、日本にオレのファンが一杯出来ちゃうかも。へへっどうしよう」「それを言うなら、自分の方が勝つに決まってるぞ」応戦したのは、ラファエルより34歳年上の、ベテランオーボエ奏者、イオネル氏である。「まあまあ、二人とも、取らぬ狸の皮算用は止めて・・・」とたしなめる私に、イオネル氏はこう言った。「いいだろう。だって、夢を見ることがなくなったら、生きている意味がないじゃないか」
1973年、逃亡が見つかったら必ず5年間牢獄に入れられるという当時のルーマニアから意を決してドイツに亡命したイオネル氏が、何気なく「夢」という言葉を使うとき、そこには計り知れない意味を感じる。
村上龍の「空港にて」には、風俗で働く30代の女性が、理解ある人の協力を得て「義肢装具士(義足を作る仕事をする人)」になることを夢見る話だ。作家は「『この国には何でもある。しかし希望だけがない』と中学生が言う小説を書いてのち、しばらくしてこの『空港にて』で人生最高の短編を書いた」と自負している。希望が全ての人生の原動力であることだけは間違いない。「ドイツで時間を共にしている音楽家も加えた、最も信頼できる友人たちと、東京でアットホームな室内楽の喜びを発信できるプログラムと企画を」と発案したこの二つのコンサートの実現も、義足を作るほどではないにしろ、いつか成し遂げたいけれども出来ないかもしれないと考えていたことだった。一つの夢が叶うとき、そこにはひとえに心ある他者の無償の力が働いている。改めて共演者並びにスタッフの皆様、そしてご来場下さるお客様お一人お一人に、心より感謝申し上げる。ご自宅のソファに座って語らうようなリラックスしたお気持ちで、共演者たちが寄せ合う音楽への情熱、そこに込められた国境や民族を越えた友愛のメッセージの内に、春先の希望の風を少しでもお感じいただけたら、というのが私の更なる大きな願いである。