ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ -2ページ目

ドイツ在住ピアノ弾き 上法 奏のブログ

ライン河沿いの古都、ケルンの街角から送る、人々の歌声をつづる日記

(この巻が完結せぬうちに年を越すのだけはやめようと

思います・笑・

そろそろいい加減別の話題に行きたいですし・・・

ご覧下さった皆様、

いつも同じ画面で大変申し訳ありませんでした・・・。)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その晩、私は、筋肉など何も使っていないのに

痛むような気がする節々をほぐしながら、

寮の部屋の大きな書き物机に向かって

今日の強烈な一日を元に、

ウィーンの日々からのこの地へ移動した際の印象

を書いた「別離」を推敲した。

書き直し作業は、詩にとっては手術と同じく

根本から雑物を取り除く仕事である。

シュネッツ氏の「お腹から書け」

という言葉が、私に勇気を与えた。

正しい答えなど一切ない世界、しかし、

その場に該当する言葉というものは、

唯一、自分の中に埋まっていて、それを

手探りで掘り起こす以外にない。

それが終わって自然と次のページに筆が行き、

「故郷」と題した詩ができた。

「故郷」は、生まれ育った場所を出て長年遠国に

暮らす私の、「果たして故郷の概念とは

何か」という思いが自ずと形となったものだった。

今日の、見知らぬ心ある人々との一日が

私の故郷でもあり、安住の地でもあることを、

私は無意識にそこに盛り込んでいた。

真にシンプル且つ稚拙な作品である。しかし後に

この「故郷」がヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏

のツボになぜかしらはまり、

彼がこれをヴァルメンシュタイナッハの

朗読イヴェント全体のテーマとして、会を

「故郷のある場所」と題することになろうとは、

夢にも思わなかった。


翌日、午後の休み時間にフラウケが私のところにやってきて

意気揚々と言った。

「カナデ!今日はね、あなたの作品を私のコンピュータに

入れて、印刷して、皆に配るわよ。いいわね。

私、ヴォルフ・ペーターに頼まれてるんだから。

ちゃんとした文字で見てこそ、

作品のよしあしも分かるってモノよ。

だから、お昼が終わったら、私と付き合ってね」

助け舟、というが、このように私はドイツに来てからというもの、

情けないことに絶えずこのように自発的に私を

助けようとしてくれる人のお世話にならずには

生きてこられなかったのだ。

補われ、救われ、与えられる人生である。

だから、自分ができる微々たることに関しては、

とかく全力以上あげても、し足りないと常々思っている。

「ええ?いいの?折角のお休み時間に・・・」

「お安い御用よ!私だって、個人的にあなたの詩、

ほしいんだもの」

とフラウケは事も無げに言った。

コンピュータを教室につなげに行く途中で、

フラウケは廊下で長い足をせっせと運びながら、

突然誇らしげに言った。

「あなた、ヴォルフ・ペーターの長編小説、

『青春の罪』って知ってる?あれにね、私、実名で

登場するのよ!!しかも、役回りは、

彼にとっての、『サロメ』なのよ!!すごいでしょ?」

私は肝をつぶした。サロメというのは、普通の解釈では、

男性を狂わせ惑わす、魔性の女の代表格である。

「フラウケがサロメ・・・?」

私は、この女性がそのような性質を有するのかと、

首を傾げたい気持ちになった。「私、サロメよ!」

と宣言する無邪気さは、実際サロメとは程遠い。

それに、「ヴォルフ・ペーターとはずっと只の友達よ」

という彼女のおとといの発言と矛盾する。

でも、その小説が急に読みたくなった。

「その作品は、残念ながら絶版だし、どこにも売ってないから、

私が家に帰ったらあなたに送るわよ。

ちゃんと読んでね。楽しみにしていてね!!」

それから彼女は、ざっと自分の恋愛遍歴について、

長い廊下の道中で全部語ってくれた。

2度結婚、離婚して、今はパートナーと離れて暮らした挙句、

最近一緒の住居に住まうことにしたと言う。

「あんな人たち、愚かでわからんちんなんだから、

私たちが理解してあげる必要はないわよ。

それに、距離は必要!ある程度自立してれば、

また一緒に暮らしたりもできるけど、最初から

べたべたずっといたら、すぐに終わっちゃう。

それにね、カナデ、私たちは互いに理解できないから

面白いのよ。質問も疑問もない相手なんかに、

どうやって興味持ち続けられる??」

69歳の高らかな恋愛現役宣言だった。

この弾む鞠のようなフラウケに、どのように

ヴォルフ・ペーターが振り回されたか、

大体見当がつくような気がしていた。

コンピューターに関しては、

彼女は常識的な69歳の女性のイメージを

裏切らなかった。まず、電源を入れても、

インターネットに繋げない。人を呼んで、

やっとつながっても、ワードに入れた詩が、

どこのファイルに行ってしまったか、

分からない。

それが見つかっても、今度は印刷器に問題が出てくる。

仕方なしに、ワードを添付でフラウケのメールで

私のアドレスに送り、それを事務局で印刷してもらおうと

私が提案すると、彼女は重いノートパソコンと電源を、

「私が持たなきゃ嫌なの!!」と言い張って抱えて

ハーハーいいながら私とまたもや長い廊下を亘った。

事務局で印刷を頼み終ると、もう授業時間である。

にもかかわらず、彼女はインターネットがたやすくつながった

喜びから、悠長にメールチェックをし、

「もう、午後の授業が始まってる・・・」

という私に、「そんなのかまわない!!」

と叫び続けて私用の返信をゆっくり始める有様である。

「先に行ってもいいわよ」と言うフラウケを残し、

私は丁重にお礼を言って、

この女性と一緒になる男性のハチャメチャ共同生活ぶりを

想像して、長い廊下を苦笑交じりに走り終えた。










午後の授業が始まった。

バルバラ・クローン女史が、手を上げて、

まず発言する。

「皆さん、午後の始まりに、

いい新聞記事を見つけましたから、

是非読ませてください。

皆さんにまさにうってつけの話題なんですよ」

その記事と言うのは、

93歳のイギリス人、

ローラ・ページさんという老婦人が書いたデビュー小説が

売れに売れて、その収益でユースホステルを建て、

自らそこに暮らしている、という話だった。

「うわあ」

一同は、高い歓声を上げた。

「独りで暮らすより、若い人に囲まれていた方が

ずっと楽しいし、生き甲斐がある」

と、ページさんは90を過ぎてからの創作活動と、

第二の青春を手に入れた、という訳だ。

ヴォルフ・ぺーター・シュネッツ氏がそれに応じた。

「真にいい話題ですな。

・・・・私はいつも言っておりますとおり、

この『書く』という仕事は、本当のことを言うと、

若者には俄然無理な話ですからな。

若い頃書いたものなんてのは、

やはり机上の空論ですよ。

『自分だけの』経験と時間を積み上げたものに、

やっと書く材料は少しずつ見えてくるもんです。

少なくとも私は、40歳以上と言っておりますがね。

個人的な経験、皆がする経験、

全部一通り終えておかなけりゃ、

始められんでしょう」

言葉を切って、彼は言った。

「そういうわけですから、ここに居る皆さんは、

文学的境地から言うと大体が青春期、あるいは

働き盛り、という事になりますから、

安心して、思いっきり励んでくださいよ」

一同は嬉しそうに笑った。

その説で行くと、私は出生以前と言う事になるから、

何も出来なくても良いのだ、と私も安堵していた。

それからヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏は

黒板にゆっくりと何かを書き始めた。

「君達には言葉がある。

言葉という力が。

言葉を持つものは、力を有するものである」

「何かを書こうとするとき、人は第二の人生を

始める。

若さ、それは破壊である。

成熟は、構築である。

若さから成熟へと・・・書く以前の人生は、

全て実験に過ぎない」


午後の授業は、バルバラ・クローン女史が

取り仕切った。

「さあ、少し書くことの基本のおさらいをしましょう。

書くときに、必要不可欠なのは、

編集、直しですね。

一度書いたものを見直し、

必要でない所を削り、組み立てなおし、

書き足す作業です。

これは、3回でも6回でも、

何度でも行うべきで、よく文章をにらんで、

純粋でないところ、明解でないところを解決し、

同じ言葉の重複を避け、

過去形と現在形が交じっていないか、などの

基本的文法の間違いを直し、

あらゆるところから詰めて行きます。

次に、口にしてみて

おかしい所はないか、

『こういう言い方は本当にあるのか』

『この言い方は常識はずれではないか』

『リズム感がいいか』

という事に加え、

『テクストの中で、今この部分はどのような

位置を占めているか、中心か否か』

と言ったところを考えます。

特に、詩ではそれが大切になってきます。

Gedicht(詩)は、dicht(中身のぎっしり詰まった)

から来ていることはみなさんご存知でしょうが、

ですから、極力無駄なところを省いて

ぎゅっと凝縮させていきましょう。

次に、形から、文章の色合いから、

探っていきましょう。

この文章は、他人に届くかどうか、

強い映像を持つかどうか。

感覚に訴えているか。

そして、どこでより深みに行けるか。

もう少し粘って、所々思いつく限り

試してみましょう」

ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏が更に付け加えた。

「その中で大事なことは、主張と物を語ることは、

180度違うという事です。

主張は、本人のエゴです。

物語は、他人に想像させるもので、

具体的な情景や匂いなどの状態を呼び起こすものです。

要するに、雰囲気をもたらすものですね。

それ以外のものは、文学とは呼びませんのでな」

シュネッツ氏の、文学に対する一貫した思想である。


バルバラ・クローン女史は言った。

「午後は、訓練のための課題をこなしてもらいます」

私の中に緊張が走る。一体何をやらされるのか。

「今から、何でもいいですから、言葉をお一人ずつ、

言ってください。思いついたものでいいので」

一人一人から、雪、探す、血、頂点、思い出、

という言葉が挙がった。

「はい、これで結構です。この5つの言葉を必ず使って、

一つの物語を書いてください。そして、

最初の文が決まっています。こうです。

『A氏が忽然と姿をくらましたとき、

誰一人として気づく者はいなかった』」

「さあ、制限時間は20分です。どういう仕立てでも

結構です。どうぞ始めてください」

それぞれが猛然と掴みかかるように(と私の目には見えた)

課題に着手し始めた。

私には時間がなかった。もう、自分の身近な話題しか

ないと思い、消えた音楽家を題材とした。

ここでエネルギーを出さないと、

何だか次の4日間自分を見失ってしまいそうだったので、

脇目も振らずにとにかく5つの言葉をばら撒いて、

「さあ時間ですよ」

の声がかかるまで、ボールペンをグチャグチャに

走らせ続けたのである。

「終わりですよ。残念ですがね」

またもや、シュネッツ氏の皮肉な声が

ゆっくりとこだました。

一同は、きちんと書き終えた模様である。

共通課題制作は真に興味深く、

メルヘンものや、歴史小説風、

推理仕立てや、いろいろな作風の文章が20分の間に

たちどころに生まれた。

私は自分の読む番が来て、またもや微かに

震えながら読み始めた。

公表できる程のものでもないが、

私が必死で書き付けたものは以下の通りである。



ある音楽家のポートレイト


A氏が姿を忽然とくらましたとき、

誰一人として気づく者は居なかった。

彼は一人暮らし、つまり独身だったが、

仕事のパートナーは大勢居て、人望も厚かった方である。

彼の仕事、というのは、楽譜と響きの中に

何か真実を見い出し、出来るだけ多くの現象を

探し出すことだった。

血が、彼を猛烈に働かせた。出来るだけ沢山、

出来るだけ広く、そして深く。仕事だけが

彼の生涯で重要で、他の全ての生活に係わること、

食事、衣料、住まい、喫煙、飲酒、運転、読書、

交際、それどころか人を愛することなども、

彼にとっては、全ては仕事を首尾よくやるために

存在していた。

彼は、とにかく世界の頂点に立っていなければ

気がすまなかった。名誉のためでなく、自分自身の

誇りのために。

彼には、思い出を振り返っている暇がなかった。

―それとも彼が自分で言ったように―「自分には、

首の上まで過去が詰まっているんだ」

古い時間に逆戻りしたくないために、

彼は休みなく馬車馬のように働かなければ

ならなかったのかもしれない。

彼は世界中の演奏旅行で、しょっちゅう留守にしていたし、

同じところに泊まることがほとんどなかったので、

彼がいなくなった事に誰一人として気づく人は無かった。

いずれにしろ―音楽という代物は、全て空中に

その都度消えていくものだ―昨日の雪のように。


読み終えると、シュネッツ氏が、

「stark!(優れているの意)」

と叫んでくれた。

たった一言だったが、その一語に私は、

やっと少し仲間の一員になれそうな気がしていたのである。















初めて摂るメンバーとの昼食の席。

スープ、典型的なドイツの肉料理、

豚の酢漬けを焼いたものに紫キャベツ、

粉と卵を練って焼いた細長い団子状の

ヌードル、というメニューを口に押し込む。

心理学者、フラウケが無邪気に言った。

「かなで、ドイツに来て、日本食が恋しいでしょう。

こういうのに慣れるのに、だいぶかかったんじゃない?」

正直言って、こういう質問ほど困るものはない。

第一にこの手の質問ばかり会った人々にされるので

半ばうんざりしていること、

第二に日本は極東だが、

あらゆる洋食を食する国であること、

第三に日本食は食べたいと思えばいくらでも自分で

作れること、などなどの理由で、

これらを一から十まで説明するのが

時々面倒くさい事があるのだった。

来た当初ならいざ知らず、こちトラ

8年もドイツにいるので、いい加減郷に入りては

郷に従え、という感じであるし、

今更慣れたもなにも、と思ってしまうのである。

ドイツ料理は正直全部好きなわけではないが、

食べられるものと食べられないものがあるのは、

日本食でも一緒である。

そんなようなことを一応一生懸命口をもごもご動かしながら

話していると、フラウケが言った。

「さっきかなでが読んでくれた詩を、

ちょっと日本語でいいから言ってみてくれない?」

これにもまた困惑する。

第一に自分のドイツ語の詩を日本語訳するのは

すごく難しい。

一日考えて訳を作らないと、リズムも意味も、

わざとらしくなってしまいそうである。

ドイツ語用にあくまでも生った言葉の連なりであって、

日本語には出来ないことも多い。

それをその場で言えなんて無理である。

それでも私は何とかカンとか適当に言ってみた。

するとフラウケは手を叩かんばかりにして言った。

「すごい!!日本語ってキレイ!!

ねえかなで、これからは、私たちの前で発表するとき、

全部日本語でもいいくらい!!いつでも日本語

聞いていたい!!!!」

正直私は心の中でがっくりと首をたれていた。

日本語で聞いても、ドイツ語で聞いても

どっちでもいいくらい私の書いたものは意味ないのかね。

すると、助け舟なのか何なのか分からないような調子で、

作家ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏がボソッと言った。

「しかしとにかく、かなでのドイツ語は、

2004年と比べて爆発的に向上した。それだけは言える。

感心しましたぞ」

もう私は何だか自暴自棄になりかけていた。

自分がこの場に居てはいけないほどオミソであることは

承知している。しかし、曲がりなりにも私は何かを

表現しようとして来たのであって、

ドイツ語力向上のために来たのではないのだ。

2004年は、私がドイツに来て4年経った頃で、

それから倍の時間が過ぎたのだからそりゃちょっとは

会話力は向上しない方がおかしい。

皆の重荷になっているのではないか、これからの

4日間をどう彼らの中ですごせばいいのか、

私は身が縮まる思いでフォークを黙々と

動かしていた。

するとバルバラ・クローン女史が言った。

「だけど、よそから移り住んだ人って、

いつもこういう質問ばかりされるじゃない?

私だってハンブルクからレーゲンスブルクに

移ってきたら、途端にそうだもの。

ハンブルクが恋しくないですか、

ウナギスープや魚介類が食べたいですか、

とかってね。

私、ハンブルクに生まれたからって

ウナギスープなんて滅多に食べなかったのに」

51歳の雰囲気ある女性作家は、

とにかく察しがよく、常に私を救ってくれるのだった。

それがまるで浸透しないフラウケの無邪気さも、

また逆にこの場合、救いでもあったのだけど。

とにかく食事の終わりには、

私は漠然とした不安をぬぐえないで居たけれど、

ありったけやるしかないと、

午後への気合を入れなおした。




ここで、講師、作家ヴォルフ・ぺーター・シュネッツ氏の

略歴と作品の一部を紹介したと思う。


1939年レーゲンスブルクで生まれたヴォルフ・ペーター・

シュネッツは、父を戦争に取られ早くに亡くし、

祖母や大叔母や叔母、母の女系家族に育った。

のちに幼い頃の戦争のはかない記憶、

戦後の混乱や血縁の女性達のかしましい日常の

様子が小説、

「青春の罪」となって表れる。

大学でドイツ文学、歴史、芸術史、舞台芸術学を専攻。

作家活動に入り、数々の文学賞を受賞、

抒情詩を中心とした作家活動に加え、

ドイツ作家協会の会長を二年間務める。


この度、ワークショップの終わりに、

「かなで、これはもう書店では手に入らない

ものなんだけど、君に贈るよ」

と言って彼が手渡してくれた古くて薄い詩集

「時間の詩」

の中から、一番好きな、「九月」

を私なりの訳で紹介する。

九月が丁度終わってしまって残念だが、

今の季節に読むのが一番良い詩である。




九月


夏が、血を流しつくす

今年が終わりに近づいていることを感じる

霧が早くから潅木にかかり、

草が湿る

少年の頃

私は水に石を投げ打っては

それがどんな風に跳ねていくかを

見つめていた そして

魂の中に悲しみを見い出していた


息を吐き出す

煙が唇から震えだす

これが魂だよ、と

岸辺ののベンチに腰掛け

空に長い視線を投げかけ、

そこに文字を読み、

無言の言葉を聞き取る

老年たちは言う

そして日中に凍りつく高く掲げられた青に向かって

もう一度言う

これが人生だよ、

君の前で今

まさに死んでいこうとするものが、


私は彼らの言葉を聞き、頷く

その答えには責任がある

潅木に立つ煙は壊れて

ゆっくりと

空の青に溶け込んでいく





隣の教室にバタバタと戻ると、

いささかそれよりあたふたした雰囲気の

女性達が、机の上の紙を整理していた。

待ってましたとばかりに、シュネッツ氏の声が

再び響く。

「はいはい皆さん、問題の、

『止めなければいけない』時間となりましたねえ。

・・・ええ、名残惜しいでしょうし、心許無いのは

分かりますが、それでも止めていただかなくてはねえ・・・

この、人生って厄介なヤツには、

常に時間の制約というものがつき物でしてね。

それを抜きに仕事も、どうにも片がつきませんですからな。

・・・はい、それでは、皆さん、

突然名指しされて心臓が止まらないように、

あるいは公平になるように、

朗読発表の順番は、紙に書いたくじで毎回決めますのでな。

ホレ、この通り、私が作っておきましたから」

そう言ったシュネッツ氏の手のひらには、

6枚の小さくちぎられた紙が折り畳まれていた。

「では、私が引きますぞ」

順番の最初は、フラウケだった。

とりあえずホッとする。

いずれ順番が廻ってくるのにしろ、

一瞬でも嫌なことは先延ばしにしたいのが人間というものだ。

彼女は、大きな声で読み始めた。

「一体、世界の何千万人の女性が今、この瞬間に!!」

一同、69歳の彼女から発せられる張りのある声と

議題に目を丸くする。

「夫の彼女への日頃の無関心に悩み狂っていることか!!!」

甲高い声で読まれたそのエッセイは、

段々と個人的エピソードを交え、

おとぎ話風にアレンジされつつも、

最後はそのテーマに戻り、彼女は時折

感情移入するあまり声を詰まらせ、

涙を小学生の少女のように拭く場面もあった。

「ふむ・・・・」

終わると、シュネッツ氏が冷静に困惑の声を発した。

「まあ、分かりますがね、ちょっと感情的になりすぎて、

何を議題の中心としているのか、不明になってしまいましたな」

旧友の講師は至極冷静である。

テーマが重ければ重いだけ、それに没頭して

同情するのが彼の役目ではないと心得ているように。

「とにかく、この作文は、数日後のヴァルメンシュタイナッハ

の朗読イヴェントには相応しくないですな。

他のテーマで、何かもっと聴衆を意識して

書いてください」

あっさりとその作品は彼によって退けられた。

次は、ヘルガ女史60歳。

「一日一文」

と題されたそのエッセイは、

シュネッツ氏のこの度のワークシップのテーマから、

今日その場で思いついて記した作品だという。

「一文で、一語で、あなたは何が伝えられますか?」

という疑問形で始まる彼女の内容は、

「誤解が誤解を呼ぶこの言葉の複雑な世界で、

ポジティヴな言葉をつないでいくと、

もしかすると幸福が倍増していくかもしれない

可能性」

について、延々と述べていた。

シュネッツ氏の感想は、

「ふむ。疑問で始まるのは許せるとして、

良い言葉が他人からの良い言葉を呼び寄せ、

幸福が倍加するというのは、まあ確かに

そりゃそうなんだが、まるで、

『選んで言葉を使ったら、幸せグッズが

もらえますよ』

というような、抽選所か、お得なクーポン券の宣伝

みたいな感じがしないでもないですな」

というものだった。

痛烈な皮肉である。

何も分からないのに言うのも恐縮だが、

おそらく彼が良しとしないのは、

教訓めいたもの、説教じみたものであって、

一切のそうした世界が芸術からかけ離れる、

と言いたいのであろうと

私は勝手に推測をたてた。

時は刻々と私の順番を、刑の執行を

待っている。

もうこうなると、人の読むものなんて耳に入ってきやしない。

遅いと分かっていながら、

観念せよ、と言い聞かせながら、

自分の書いたものを頭の中で繰り返し、

嫌気が差しながらもうどうにでもなれ、

と思ったり、やっぱり読むのは今日はやめておこうか、

などという弱気も起こる。

頭がこんがらかって、出来ていない演奏会の

本番前の楽屋みたいな気分で頭をかきむしっていると、

順番がいつの間にか来ていた、

隣のB・B女史69歳からある鮮烈な言葉が発せられ、

シュネッツ氏が一行目で

「なぬ!!」

と鋭く反応した。

そして、実はシュネッツ氏とほぼ同時に

ため息をついた全員の女性達に交じって、

朗読を無視して全く意識して聞いていなかった

私のぐちゃぐちゃの頭にまでも

彼女、B・B女史の一文は閃光を放ち、

私の中に直ちにその映像が出来上がっていたのである。

その「逆立ち」と題された詩の冒頭はこういうものだった。


「空をとび越えて、

鳥が地に落ちてきた」


たったこれだけである。

しかし、なんと意外性を含んだ壮大なパノラマが、

既にこの単純な一文に広がっていることか。


そしてこう続く。


「ネコは岩山を引っかいて穴を開け」


「月が部屋を滑空する」


「魚は地上を飛び」

「ネズミが燃え盛る」


「星は空に向かって叫ぶ海を滑走している

鳥たちが溺れている間に」



「ううむ・・・・」

シュネッツ氏が、感嘆のうなり声を上げた。

「すごい。これはいいですぞ。

ヴァルメンシュタイナッハ出典は、必須ですな」

即決だった。

とにかく、いいものに対しては、

いいとしか言わない。

一同は彼女の世界の激烈さに、

ホーッと息をついて、それぞれが

それをお腹の中で消化している。

私にも、その画像が、頭を駆け巡り、

彼女が何を意味しているかは後から考えるとして、

そのオリジナルに構築された世界が、

世の中の秩序を全部ひっくり返しかねない

エネルギーを持って迫ってくるかのようだった。

私はこのときに、はっきりと

「人は、聞こえるものしか聞こえない」

ということをとくと学んだ。

「聞くに値する偉大なものは、どんなに頭がよそへ

行っていても自ずと耳に入ってくる」

ということを。

次に彼女は、1920年代のドイツの、

大学に行く女性が非常に珍しかった時代の

女子学生の故郷への重苦しい電車の旅を

書いたエッセイの端を読み上げた。

それも、機関車の煙がもうもうと立ち上って来て、

ボンネットをかぶって汽車に乗ったその当時の慎ましやかな

10代の女性の揺れる心を映し出すような、

真に鮮明な作品だった。

一同は、芯からその世界に浸り、

しばし1930年代、彼ら全員が生まれる直前の、

戦争さ中の時代の食糧事情や物の流通経路、

進学率などについて、語り合った。


次にくじが引かれると、

いよいよ私目の番である。

「何か俳句でも書きましたかね」

と厭味に聞こえるシュネッツ氏の言葉に、

アシスタント、バルバラ・クローン女史が、

「いいえ。かなでは、ちゃんとドイツ語の

詩をたくさんこのノートに書いて、

持ってきてるのよ。いろいろあるから、

午前中に私が見たもの、全部読んだらいいんじゃない」

と即助け舟を出してくれた。

「ああ、そうですか、そんなにあるとは、

それは知りませんでしたな」

「私は、自分の詩の朗読の前に、

ここまで震えなきゃならないって、

人生今日まで知りませんでしたね」

と、私は厭味を返すように、あるいは自分を

少しでも鼓舞するために、言った。

人生には、初めての経験というものが

常に待ち構えている。

初めての入学、

初めてのテスト、

初めての水泳、

初めての演奏会、

初めての受験、

初めての挫折、

初めての幸福、

初めての曲、

初めての恋愛、

初めての失恋、

初めての仕事、

初めての外国、

初めての、初めての・・・・・

生きていれば幾千の

「初めて」が当然あったわけだが、

「自分の書いた詩を他人に読んで聞かせる」

というたったこれだけの行為が、

ここまで自分を動揺させるとは、

この年まで本当に露ほども知らなかった。

先ほど鮮烈な発表をし終えたばかりの

隣のB・B女史が、

「震える必要なんて、全くないのよ」

とハスキーな声でボソッと言ってくれて、

私は苦手だった彼女の横顔を見ることもなく

少し彼女に対するイメージが変っている自分に

気づいていた。


時間を空けても、仕方がない。

舞台に押し出されるように、

書いたものをおずおずと読み上げ始める。

「え?何ですと?」

どうやら聞こえないらしい。

「口を大きく開けて、はっきりと」

この言葉、小学校で教科書読み上げるとき

しょっちゅう言われていたね、

と私は情けない気持ちになった。

「矛盾」

という詩を何とか読み上げ、いたずらをした後の子供のように

上目遣いで首をすくめてシュネッツ氏を見上げると、

彼は一言、

「うむ。最後の行は、未来系にするのは

止めて、現在形にしたほうが良い」

と言った。

次、「代役」

を読み上げると、

「この、残酷、という言葉はハードでしょ」

とバルバラ・クローン女史が言った。

「いや、『残酷』でいいですよ、それはそのままで」

とシュネッツ氏が遮る。

もうヤケのやんぱちで、こうなってくると

少しずつ恐くなくなって、

「別離」

という詩を読み上げた。

「この部分、

『昨日のことは、いつも

私たちには・・・』

って言うのは、

ドイツ語的には、

『昨日のことは私たちにはいつも・・・』

の方が自然じゃないかね」

とシュネッツ氏がコメントすると、

「いや、カナデが書いたとおり、

いつも、が先に来る方が、強調されてて

特徴的なのよ、ヴォルフ・ペーター!!」

とバルバラ・クローン女史から横槍が入る。

「そうですかね・・・」

二人が喧々諤々とし出して、私はなすすべもなく

ポカンとしていた。

周囲の女性達は、

「『違う色彩の日々』って言った?」

とか、「私に風が通る、この言い方は

日本人的なのかしら、あまり聞かないわね」

などと興味を示してくれる。

「とにかく、これは君は、

最初からドイツ語で書いたのかね」

シュネッツ氏が尋ねた。

「はい、日本語には恐くて出来ません」

と答えると、

「うむ。そうか」

と一旦沈黙して、

「これからの課題として、

もっともっと彼女が『映像』を映せるよう、

指導する方向に持っていってください

ここは見える、ここは不明瞭・・・」

とバルバラ・クローン女史に指示して、

その日の背中が凍るような午前中がとりあえず

終了したのだった。




続く












8月12日のバイロイトは、

既に冷たい秋の風を吹かせていて、

夏休みの高校の、

しばらく使われていない教室に入ると、

並んだ机がひんやりと沈黙している。

「ええと、まずは、この部屋の、

改装工事を行いますよォ。

仕事をやりやすいようにねェ。

皆さん、女の細腕で、大丈夫ですかあ」

そういう唯一の男性、

ヴォルフ・ペーターシュネッツ氏が机を

全て端に寄せる作業を始めると、

それよりよっぽど腕力のありそうな

大柄の女性群は、次々とガラガラ机を動かし始めた。

「ヴォルフ・ペーター。あなた、一体何がしたいの?

全部の机を後ろに寄せたって、意味がないじゃない」

すかさず、旧友、フラウケ女史が突っ込む。

「良いんですよ、まずはとにかく、全部

四方、端に寄せて。

それで、一番良い形に、新たに机を

組みなおしますから」

悠々と、しかし決然とした言い方のシュネッツ氏に、

一同はともかくも従って、全ての重い長机をどけて、

真ん中を空ける。

「はい、では、三つばかり、机を真ん中に、

縦にくっつけて並べたら、丁度よく席が全員分

できますかな」

3つの机を中央に持ってくると、丁度正方形ができ、

その周りになんとなくイスを四方それぞれ

二つずつ並べると、三方に二人ずつ6人、

そして一番前の席はシュネッツ氏が座って全員が向かい合う

形と相成った。

「これで、いいですよねェ。皆さん、作業できそうですかね」

一同、頷く。

「次は、水ですねェ。ああ、おあつらえ向きに、

事務員の少年が、プラスチックのコップと、

レモン入りのガラスポットを、

用意してくれてますよ、気が利きますねえ。

水は、大事ですからな、書くときには。

これがないとですねえ、書けるモンも、

行き詰ったりしますからねェ。

コップは、皆さん、自分のものは自分でその都度洗って、

翌日も使うように。自分のコップが、何よりですからな」

そんなものなのか、と、初参加の日本人は、

目を白黒させるばかりである。無論、水は、

例えばピアノの練習中にも、大いに役立つし、

必需品だが、同じ形と色のコップなんだし、

皆で洗って次の日別のを使っても構わないじゃないか。

「ここに、花の一本でも、欲しいところですねえ。

赤いバラでも、事務に頼みましょうかねェ」

私は驚きを隠せなかった。

たかがバラの一本ぐらい、ここになかろうが、

頼むほどのことか、

と思うのだが、家でも確かに部屋のものをああだこうだと

動かしたり、植物に水をやったりしないと、

切羽詰ってるピアノの作業を始められないことがある。

何もかも「気分」を整え、自己形成を図るのを第一にするのは、

どの分野も一緒らしい。


ようやく「内装」が整ったところで、

席に着くと、シュネッツ氏が授業を始める。

「ああ、やっと準備ができましたがね、

何しろ、我々にとって、雰囲気ってモノが

結構大事で、仕事を左右しますのでね、

まあ、拘ってみたわけですが、

皆さん、これで心地良くお感じになりますかね?

・・・ええと、この度のワークショップのテーマは、

『とにかく一日一文』ですから。

一文というのは比喩で、もちろんもっと書いても

良いんですが、とにかく、その一文が書けなけりゃ、

いつまでたっても本は出来上がりませんからな。

まずは、一文から始めろってことですよ。

・・・・その一文が、結構勇気が要りますモンですからな。

でも、逆に言えば、ある作家が

「どうやったら本が書けますか」

と聞かれたときに答えたのが、

正にこういうことですよ。

『一日、一行書けば、いつの日か一冊になる日が

来る』

とね。その通りでしょうし、それしか書く方法はないでしょうな」

こんな人を食ったような教えを、しかし心の奥の引き出しに

仕舞い込める人だけがこの場にいるのだろう、

一同は食い入るように聞き入っている。

「その一文は、

ともかく『集中力』によって生み出すこと。

本能から、お腹の底で感じたものから、

書き出すようにしてください。あなたの奥底の

場面を、写真に撮って、文章にしてください。

写真のイメージに文が近づくよう、努めてください。

一行で、その書物の囲いをまず建ててください。

または、主体を成すに値する、鍵となる一文を

打ち立ててください。作曲と同じですぞ」

言葉を切ったシュネッツ氏は、

「今から、一つの詩を読みます。

それが、あなた方の今回のテーマ曲となりますから」

と言い、次の詩をゆっくりと朗読した。


「毎日、一文だけ

一語、一行で良いから、私にください


私が永遠に運命を共にできるような、

私の友であり、兄弟であることのできる一文を


中略


一つの、平和な文を

たった一つの言葉を

私はそれを永遠に

取って置きます

『あなたを生きる』

例えば、それだけが全て」


「さあ、では午前中の仕事に入ってください。

まずは、『自由仕事』としますぞ。

自分の作品を見直す、

あるいは新たな一文を始める、

何でも良いですから、あなたの思うとおりに。

午前中の終わりには、恒例の

発表の朗読がありますから、覚悟するように。

ええと、作業は、どこへ行ってやってもいいですからな。

ここの部屋でなくとも、外に出てもよし、

隣の教室でひっそりやってもよし、

ここで皆と一緒でも集中できる人は

残ってください」

それぞれが散ろうとすると、

シュネッツ氏は、忘れていたと言わんばかりに、

私の方を向いて言った。

「ああ、かなでは、まずは日本語で何か書いて、

それをドイツ語に訳すことから始めたほうが

良いんじゃないですか?

それか、前回と同じように、俳句でも書いていただいて」

私は、その言葉を聞いて、生意気にも天地がひっくり返るかの

ような衝撃を受けた。

「ここは私の来る場所じゃない」

と言われたように受け取れる、それは一つの

閉ざされたドアのようだった。

私がもごもご何か言いたそうにしていると、

天の助けが現れるかのように、

目の前のバルバラ・クローン女史が言った。

「午前中に、早速私に作品を見せて、

仮添削を受けたい方は、他の教室に行って

やりますから、どうぞ遠慮なく申し出てください」

私は、シュネッツ氏には失礼ながら、

パッとクローン女史似に目配せし、

教室をそそくさと出たのだった。


「書いたものを見せてくれるんでしょ」

廊下で振り返って、クローン女史が言った。

「ええ、よろしければ、見ていただきたいです。

シュネッツさんはああ仰いましたし、

よく分かるんですけど、どうしても私は今回、

初めからドイツ語で書かなけりゃ気がすまないんです。

・・・・って言うより、ドイツ語じゃなけりゃ、

詩を書こうだなんて思いつきもしなかった、って言うか。

日本語では書けないことが、あるいは書きたいとも

思えないことが存在するんです」

「あなたの言うこと、よく分かるわ。

私も、イタリア語や英語で書くときは、

自分が別人になった錯覚さえ起こすし。

どうしてもその言語でしか書けないものはあるわよ。

母国語を訳すんじゃ、意味ないのよね。

それは我々全員にとってものすごく興味深いテーマだから、

後で必ずヴォルフ・ペーターに、そのことを言ってちょうだい」

とりあえず、汗が引く想いだった。

「とにかく、端にも棒にもかからないか、

悪い冗談にしか聞こえないか、

読んで下さい」

「分かったわ」

バルバラ女史は、

私の乱れた字のノートを一定の調子で

めくっていき、

「この2つの詩なら、ちょっと文法間違いを直すだけで済む」

と言って、

「ちっとも冗談でもなんでもないわ。

この調子で書くのよ」

とまず気合を入れてくれた。

そして、30分ほども掛けて、

「この言葉は、どうも詩というよりは、

政治用語に聞こえる」

「この言葉も、固い」

「この二行は、全部ただ取っ払って。

ないほうがすっきりする。

あると、少女趣味で、胡散臭い」

とアドヴァイスをし、

たった二つの代わりの言葉を見つけるのに、

何度も書き直したり、口で唱えたり、

私が読むのを耳にしたりして、

時間を掛けた。

「あなたは本当にこの言葉を意味してるの?」

と聞かれ、それが日本的感覚から生まれた表現である

事が判明する箇所もある。

そういう場所は以外にもドイツ人的には

初で、新鮮だったりもする、とバルバラ女史は

言った。

「詩っていうのは」

バルバラは遠い目をして言った。

「一つの言葉が、決定的に作品を左右してしまうから、

ものすごい労力と、時間が要るの。

迷って、取り替えて、でも戻して。

何度も口で唱えてね。

自然で、斬新で、分かりやすくて、

美を宿してるか。

一行を、いくつものパターンに変えて、

それから選ぶ過程が必要ね」

作業が一とおり終わると、

さ、発表の場に、行かなきゃ、

と、バルバラ女史は潔く席を立って、

私は彼女の後を付いていった。



















その日のバイロイトは蒸し暑く、

夕方6時ごろ着くと、直後に霧雨となった。

荷物を宿舎に預けてワークショップの会場に

降りていくと、ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏の、

こげ茶色のジャケット姿が食堂のテラスに見えた。

ドキドキしながら挨拶に行く。

「ああ、あなた、元気かね?」

微笑まずに握手をするその佇まいが、

以前より少し背を曲げたように見受けられる。

彼は現在、69歳になるはずだった。

「ケルンから、遠かったかね?」

彼は私がケルンに住んでいることを覚えていたらしい。

「いえ、今日はウィーンから来たんです」

と言うと、又目をそらしたまま、

「ああ、なんか別の用があったのだね」

と言って、「もうすぐミーティングだから、

その前にお腹がすいているなら何かどうぞ」

と言って、そそくさと立って行った。

その背中を見送って、

私が参加者としてついにやってきた事に、

一種の困惑を隠せない様子だったのを

私は一度に見て取った。そしてそれが、

なんとなはなしに、どこか不思議に嬉しくもあった。

周囲には参加者とおぼしき女性達が、

お盆を広げてパプリカグラーシュの食事をしている。

「あら、あなたも参加者?どこから来たの?

私はフラウケよ」

まず真っ先に声をかけてくれたのは、

ミュンヘン在住の背の高い69歳の女性、

精神科医のフラウケ・ブルンナーだった。

茶色の美しいスカーフを巻いて、

スーとっした長い足腰を白いズボンで颯爽と

包んだフラウケは、高い声で無邪気に

「ここにいっらしゃいな」と言った。

次にお隣の、黒髪でやはり背の高い、

眼差しの優しい上品な夫人が挨拶してきた。

「私、ジャクリーン・ヴォルフと申します。

ルクセンブルクから来てるの。

私も外人よ。ドイツ在住歴は長いけれど」

次に会ったのは、シュネッツ氏の同僚作家で、

推理、恋愛小説、詩、など多岐に亘って精力的に

本を出している女流、51歳のバルバラ・クローン女史である。

バルバラ女史は、今回シュネッツ氏のアシスタント・兼、

二人目の講師だった。

快活な彼女は、目の前に現れた日本人に、

どう接してよいか一瞬ためらいつつも、

すぐに打ち解けて、私に漂っていた不安を少し

取り除こうと、既に試みてくれた模様だった。

そのうちピンクのスカーフを巻いた金髪の初老の女性、

ダークブロンドの同じぐらいの年齢の女性が

やってくる。

「私たちの仲間かしら、あなたたち?」

と言った金髪の彼女は、スカーフを解いて私に一瞥をくれると、

「あら、そこのお嬢さんも、我々に属してるの?」

と尋ねた。

「我々に属してる」

という言葉が、微妙に棘を持って私に響いたが、

私たちは間もなく傘を持ってミーティングの会場へと、

席を立った。


「はーい、では、皆さん、とりあえず初日で、

到着日の今日は、それぞれにこの場で、

自己紹介を、個々の文学的なルーツを踏まえて、

お話していただきますよ」

チョコレートクッキーと、ワイン、グラスの並ぶ

テーブルについて、

ゆっくりと、響き渡る声で、ヴォルフ・ペーター・

シュネッツ氏が詩でも詠うように始めた。


講師のバルバラ・クローン女史から自己紹介がスタートする。

「私、この度、初めてバイロイトに来ました。

ヴォルフ・ペーターのアシスタントとしてです。

彼と同じ、レーゲンスブルクに在住し、

普段は基本的に作家活動のみですが、

創造的な書き方の講座を度々開いたりもしています。

今回は、ヴォルフ・ペーターに代わって、

午後の早い時間の授業、皆さんの作品の下見や

アドヴァイスなどに従事します」


続いて、ルクセンブルク出身、ジャクリーン・ヴォルフ女史、

65歳。

「こんにちは、ルクセンブルクに住んでおります、

ジャクリーンです。

私の母国語は、フランス語なんですが、

ドイツ語は、元夫がドイツ人であり、

子供たちがみんな小さい頃はドイツで育ったものですから、

彼らとの日常会話は全てドイツ語なんです。

・・・私には、9人の実子がおりまして、

3人の子供を他から引き取って、計12人の

子供を育てたんですが、今は全員巣立って、

ほとんどの子供は国外にいて、

2人がルクセンブルク在住です。

詩を中心に書いておりますが、

芸術全般に興味があり、

絵画とのコラボレーションで、本を何冊か

出版しました」


次の席は、先ほど私に

「我々に属してるのか?」と尋ねたB・B女史。

サラサラの金髪に、ジーンズ姿で

颯爽と若く見えるが、なんとやはり69歳。

ちょっと斜に構えて彼女の話を聞く。

「私は、1999年に書き始めました。

そもそも、孫に、クリスマスの物語でも

プレゼントしようかなと思って始めたのがきっかけです。

普段はミュンヘンに夫と二人で住んでます。

子供は二人です。まあ、もちろんそれぞれ巣立って、

家庭を持っておりますがね。

私は定年まで、骨髄バンクで働いてましてね、

そこで経験した人の極限の真実というか、

そういうのも、私の書くものの

モチーフとなったりします。

書くという事で、何が良いか、って言ったら、

やっぱり自分の島を持てることですよね」


・・・・小さくすぼまった口から、低い声で意外にも

真実味のある言葉が流れる。


続いて、ヘルガ・S女史。60歳。

「私は、教師をしておりました。

家庭もあって、子供も一人居ります。

残念ながら、夫とは別れましたけれども、

その頃でしょうか、前からものを書いていたんですが、

更に活性化した気がします。

時々、地元で作文のコースを開いたりして、

教える立場も続けています。

・・・私のモチーフと言えば、

貧しい家の出だったものですから、

その当時の家の様子なんかを、よく

描写するんです。

重いドア、というのが、私の作品の主題ですね」


最後、ミュンヘンの69歳、フラウケ・ブルンナー女史。

「こんにちは、私実は、

ヴォルフ・ペーターの、学友なんです!

手紙を交換して、今まで友情が続いてね。

これだけ続いたんだから、私の書くものも、

そんなに悪くもないのかなって思って、

今回参加してみようと思ったのよ!

日記もたくさん書いてます。

日常の些事が、私にとってはものすごく大事。

定年まで、精神科医をしてました。

これもまた、いろんな人相手に真剣勝負して、

疲れる仕事でね。

でもお陰でいい経験一杯させてもらいましたよ。

子供は二人、二回結婚して、今はパートナーが

います」


この天真爛漫さで、精神科医、という人は、

おそらく今まで見たことがない、

と誰もが心の中でつぶやいた、

鮮烈なフラウケ・ブルンナーの、

最初の甲高い一声だった。


・・・私はと言えば、

このパワフルな60代の女性群の自己開示に、

既にここに来たことを半分後悔していた。

ここの、今回のメンバーは、

私が思うよりずっと、手強い人々だった、

と悟ったのである。

豊富な人生経験は元より、

物を書く人特有の、圧倒的な「必然」を

それぞれの謙虚に語られた

少ない言葉の中に見い出した私は、

彼女達が書くものの恐ろしいほどのエネルギーを

想像して、戦慄にも近いものを覚えた。

それだけ、その場の雰囲気は、

2004年のときと違って、

夏の終わりのバイロイトの小雨の外の景色と相俟って、

それぞれがポツンポツンと語る声の行間が、

冷たく、妙な静寂に包まれていた。

しかもそんな時私と来たら妙な勇気だけはあるくせに、

いつも変に他人がどう思うかということを

先回りして考えて、勝手に被害妄想に入り、

捨て鉢になるか、硬くなる傾向にあるのである。


そうして一同の視線が、

縮こまる日本人の目に容赦なく一気に注がれる。


「ええと、カナデ・ジョウホウです。日本人、です。

普段ピアノを弾いて生計を立ててる者です。

ささやかですが、仕事を得たため、

2004年に学業を終わってドイツに残って暮らす事に

しました。

書くのは・・・ええと、日本語で一冊本を書きました。

趣味で自分のために書くのは、

子供の頃からずっとやってるんですが、

人に読まれるかも知れないと思って書いたのは、

2003年からです。

ドイツ語は、詩を書くのを6月に始めたばかりです。

歌手の方々と弾く機会があったりしてドイツリートに係わったり、

人生でちょっとした転機となるような出来事にも遭遇しまして。

2004年にこのフェスティヴァルでシュネッツさんと

同席させていただいて、それがきっかけで、

このワークショップを知りました。

・・・自分のドイツ語力が、微妙なニュアンスなど

表現するにはあまりに乏しく、可笑しな事になるとは

分かっていますが、今回無理を言ってまで

どうしても参加させていただきたいと強く思いまして」

シュネッツ氏から、そこで横槍が入った。

「あなた、その日本語の本、

ドイツ語版で出ていませんか」

「。。いえ、とんでもない、そこまで大した代物じゃ

ないもんですから」

「ああ、そう、まあ、とにかく様子見てみましょう」

そういって、イスを正したシュネッツ氏は、

「それでは、みんなが自己紹介を終えたところで、

私の明日からの計画を、お話しますよ。

どのようにこのクラスが進んでいくかをね」


細かい時間割計画が、シュネッツ氏の口から

ゆっくりと、しかし理路整然と話された。

その中には既に、最終日5日目に予定されている、

バイロイト近郊のヴァルメンシュタイナッハで行われる

恒例の作品発表朗読イヴェントに関するテーマや意図、

計画にも触れられた。

私は、それらの話の中に、自分のいる姿を

ちっとも見い出せなかったので、

絵空事のような気持ちでその話を聞きながら、

エライ事になった、と心の中で今更ながら繰り返していた。

皆の邪魔だけはすまい、とネガティブな方から

誓いを立てて。

「そんなわけで皆さん、今日は到着日ですから、

早く寝るもよし、ご自分の作品を推敲するもよし、

とにかく明日の朝食でお会いしましょう」

と言って腰を曲げながら席を立ったシュネッツ氏に続いて、

一同はノートを閉じ、カバンにしまいこんでから、

後に続いた。

「面白くなりそうだわね、カナデ」

人懐こいフラウケが、早速話しかけてきた。

「何だか、タイプの違う、しかもエネルギッシュな

女性の集合体って感じでさ!」

「ハア・・・ほんとに、何だか圧倒されそう。

ところで、あなたも、本を書いてるの?」

と私が訊くと、

「いいえ、それが未だよ!」

フラウケは、ほとんど誇らしげに否定した。

「今69歳だけど、出版なんてやるとしたら、

これから、かなって思ってるの」

一同の気圧におされていた私は、無邪気な

フラウケに嬉しくなり始めていた。

70を前にして、「未だこれからやるわ」

と言えることを持てる、

そういう瑞々しい心境に、自分がその年齢でいられるか、

と思ったら気が遠くなりそうだったし、

自信がなかったけれども、

こんな人に私は会いに来たのだ、と。

「ヴォルフ・ペーターは、私の一つ下よ。

ずっと友達だけど・・・老けたわね。

あの人のほうが、ずっと年上に見えるでしょ!

私だって、腰が悪くて、足の付け根だって、

この間つっかい棒入れたばっかりだし、

だけどね、人間、部品を取り替えられるうちはいいの。

感謝しなくっちゃ」

カラカラとそんなことを笑いながら言うフラウケは、

「私、こういう場所に、人と対話をしに来たのよ。

そりゃ、精神科医ってのは、人と対話することの

専門職だわよ。でも、かなり疲れる対話を

強いられるわね、あなた分かるでしょ。

そういうのとちょっと違う対話、私が求めてるのは。

さっきも言ったけど、面白いことは、日常の

つまんない事の中に転がってるのよ。

だから、私、生きるのが楽しくってしょうがないもの」

瞳の輝きがおそらく10代の頃から変っていないどころか、

輝きを増しているのだろう、こういう人は、

と思えるこの女性は、

またもや屈託なくこういった。

「私の娘、あなたと同い年!

しばらく会ってないけど、いい娘なの。

あなた見てると思い出しちゃう、それに嬉しくなっちゃうわ」


翌日の朝食は豊富な種類のブレートヒェン

(カリっとした朝食用ドイツ小型パン)、

バター、ジャム、ハム、チーズ、卵、

ヨーグルト、フルーツ、ジュースにコーヒーと、

豪勢で、どれも美味しかった。

我々の泊まる宿舎は、

手工業会議所の寮で、

文学ワークショップ参加者は年齢が高いため、

この寮のシャワートイレつきの一人部屋を

使える。

ピアノのときは、教室にに10人分ベッドを押し込まれて、

という年もあったのだから、

はるかに環境がちがい、休まる。

朝食の後は、ふんだんにミルクの泡立った

大きなグラスのラッテ・マキアートが、

50円も払えばエクストラで頼める。

朝食後の一時間、皆が一度部屋に散って、

落ち着かないときを経て、

いよいよワークショップが約束どおり10時からスタートした。

















このところ、すっかりブログご無沙汰となってしまった。

その間にヨーロッパの一夏は完全に終わった。

ニュースでも、「今年最後の貴重な日照りになりそうです」

と、日々世禄勢力を落としつつ消えゆく光への、

惜しまれる声を聞く。


ブログを書かなかった理由というのは、

大したことでもないが、それでも探すと

確かにある。

初夏の頃、思いつきでドイツ語で詩を書くことを

始めた。

何かを始めるときというのは、大抵自然に風に吹かれて

そこへ行き着く、という感じだが、

それにもきっかけというのが必ずあり、この度も

ある特定の人々が、それに導いてくれた。

彼らに「詩を書け」と言われた訳ではもちろんないし、

ましてや下手でまだまだ使いこなせるところからは

程遠いドイツ語で、とは誰に言われるはずもない。

しかし、そんなささやかな営みの底にも、

故意ではないにしろ、

私に書くということへの理由と必然、材料を植えつける

人々が居たということだった。

そして、ふとした「現象」や、「心情の動き」が、

人を何かに向かってまっしぐらに駆り立てるのだということは、

この経験からもう一度思い知った。

私は、とにかく訳も分からず、追い立てられるようにして、

拙いドイツ語の詩を毎日コンピューターに向かって

思いつくまま書きなぐっていたのである。

結果として、ドイツ語で「つぶやく」

ことが日常にならざるを得なかったため、日本語からしばし

遠ざかる事になった。

この「ならざるを得なかった」のも、単に「自分のお腹の底から

湧いてきた欲求」に従ったのみのことで、

そこには何の根拠も、生活への必要性も、当然全くない。

しかし、それこそが我々を動かし、

幸福というものが存在するとするなら、

そこにしかないということも、この夏ではっきり分かったことだった。


それを証明する人たちに出会った。


6月ごろ、毎日が飛ぶように、

廻されて溺れるように過ぎていく中で、

書き記す言葉がふと一つのアイデアに行き着いた。

そういうのもちょっとした「天の配剤」なのかもしれない。

「今は絶対これだ」という感覚が訪れて、

私はそれを疑いと自信のなさから

来る不安とともに、実行した。

「バイロイト青少年芸術祭」の、

「文学ワークショップ」への参加申し込みである。


ーーーーー

このワークショップの講師である、

作家のヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏とは、

2004年に初めて知己を得た。

と言っても真に頼りない縁で、

偶然が偶然を呼んでの出逢いである。

当時自分の教授であったヴァシリー・ロバノフ氏のアシスタントとして

ザルツブルグのモーツァルテウム・夏期アカデミーの仕事を終えて、

心身ともに疲れていた私は、

癒しをかねて、仲良しの友人達の居たバイロイトを訪れる

事にする。

バイロイト青少年芸術祭では、2004年から2007年まで、

ピアニスト、パウル・グルダ氏がマスタークラスを行っていた。

友人が、そこに勝手に私を聴講生として登録する。

なぜなら、その芸術祭に参加すれば、

全員、名高いワーグナー祝祭劇場のオペラチケットが、

一回は必ず手に入る、という特典があったからだ。

ワーグナーファンではなかったが、

「一生に一度はバイロイトの祝祭劇場で、

ワーグナーを聞きなさいよ」

との我が教授、ロバノフ氏の言葉にもそそのかされて、

私は当時特別興味もなかったパウル・グルダ氏の

臨時聴講生となったわけである。


ザルツブルクから、燃える様な暑さのバイエルン州に着いて、

しかし私は辟易していた。

ザルツブルクでの仕事はきつすぎたし、

精神的にもいろいろあった。

その上、今更誰かのレッスンを聴講生として

聴くのも面倒だった。

パウル・グルダ氏のことは

かのフリードリッヒ・グルダの息子か、

もしくは親戚だろう、などと思うくらいで、

全く知識がなかった上に、とにかく鬼才の

家系の人と知り合うのは気が重くて、仕方がなかった。

私は30歳で、学校をようやく卒業しようとしていて、

その後の仕事も一応決まってはいたが、

直前まで帰国への判断を迷ったり、

岐路をくぐっった挙句の、学生を終わって今後長く続くかもしれない

これからの未知のドイツ生活のことを思って疲れきっていた。

バイロイトにてオペラを見たところで、

何になるのか、私には分からなかった。


青少年芸術祭に、とにかく一日遅れて到着すると、

建物の入り口で「文学ワークショップ」の

ミーティング兼食事会が行われていた。

「ジョウホウさん、あなたはピアノのクラスのミーティングには

参加できませんでしたから、今ついでにここでよければ

お食事なさってください」

と事務の方に言われ、

仕方なくその席に着く。

目の前に、明らかに揚げたあと時間がたって脂臭そうな

10人分のヴィーナーシュニッツェルが並んでいる。

「いやあ、あなたはピアニストですか。

パウル・グルダさんところのネ、ハイハイ、

まあ、どうぞどうぞ」

私に横のイスを勧めてくれた眼差しの奥深い、

初老のその人が、作家ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏だ。

ショーン・コネリーを少し柔らかく知的にしたような風貌の、

ロマンスグレーだった。

参加者達は女性が多く、一人20代の男性、

女性は2人が20、30代で、後はみんな50代から60代の

女性が5人ほどである。

それぞれが自己紹介代わりに書くきっかけだとか、

自分の文学的な方向性だとかを

語り、シュネッツ氏がそれを「ああ、そうですかあ・・・まあ、

いいんじゃないですかあ・・・・」

と、見ようによってはのらりくらりとも取れる受け答えをして、

しかしその様子がなんとも人を受け入れるスペースに富んでいて、

私はこんな質問をする気になった。

「あの・・・私、ピアノの講習を聴講する気、実はあんまり

ないんです。どうでしょうか、文学の方を、気が向いたとき

聴講させていただけませんか?」

「ああ・・・いいですよ。どうぞどうぞ、じゃあ、明日10時に

来て下さい」


それから私は毎日、ピアノをボイコットして、

シュネッツ氏のクラスに入り浸った。

書くことは好きだったし、彼らのところにいて

学ぶことは尽きなかった。

形式としては、各自が午前中集中して書いたもの、

あるいは作品を直したものなどを、

ある程度の時間が来ると発表し合い、

批評を受け、仲間とのディスカッションを行う。

そのときのノートの切れ端には、

シュネッツ氏の再三繰り返した、

「写真を撮るように、場面をただ正確に描写すること。

決して説明してはならない。

主張と芸術は違うもの。

読み手に残りを創造させる余地を与える」

などという箴言が殴り書きしてある。

これ一つとっても、私のこのときの

聴講の日々は意味のあるものだったと思う。

そしてたとえドイツ語が達者でなくて、

日本語のように水が染み渡るように理解することが

不可能でも、

才能がある、なし、というのは言葉の使い方、

リズム感、などにはっきり現れることを、

メンバーが発表する詩や散文や小説などを

一度で耳にしながら、私は頭の中で何となくメモ取りをしていた。

ミュンヘン出身の、30代と50代の母娘参加者は、

娘のほうに断然才が亘ったようで、

大きな体躯から「プロパガンダブルー」

という鮮烈な言葉が繰り出されて始まる詩は、

切れ味鋭く私たちの多くを感動させたが、

細身の母のほうの暴力亭主を題材にした小説は、

冗長でダラダラとありふれたエピソードが続いて

聴くほうを疲れさせた。

20代の男性が書いた、

別れた妻との間に残して来た子供を

空港に迎えに行く物語は、なんとなく

不自然だなあ、と思って聴いていたところ、

シュネッツ氏が、

「あなたそれは実体験ですか?そうでないのが、

バレバレです。精巧に書ければ想像でもなんでも良い。

でも、あまりにも自分の世界から離れたものを書くのも、

やはり技巧に走りがちで、危険です」

とアドヴァイスするのを聞いて、人生の歩と

密接に関連する文学の難しさ、

又厚みのある人生にしか描けないものがあることを

なんとなく悟った。

私も傍らでその時々の雰囲気やインスピレーションを

参加者達から得て、日本語で文章を書いたりしていたが、

見かねたシュネッツ氏が、

「暇だったら、かなでは俳句でも書いて、

後で参加者に説明してください。俳句はね、いつだって

いい形式だよ、詩の書き方をインテンシブに学ぶのにね」

というので、バイロイトの地で得た印象を、

何とか季語を入れてデタラメな俳句に詠んで、

日本語のニュアンスなんて分かるはずもないと高をくくって、

とくとくと参加者達に黒板に立って説明したのだった。

それの影響で、その後の時間に

俳句を書きたがる人が増えたのはいいのだが、

ドイツ語の音節感覚では、日本語とは比べ物にならない

長いものが出来ることを知って、到底俳句に聞こえないことを

どう説明すべきか迷って、閉口させられた。

ここの参加者も、講師のシュネッツ氏も、

しかし寛大にも私を飛び入り聴講生としてだけでなく、

人間として受け入れ、仲間としてくれた。

ランチの時間や、休憩時には、

皆私を囲んでわざわざ芸術談義をしようとしてくれたり、

音楽と文学の共通点について語ると、言語の不自由な

私ですら、言葉が尽きない時間となった。

随分後になって、やっとこさっとこ顔を出してみる気になった

パウル・グルダ氏のピアノのクラスは、

そうこうするうちついに後半に突入しており、

「聴講」のつもりが「音、一、二個弾いてみませんか、

ジョウホウさん」

というこれまた寛大なグルダ氏の申し出により、

練習もせずに鈍る手で弾いてみたところが、

氏と2日後に連弾を本番で弾かせてもらえる事になり、

それがきっかけとなって交流が続いているが、

その件に関しては

別の章で何回か書いてきたので割愛する。

連弾のコンサートには、文学クラスから

何人かの参加者が訪れ、

物を書く人特有の、見方、聴き方を、

本番終了後に自分の言葉で語ってくれる。

ワークショップ終日の文学の朗読イヴェントにも顔を出した私にも、

一人一人が真剣に感想を求め、

訳が分からずとも率直に思ったことを述べると、

思った以上の反応の仕方で喜んでくれた。

ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏は、出版した直後の詩集、

「虹の樹の果実、及び、沈黙の発見」

という、それ以後私が聖書として、宝としている

本の表紙に、

「かなでへ。詩は、永遠に終わらない。

ショパンは、気体の中に存在する」

と、ショパンを弾いていた私に向けて

個人的な言葉と、サインとをしてくれた。ーーーーーーー


この度、詩を書き始めて思い出したのは、

そのシュネッツ氏のいる場所だった。

「そうだ、あそこに行ってみよう」

白熱の太陽が台地を覆う7月初頭、

いい思い付きだ、と自分でも思った。


しかしこれはそれほど気軽にできる行為では

ないことは、バイロイト青年芸術祭にメールを

送るボタンの手が、何度も止まりかけた自分だけが

考えたことではなかった。

申し込みの数日後、

「バイロイト青年芸術祭ですが、ジョウホウさんですね。

あなた国籍は日本とおっしゃいますが、

ドイツ語で文章を書いた経験は?」

と芸術祭の事務局からいぶかしげな問い合わせの

電話があった。

「ええ、ほぼありません。詩と、散文を少し

書き始めたところです。

日本語では、ものを書くのはずっと好んでやっています。

・・・2007年に、一応一冊ですが、

ささやかな本も出しました」

「はあ・・・・」

向こう様は、困惑を隠せない。

私は、たたみ掛けるように言った。

「あの、ヴォルフ・ペーター・シュネッツ氏を、

一応知っているんです。2004年に知り合いました。

まあ、それで、もしも今回参加が許されるものなら、

と申し込んだんです。どんな形態で、

ワークショップが行われていくのかは、

大体知っています。2004年に聴講しましたから」

「ああ、そうですか、シュネッツ先生に聞けば

分かりますね、了解しました、

すぐに彼に電話連絡してみます」


数日後、「参加許可証」が届いたときは、

第一関門突破、という心境だった。

この喜びというのは、嘗て味わった、

ピアノコンクールやマスタークラスの

参加資格を得るなどということとは、

全然違う、数段大きい喜びである。

何しろ「無知で」「未知」の世界である。

何が起こるのか、あるいは手も足も出ないのか、

とにかく水に飛び込んでみなくては、

何も分からない。


夏の真っ盛りは、ウィーンに滞在していた。

コーヒーとミルクの優しい泡とのバランスがカプチーノより

断然エレガントなヴィーナーメランジェと、

クロワッサンで始めるこの街の粋な朝は、

早くから異様な熱気に包まれていた。

講習会のヴァイオリンクラスでの伴奏を二週間という

仕事だったが、その日の持ち分が終わると

すぐに帰路について、ひたすら熱のこもった

ウィーンの真夏を解放するように窓を開け放ち、

そしてピアノを触ることも少なめに、

夜風に吹かれながらノートに書き付けた自分の

ドイツ語の詩を眺めて推敲したり、

新たな文を書いたりを一応試みてはみた。

しかし、基本的にはウィーンではウィーンの

ノルマ、日常が心の域を占めていて、

なかなかその後のバイロイトのことに

集中したり、思いを馳せることもできない。

ウィーン滞在は、それはそれで仕事のほかにも

音楽の都の夏に相応しく、印象深い出来事が重なった。

その数々のシーンだけを頭に刻み込んで、後は

すなわち「飛び込んでからもがこう」

と私は決心して、ウィーンの仕事が終わった翌日、

6時間半列車に乗ってドナウ川沿いに途中で

国境を越えて、バイロイトへの旅をしたのである。

食堂車では、ハンブルク出身の老婦人と相席になった。

互いに「ドイツに帰る」者同士として、

同郷の気持ちで話をした。




続く






















(ルーマニア編、いい加減終結せねばと思いつつ・・・

日々の新たな潮流に逆らう体力が欠け気味でした。

このページを時折めくって下さった方々がいらしたかも知れず、

更新停滞甚だしさ、お許し下さいませ。)


××××××××



さて、ルーマニアと言えば、ロマと呼ばれる移動民族、

いわゆるジプシーが有名である。

ジプシー音楽に魅了され、影響を受けた西洋作曲家は

数知れないが、その音楽の自由奔放さ、濃厚さ、

ヴィルトゥオージティをこれ以上は無いくらい発揮する

表現の多様性は、ルーマニア気質の原点を成しているのかも知れない。

祭司の家に生まれたクリスティーナが、

若いながらも時折アッと驚くような、

ひらめきの美を伴う表現を生むその根源は、

やはり、時を経て複雑に混ぜられたにもかかわらず、

どこか血の中にうずくまっているものなのかも知れないと、

道行く浅黒い濃い顔の人々を見送りながら、ふと思う。

午後の遅い時間、私とクリスティーナは、車の中に居た。

父ヴァシル氏が、

「気が向いたら、後で私のルーマニア正教会の

仕事現場を見に来るかい?」

と誘ったからである。

辺りは生温かい3月1日の湿気を一息に爆発させたように、

雷を伴うどしゃ降りとなった。

教会へと足元をドロだらけにしながら飛び込むと、

丁度乳児への洗礼の場面に出くわす。

どう振舞っていいかわからない私に、

「好きなところに座って大丈夫、何も緊張する必要なんて

なし」

とクリスティーナが耳打ちし、

私は陳列客のすぐ後ろで、同様に立ってその様子を

観察する事にした。

白い毛布のようなおくるみに大切に巻かれた赤ちゃんは、

洗礼ということをわきまえたかのように母に抱かれて

人形さながらに静謐そのものである。

ヴァシル氏が何か唱えながら、

赤子の額にそっとかめから掬い上げた水を数回つけた。

安堵の表情を湛えた母が、ヴァシル氏と共に教会の後ろへと

振り返って下がる。

若い夫が、嬉しそうにその後を付いて歩く。

親戚が、様々な角度から小型デジタルカメラで、

パシ、パシ、と明るくシャッターを切り、

その人生の記念すべき記録を、年長者として額面に納める。

赤ちゃんが私の横を通り過ぎた。

臨席する皆が申し分なく幸福で、満遍なく満たされ、

儀式を終えるという、人間としての「型」を全うし、

共有する喜びに溢れていた。

丁度一まとめに7歳、5歳、3歳になる年の私たち兄弟が、

両親に連れられて着飾って行った七五三の秋を、

やはりあの日は人生において何らかが特別であった、

と思い起こした。

それは「祈る」ということにおいて切実で必然であったのだと、

何も苦労して着物を着せて子供全員を神社に連れ出す必要も

ない、忙しくて若かった両親が、やはりそれをせずには居られない

理由というのはひとえに、人が祈らずには生きていけない

儚なさを熟知している動物だということに帰依するのだと。


近頃演奏の関係でたまたま知り合ったスイス人心理学者が、

夕食時に日本人の私に向けて漏らした問いがここにある。


「日本人は、戦後、基本的に無宗教だなんて宣言して、

信心深い人は減り、宗教観も薄れていると言いますが・・・

それは果たして本当ですかね?

人間はね、『儀式』を大切にしてきましたよ。

ええ、それが人間らしいんですがね、

そのために争いごとも、問題も生んできました。

さてそのことが、宗教、民族の境目が、

この現代社会にして未だある、どころか世界の問題の一番の

争点となって今までになく混沌を極めておりますがね。

果たしてじゃあ、『儀式』を全く無視したとしてですね、

それじゃあ、その中にあった『意義』やら、

『精神』やらっていうのは、人々の中から本当に消えるんですかね?

無理やり消したかのように思われたその髄が、

かえって根を張ったりするんじゃないんですか?

・・・・そして同時に、『儀式』を論じることが先に来てしまうと、

そのことそのものが、人々が『精神』へ行こうとすることすら

阻むこともあるんじゃないかと・・・」



ヴァシル氏は、洗礼を終えると、つかつかと私達の方に

足を運んで、

「カナデ、良かったらもう少し、夕方のミサを聴いていかない?」

と言った。

「疲れちゃうなら、別に帰ってもいいのよ」

と気遣うクリスティーナに、私は

「勿論喜んで残る」と応えて、二人で端の合唱台のイスに寄りかかり、

ヴァシル氏をはじめ、

4,5人の祭司達のグレゴリオ聖歌の合唱を一時間ほど聴き続けた。

「あの人は、新米の祭司で、今日はこのミサの指揮を

初めて執ってる」

とクリスティーナがいう、恰幅のいい40代半ばほどの祭司が、

金細工が施されたキリスト、聖パウロ、聖ヤコブの画が描かれたドアの

中から出たり入ったりしながら、ミサを取り仕切った。

少々不器用で落ち着かない祭司の動きを見つめながら、

イヤだ、あの人緊張しちゃってる、と私にささやくクリスティーナ。

その日の夕刻のミサの出席者は、

私たち以外にはたった二人きりだった。

大変やせこけた、中年の男性と、

幾重にもスカーフをかぶった老女で、彼らはグレゴリオ聖歌が

一曲終結するたびに、頭を垂れて、深く十字を切った。

「祈らなければならぬ理由」

を、身体全体に湛えて。

「音程、悪・・・!」

何百回も歌われ続けているであろう、父とその同僚の

日々の「儀式」の一部を、祭司の娘、クリスティーナが

横でそっと批評した。そしてすぐに嬉しそうに付け足した。

「でも、そこもまた、心地良いのよね。

時々ちょっとした不協和音が混じって、完璧じゃないところがさ」


ミサが終わると、ヴァシル氏が何かを片手に、

真っすぐに私たちのところへやってきた。

「さあ、よく我慢して全部聴き通したね。

・・・カナデ、これはね、君へのお土産だ。

ルーマニア正教会から、そして私から、

心ばかりの友情の印だよ」

そうやって手渡されたシンプルな白封筒を開くと、

中は芳しいお香と、マリアとキリストのキーホルダー、

そして黒い紐で編んだ、ペンダント式の十字架が

入っていた。

「いつか、お金が出来たら、必ず日本に行きたい、

ずっとそう思ってたんだ。

自己の中の静寂を愛する仏教も、自然を崇める神道も、

本当に素晴らしい。その足跡を、是非尋ねて歩きたい」

と言うヴァシル氏の目は、遠く澄んで、笑みを絶やさず、

その言葉に一点の曇りも疑いの余地もなかった。

その場面が、一瞬にして「西洋音楽」という、キリスト教を

ベースにした、それと切っても切り離せない関係にある

その芸術に携わろうと試みている自分への疑いの気持ちをも、

絡まった糸がひとりでにほぐれていくように、

一挙に解き放ったのだった。

私には許されている、「このことをしようとすることが」、

という根拠のない、しかし強固な確信を植えつけられた、

瞬間だった。


夜8時。

食堂には、クリスティーナと私、

兄と兄嫁が、テーブルを囲んで、テレビを目の前に、

緊張の面持ちで待機している。

イスにあぶれた両親は、一つ部屋を隔てた、

寝室にてやはり同じチャンネルをつけて、

ベッドに寝転んでいる。

アラッド地域のチャンネル、8時のインタビュー番組が

始まった。

タイトルは、

「ヴィオラで音楽を極める・期待のアラッド出身、

クリスティーナ・ポップ」

である。

懸命に笑顔は作っているが、いかにも困惑気味のクリスティーナが、

テレビ画面一杯に現れると、家中にわっと歓声が沸いた。

「ギャー、なんだこの顔!」

自分でちゃかすクリスティーナ、白いスーツに身を包んで、

髪をきつくポニーテールに結ったその姿は、

私が子供の頃にファンだったルーマニアの新体操選手を

髣髴とさせた。

紺のスーツ姿のいかにもNHKのアナウンサーを思わせる

きちんとした面立ちの男性が、

横から丁寧に質問攻めにする。

「ヴィオラを始めたのはどういうきっかけですか」

「高校を優秀な成績で卒業した後、

スペインへ留学された訳は?」

「スペインから、ドイツ・デトモルトへと勉学の場を

移した理由は?」

「スペインとドイツと、どちらが音楽的環境がいいですか?」

おおよそ、こんなこと訊いてるんでしょ、

と察しをつける私が問うと、

「ルーマニア語分かるの、カナデ???」

と驚く一同。大体からして、インタビュー内容なんて、

世界共通で、大抵は面白くも、個性的でも

ないものである。

笑顔を絶やさずも時折首を傾げつつ、

答えに窮する場面が見受けられるクリスティーナ。

「そうだよ、こんなつまんない質問、答えづらくって、

バカらしいったらありゃしない!」

とテレビに向かって照れ交じりに、

片手にしたクッキーを投げそうな勢いで叫ぶ彼女は、

あまりにブラウン管の中のしとやかな新体操選手とは別人である。

兄がこれ見よがしに、どこを見るともなく英語でつぶやいた。

「この番組、ホントにつまんねえな。

・・・・何か他のチャンネルに変えないか?」

その直後兄は背後から腕を巻きつけられ、

妹の首絞めの応酬を浴びることとなるのだった。


その日の夕食を終えると、ポップ家との別れが待っていた。

父ヴァシル氏は、両側に挨拶のキスをすると、

「カナデ、君はもう私たちにとって、

この3日間で本当に娘同様になったよ。

ルーマニアに家族が出来たと思って欲しい。

何か寂しくなったり、助けが必要なときは、

ドイツからいつでも電話したり、来ていいからね」

続いて後ろに控えたエプロン姿の母は、

ただただ私を抱きしめて、

いつものように「ふんふん」と猫が鳴くような声で

挨拶の代わりをする。

兄は人懐こい笑顔を浮かべて、

控えめな兄嫁は、挨拶も照れ気味で、

最後は少し視線をずらす感じで、

初めての日本人との別れを最後まで謙虚に終えた。

その佇まいは、日本人に似ている、と思った。

「日本で、演奏と故郷での時間を楽しんでおいでね。

カナデはきっと、日本ではスターなんだろう」

とヴァシル氏が言う。

いえいえ、とんでもない、残念ながらスターではありませんね、

と言うと、ヴァシル氏は笑みをこぼしながら言った。

「いいや、僕はそんな謙遜は信じないよ。

クリスティーナは・・・勿論駆け出しでスターでもなんでもないが・・・

だけど僕らにとっちゃあ、いつだって一番輝ける小さなスターだ」


その後、一ヶ月経つか経たないかの内に、

兄夫婦に赤ちゃんができたことが判明、

家族中思いがけない喜びに包まれている、

とクリスティーナから聞いた。


冬の名残を留めた乾いた牧草地の中を再び数時間車にゆられて、

ブダペスト空港から一度ケルンに戻り、

その2日後にコペンハーゲン経由で

『故郷』日本へと飛んだ。

飛行機の隣席は、偶然にもポーランド・ワルシャワ出身の

ピアニストだった。

その間目にした風景や人々は、それぞれ個性的で、

系統も趣味も国の生業も国民性もバラバラだったが、

不思議と私にはそれらが繋がって、

違和感や相違や比較を全くもたらさなかった。

成田エクスプレスからのなだらかな春を待つ農地の風景や、

新宿の甲州街道の雑踏が、「浦島太郎」ではなく、

ルーマニアの地続きのような気がした。


3月22日の久しぶりの東京でのリサイタルで、

私はちょっとした初めての経験をした。

普段なら楽屋にいるか、おそらくそこらじゅうを

歩き回ったりして身体を温めたり、

コンニャク体操をしたり、楽譜を眺めたり、

何かと落ち着かないのだが、

JTアートホールには楽屋と舞台袖脇にこんな装置があった。

開演時間前に三箇所に亘る、

ホール入り口、客席前方、後方から見たお客様入場の

様子を、映像にして流しているのである。

今時どこのホールでも珍しくないことなのかもしれない。

ただ、客席全体を映すのは目にした事があっても、

ホール入場のお客様の様子を

今から出て行こうとする舞台袖で逐一見ることが出来たのは、

私にとって少なくとも生まれて初めての経験だった。

私は、開演前に入られたお客様のお一人お一人を、

ずっと見つめていた。

いろいろ日々の変動やご事情の重なる中、

私の小さな音楽会にわざわざ休日を使って

この虎ノ門のホールまでお運びくださった方々が、

紛れもなく私の生まれた土地の、

普段遠くに居てなかなかお話しすることもままならない、

しかし同郷の人々だということを感じたとき、

味わったことのない感銘と、言いようのない緊迫感とが、

一挙に押し寄せた。

ホール入り口の映像を流す機械が、説明もつかないほど強烈に、

それから間もなく舞台に出て行こうとしている一人の弱い人間に、

重力を伴うノスタルジーをもたらしたのだった。

そうして、「日本でのリサイタルに向けて祈る」

と言っていたルーマニアの『家族』が、ここにいても不思議はない、

という錯覚に囚われた。




「ルーマニアだから」

あるいは「これが元共産圏の証拠」

という言葉が口をついて出てくるこの国の人たちは、

その歴史の残した波動を毎日少しずつ、

自然と私に伝えるのをいとわなかった。

その中には、耳を疑いたくなるような

暗い話題や現実もあったし、

街へ出れば市場という人々の生活の根底を担う場所に

佇む風景には驚きを隠せなかった。

どの商品にも非常にささやかな値がついているものの、

この国の平均給与から言ったら、

とても手当たり次第買えるはずはなく、

むしろオレンジ一つ、ニンジン一本が、

異常に高価だと思ったからである。

またその様子も、

種々雑多の日用品がホコリまみれになって積まれている横で、

花や果物を積み上げて売っている商人などはいい方で、

ある老婆がうつむいたまま顔を上げることなく

机に並べているのは、小さな子供靴と、

ニンニクがたったふたかけら、

「売れるものがこれだけはあった」

という、ただただ存在するしかなかった現実が牙をむいていた。

「定年」というのは、その後の年金保障や退職金の制度が

悪いので、「人生を定年しろ」、という意味だと

クリスティーナの友人、A氏は言った。

彼は医師で、

病院づとめの初任給はやはり「300ドル」程だった、という。

現在は夜の10時、11時まで開業して、

それでも初任給とどれだけ変っていることか、

と多忙な若い医師はため息をつき、

「人々はね、病気になったら、生き続けるために病院に

通いたいから、何でもしますよ。いわゆる、闇市のような、

副業ね。そして身を粉にして物を売る。

そしてそれで更に身体を壊す。結局、

どうやっても死ねって言ってるみたいですよ、この国の社会は」


リサイタル翌日、結婚して100キロほど離れた街に住む

クリスティーナの兄夫婦が残って、

リサイタル後の日曜日の、盛大な食事会が行われた。

「ルーマニア人は、

死ぬまで食べ続ける、って言われているの」

との言葉どおり、昼間から豪勢なメニューが並ぶ食卓は、

ふんだんな種類の肉料理が中心で、

クリスティーナいわく、

「厳しい経済を切り盛りして豊かな食生活を営んできた」

ルーマニア人の知恵が絞りつくされたような彩りあふれる

ものだった。

昨日は街の主役だったクリスティーナは、

台所に立って母を手伝い、千切りニンジンのサラダを

つくる。

母は卵の白身を団子状にし、肉で美味しいだしをとった

特性コンソメスープを煮て、七面鳥、鶏、豚肉のグリルを、

これでもか、と網に焼き付けて取り出すのを繰り返す。

それをいそいそと手伝うのが、

モデルのように足が長くて美人で、

控えめな兄嫁である。

食事の席に着き、クリスティーナが大きなボールに入った

スープをお皿によそいはじめると、

29歳の兄が言った。

「ホラ、注意しろよ、こぼすなよ」

「兄ちゃんは、こうやって、小さい頃から私を

苛める事に命かけてるんだよ。

俺とは違って、お前は出来が悪い、

とか何とか言っちゃってね。家族と全然似てないから、

お前はもらわれっ子だって、何度苛められたことか」

25歳の妹は、甲斐甲斐しくスープを人数分注ぎながら、

肘で兄をつついた。

「確かにナア・・・」

と兄はつぶやき、

「カナデ、小さい頃ね、こんなことがあって」

とよく冷えた甘口シャンパンのグラスを片手に語り始めた。


「僕が10歳か11歳の頃かなあ・・・

そのちょっと前、共産時代のルーマニアでは、

テレビっていうのは一日に一時間しか見られなかったのね。

って言うのも番組自体が、この国では一時間しか

やっていなかったんだ(一同、笑う)。

でね、共産体制がつぶれて、晴れて僕らは、

一日中テレビがやっている、という夢のような時代に入ったわけ。

そこでは、何もかもが面白く感じられてね。

もう、僕は夢中になって見続けた。

特に面白かったのが、アメリカから入ってきた、

ドラマ系の映画なんかね。

その中で、僕の心をどんぴしゃと打ったものが

あった。

あるストーリー中に、

家なき子、というかね、とにかく、家族で一人だけ、

その家の子ではない、という設定の主人公の子供が

現れてね、その子は昼夜犬を連れてとぼとぼさまよい

歩いたりして、本当に可哀そうなんだ。

その主人公の様子に子供だった僕はかぶれてね。いや、

妙に感動したんだな。

それで、その場面を、家の中に設定してやろうじゃないか、

という考えが浮かんだのね。

・・・それで犠牲になったのが、クリスティーナだ。

僕は、意気揚々と言ってやった。

『お前は、この子と一緒で、実は家の子じゃないんだぞ。

言われて見れば、父ちゃんにも母ちゃんにも、

そんなに似てないだろ。

ホントの子じゃないから、おもちゃだって、

オレよりずっと少ないじゃないか』

・・・・どんぴしゃ、だったね。

クリスティーナは、咄嗟にショックでワンワン泣きになって、

荷物をちっちゃなリュックサックに詰め始めたよ。

家出のためのね。まだ、6、7歳の子が、だよ。

そして、荷物が出来たら、速攻家を出てった。

ただし、家から10メートル出たところで母親に運良く

見つかって。事情を知った母親は、カンカンさ」

どうなったの、と訊くと、

「当然、お尻叩きの計、100回でしょ」

とクリスティーナが冷たく言った。

その昔、お尻を真っ赤になるまで叩き続けられた

いたずらな兄は、お肉にかぶりつきながら、

笑っている。

自分の子のお尻を叩くことも出来なさそうな程人のよさそうな

チャーミングな母は、

分からない英語を聞きながら、それでも

「ふん、ふん」

と当時を思い出して、遠い目をしている。

皆に新しく焼いたお肉を提供し続けるために

一度もきちんと食卓に着かず、

エプロンで手を拭き拭き歩き回っている

クリスティーナの母の姿は、

日本の実家の母や、祖母の姿にやはり似ていた。


その日は3月1日で、奇しくも「女の子の日」すなわち

日本で言うところの「ひな祭り」的な日に当たるということであった。

メイン通りへとふらっと出てみると、

男性が女性にプレゼントするための細々した

雑貨類を売る屋台が軒を連ねていて、

老若男女が、楽しそうに目を細めてそれらに足を止めて

見入っているのだった。

そのどれもに目をやっても、

小さいガラス玉に花模様の絵が入って

紐で結ぶ形にしてあるネックレスも、

金属のブローチが入っているウサギの形をした

宝石入れも、風が吹けば飛ぶような花弁をした

小さなヒヤシンスのような植物が入った木で編んだ花籠も、

これほど子供だましな製品を嘗て

目にしたことがあるのかと思うほどに、

あまりに貧相で、ささやかに過ぎた。

それでも私は小一時間ばかりその通りを行ったり来たり

歩いた挙句、ブローチの入った

ウサギの宝石箱とヒヤシンスは買い求めた。

それと言うのも、ルーマニアの土地から生まれた

何かが記念に欲しかったからであり、

それ以外に一般の店に入ってもそれほどめぼしいものが

見つからなかったのもあり、

何よりもある店の軒先の、売り子の男性が、

あまりに控えめに、そして熱心に、一心に目を見つめて、

「いかがでしょうか」

と繰り返したから、だった。

その低姿勢と、極端に強い視線に、私はどういうわけか

その場を梃子でも動けない、という風になったのである。

時間を掛けて、ウサギのボディの一つ一つを

パカンパカンと開いては閉じ、どれでも同じようにチャチで

どうしようもないブローチの一つにやっと意を決して、

「これをお願いします」

と言うと、彼は大きな黒い瞳に満面の笑みではなく、

安堵を湛えて、「○○レイです」

と指で数字を作って私の前に丁寧に差し出した。

「レイ」という名の、日本人の私にとっておもちゃのような可憐な響きがする

その紙幣を渡すと、

彼はもう一度尾を引くような黒々とした視線を送って、

ささやかな笑顔をやっと口元に乗せた。

あれほどに切実な物を売る人というのを、

私はおそらく今まで見たことがない。

永遠に続くような3月1日の出店の間を縫って歩を進める

私の右手指には、花かごの折れそうな取っ手が握られ、

左手には薄くホコリの積もった

ビロードのウサギが丁度よく丸く収まった。

帰宅してクリスティーナに見せると、

小柄でお茶目なティーンエイジャーみたいな

風情を持つ彼女は即座に言った。

「うわ、何てキッチュなの?

・・・でも、それがルーマニアなのよね」





続く






日が段々と傾いてきて、

フィルハーモニーに戻る時間が近づいていた。

そのうち、家族の太陽「マミー」が帰宅の途に着いた。

今日は特別の日なので、銀行の仕事を

中座してきたのである。

家はにわかに「本番前の空気」を帯びてきて、

それが善意の塊であればあるほど、

小動物のように周囲の変化に敏感になる「音楽家」は

突如として緊張に襲われるのがオチである。

「大丈夫、クリスティーナ。

ちゃんとご飯、食べた?」

50代だというのになんともあどけない表情の

母は、心底地元デビューを控えた娘が心配のようだ。

イライラしてクリスティーナは言った。

「大丈夫、って言われったって、困る!

大丈夫な訳、ないでしょうに!!」

更に父が言う言葉に、デビュー直前の娘は

強く反駁する。

父は、ご来場の皆さんに、簡単なケーキか

お菓子を出した方がいいという意見を出したのである。

「いらない!!!そんな余計なことしないでよ!!

とにかく、催しをこれ以上大げさにするのは、

止めてったら止めて!!」

傍目から見ると、いかにも微笑ましく、

どこにでもある典型的家族の争いだが、

当人達にとっては大問題なのだろう。

そうしてイラつきながら部屋の奥につかつか行き戻ってきた

クリスティーナは、ギャザーがたっぷり入った

赤いオーガンジーのステージドレスを母に差し出して、

こう言った。

「じゃあこれ、アイロンしてくれる!?」

非常時の娘のために、

母は、ダイニングテーブルのクロスをはがして、

霧吹きに水をたっぷりと用意し、

終わりなきテーブルに溢れる赤い生地を丁寧に見回して、

「ふんふん」

と子猫がすすり泣くような微かな声を発しながら、

アイロンを当て始めた。

とりあえずカナデは書斎に「避難した方がいい」という

クリスティーナに従って

二人で奥に引っ込んでドアを閉めると、

両親が言い争い始めるのが聞こえてくる。


父「クリスティーナに、さっき余計なこと言って、

  緊張させただろ!」

母「あなたこそ、ケーキなんて言って、

  本番直前にストレスを与えたんじゃありませんか」

(注・クリスティーナ・ポップ訳による)


・・・・やれやれ、自分の事態を思い起こしても、

どこの国でも音楽家とその家族にだけはなるもんじゃないな、

と思い始めたら、クリスティーナが、

突然ヴィオラを取り出して隣の部屋で狂ったように

最後のおさらいを始めた。

それを察した母は、アイロンをしばし置いて、

ハンガーを取りに書斎に入ってくる。

そして、「一言も」英語がしゃべれないの、

と朝私に恥ずかしそうに言った彼女は、

急に私の目を上からジッと見つめると、

一言一言区切って、なぞるように言ったのだった。


「LIFE・IS・NOT・EASY・・・」



出かける際に、マフラーを首に巻きつける娘に

父ヴァシレ氏はそっと、一枚の紙幣を握らせた。

「本番前に、必要だったらこれでお茶でも飲んでおいで」

そして彼は、同じものを私にヒョイと差し出し、

「ハイ、カナデ、これは君の分だ。好きなもの飲むんだよ」

と言う。その昔ながらの年少者に対する、

ささやかな屈託のない場面は、私が子供の頃には日本にも

あったのか、それとももう消えてなくなっていたのか、

あるいは親の世代から語られる戦争直後の家族映像の

ワンシーンのように妙に印象的だった。

そんなあ、いただけません、私はあなたの子供じゃあるまいし、

と笑って辞退すると彼は言うのだった。

「そんなこと言わないで。君はね、家の娘と同じだよ。

・・それにね、正直に言って、

君が一体何歳だかは知らないが、僕にとっちゃあ、

17歳とさほど変らないと思うんだ」



大げさに捉えれば捉えるほど、

コンサートという舞台は特に命に別状も無い

催しである。

クリスティーナは、本番まで真剣に顔を引きつらせながら、

またデビューの初々しさから発される

謙虚な舞台態度から、

「慣れ」や「余裕」のようなものは感じられなかったにせよ、

大いに彼女のディテールに踏み込む音楽性を

発揮して、喝采を浴びた。

共演の私はと言えば、

初めての国での異なる空気にさらされての

舞台は、それは当然エキサイティングだった。

客席の人々が、音楽の詳細を作ることもままあるほど、

アラッドの素朴で真摯な人々の様子は、

私たちに力を与え続けてくれた。

休憩時に、楽屋となるフィルハーモニーの図書室から

薄暗くなりかけた格子の窓の外を見やると、

「元共産圏」の、ラテンの血を引く人々が、

並木道の続く冬の国立公園を、

のんびりと犬を連れて夕方の散歩にいそしむ姿や、

パンクロック調の若者が、互いに飛びつきあいながら

往来するのが見えて、

この土地に来た実感と偶然への不思議とを

ふいに意識させられる。

会場の中は、「アジア人の友人はいない」か、

あるいは、「アジア人のピアノを聴くのは初めて」

という、聖職者や音楽家や、教師や銀行員や

学生や子供たちで溢れかえっていた。

本番が終わると、楽屋に引き篭もっていた

クリスティーナと私は、すぐさま

主催者やクリスティーナのお父さんに呼び寄せられて、

会場へと顔を出す羽目となった。

クリスティーナが、友人や先生や、

正教会のメンバーなどから抱擁の祝福を受けると、

私のためにまた再び同じ列が連なって、

彼らは会ったばかりの日本人に、一瞬どうしてよいか

正直に戸惑いを見せつつも、

長年の知己であるクリスティーナにするのと同じように

両頬に二回ずつキスをするのをいとわなかった。

私のために小さな花束や、バラの一房を用意してくれた

聴衆も多くいた。

そのうち、クリスティーナの父、ヴァシレ氏が、

「カナデ」と私を促し、

向きを変えるとそこには街の大司教様が

他の聖職者一同のグループに囲まれて立っていらっしゃる。

「カナデに是非お祝いと御礼を言いたいと、

大司教様がおっしゃってるからね」

と父上が言ったその途端、

あごひげを20センチもたらして、

荘厳なモノトーンの祭司服に身を包んだ大司教様は、

私が一言も解し得ないルーマニア語で、

延々と祝福と感想を述べてくださったのだった。

「ムルツメスク、ムルツメスク、」(ありがとう)

と最早呪文のように唱えるしか

なす術のなった私は、

ドイツ語か英語に訳す暇も無く、

司教様の言葉を遮ることもかなわない周囲の

微笑をひっきりなしに浴びながら、

なんと15分ほども司教様の前に佇み、

最後に握られた両の手に一層力を込めて発された、

「もう一度ありがとう。遠方からこの国に訪れたあなたに、

神のご加護を」

との言葉を最後に、やっと舞台を立ち去ることとなった。

そのある意味滑稽且つ、

心温まる司教様と日本人の様子の全てを、

地元のテレビ局が収録していた。

明日の夜八時より一時間、

「気鋭の若手ヴィオラ奏者、クリスティーナ・ポップ」

のインタビュー番組が放映されるのである。


続く