ケルンのコンサート2回分:2月27日と2月28日
福間洸太郎ピアノ・リサイタル、ケルン・日本文化センターと、カプート・アンサンブル・アイスランド、WDR
自分は武満徹を弾かない。なぜかというとドイツの音大のピアノ科は、入学試験や卒業試験に必ず一曲以上の無調以降の現代音楽が義務付けられていて、日本人のピアノの学生がみな決まりきったように武満を弾くからである。ここではドビッシーやラヴェル、ストラヴィンスキー、バルトークなどは現代音楽とは言わないで近代音楽と言う。 福間洸太郎というピアニストは高校卒と同時に海外に留学した最近多くなるパターンのピアニストだ。パリを経て現在ベルリンにいる。現代音楽ピアニストでは大井浩明や永野 英樹・野田憲太郎らの次の世代に入る。最近ナクソスからの武満ピアノ全集のCDを出したことで知られている。全曲は六十数分でCD一枚にすっぽり入る。今回は予定ではその全部を弾くと思ったら、意を返して他の曲目もかなり入っていた。後で個人的に話すとクラシックもコンクールのせいで現代音楽と半々でやるとのこと。クラシック弾きにクセキスを入れる人は見たことはない。でも総じて武満の専門弾きというところだろう。今回は自分が高校時代昔先生につけないで独習したあの懐かしいNHKの「ピアノのお稽古」で委嘱され使われた「子供のために二つの小品」も入っていた。生で聞くのははじめてである。 一曲目の2つのレントからアダージョはもうすでに武満和声が現れている。「音楽以前」の曲というよりも「音楽以後」の典型的な作品だろう。「音楽以前」はその後でそうされたケージの8つの俳句のほうが趣に合っている。途中、湯浅譲二の「コスモス・ハプティック」もあったが武満から間を空けないで続けて演奏したのでどこから始まったかわからないぐらい似通っていた。曲を覚えていないと意外とわからないものである。このつまみ食いのようなプログラムは自分も新宿で昔ラッへンマンとシュットックハウゼンの曲の間に自作を入れてやったことがある、疲れないプログラムではあるが、集中力に相当欠けるので印象はかなり弱くなる。 前半の最後のほうにはクセナキスの事実上の右手に14度を含む「演奏不可能作品」「エヴリアリ」が入っていた。この曲を生で聴くのは過去にダルムシュタットでベルンハルト・ヴァンバッハが弾いて以降久しぶりだ。この曲の演奏はやはり若い人に限る。ベテランになると疲れないように音量などを抑えるのでつまらなく聴こえる。次はクセナキスピアノ曲全曲と武満全曲に期待すべきか? 次の日は放送局で今経済危機で特に有名なアイスランドのカプート・アンサンブルを聴く。Caputとはラテン語でHead/Kopfの意味だが、音を聴くとやはりKaputt(壊れたように)に聴こえる。しかしこれは演奏技術の問題ではなくアイスランドの作曲家がそう音楽を作ったためだとわかるのは最後の曲に於いてであった。 よりによって知られていないアイスランドの作曲家の名前がたくさん並ぶ。アトリ・インゴルフソンが一番有名、その後にベン・セレンセンとかスノリ・シグフス・ビルギソン、ハウクル、トマッソンとか並ぶ。その様式に北欧風ではあるが、余りにも西側にあるのでカナダ風の寂しさも満遍なく聞こえる。リントベルィかサリアホとマリー・R・シェーファーを足して二で割ったような音楽だ! 最後は新作の委嘱でドイツ人のギュンター・シュタインケが選ばれたが、この名前だけは聞いただけでもううんざりしている。それでも曲自体は意外と上手く作られていて、エントリピー形式で始まりだんだん複雑になり盛り上げて最後にクライマックスを築くところは、師のクラウス・フーバーがいう「エントリピー形式の自然性」は良好だが「現代音楽にクライマックスはない」に矛盾している。特殊奏法も異なった楽器でも似た音色を集めて曲を豊かにすることに成功していた。
ケルンの「スターバ-ト・マーテル」と「エディプス・レックス」、1月9日オペラ・ハウス
このプロダクションは即席らしい。時間がなかったらしくその場しのぎの舞台と演技で済ませていた。なぜプログラムが変更されたのかはわからないが、2番目のストラヴィンスキーは「オペラ=オラトリオ」と題されているし、さすがにピアノ譜は複調だらけで複雑だが、ここの声部は見かけよりも演奏しやすい作品のようである。
ペルゴレ-ジの「スターバート・マーテル」は本来はもちろん宗教音楽だがもちろん「オラトリオ」の要素もある。しかし歌手はオケ・ピットで歌わせたきりで舞台では多分バレエのメンバーと見られる人々に地味なパントマイムをさせていた。面白くもあるがあくまでもこれはオペラではなくてカンタータ「結婚」などのバレエの範疇に入る。即席で本来のオペラではないので客の入りはもちろん悪い。入場率は20%を切ったと思われる。オケは5・5・3・3・1の弦とオルガン兼チェンバロ。古風にヴィブラートは無し。しかし歌手は自前のオペラ歌手を使ったので、力で押すため微妙な歌詞のニュアンスに欠ける。本来オペラ・ハウスには何でもあるはずだが、ここにどうしても肥えられない壁ができる。「奥様になった女中」風のモティーフと展開も出て来て、この作曲家の語法が良くわかる。
休憩の後はそのストラヴィンスキーだが生は始めてみる。よりによってドイツの金管なので渋くその分華やかしさは無くなる。和音のはもりかたも大体で完璧・正確ではない。3管編成なのだがコントラバスが三つというのは不安を誘ったが、ちゃんと6人分の音を出していたので合格点。合唱はもちろん暗譜が間に合わないので椅子に座って譜面を見ながらの演奏。半分は演奏会形式などで3人のソリストと一人の語り手だけが暗譜と暗記で演ずる。
このプロダクションは対照性を出した組み合わせはイエス、選曲はノーと言った所か?オペラでない宗教曲のペルゴレージが地味すぎる。更に十年セツの曲なので季節的にも違和感がある。自分だったらこの前ここのヤクルトホールで聴いた「夜鳴き鶯」か、彼ももう一つのオペラ「マヴラ」と組み合わせたい。前者はごく最近までレパートリーだったので舞台装置を大きくするだけで室内管弦楽編曲ですぐできる。後者は譜面そのものが単純で演奏時間も短いので負担はかからないと思う。時間がなければ全て半舞台形式でやるだけのことなので難しくはないと思う。
菅野茂
オランダのニュー・アンサンブルのエリオット・カ‐ター生誕100年記念コンサート、12月13日ケル
ケルン放送協会の主催なのだが、今回は場所が無いのか音大の大ホールで開催された。いつものように解説付きのFM生中継。日本と違ってそう言う連携はここはいつでも上手く行く。
今回は例外的に18時からエリオット・カ‐ターの映画が上演される。2004年の策ではあるが,ニューヨークのワールド・トレード・センターが映っているので撮影は2001年より前の事らしい。作曲者の普段の生活からバレンボイムやブーレーズのインダビューを交えてこの作曲家の生涯を紹介するが、アイヴスやコープランドとの関係なども話すので凄く親しみやすい映画となった。何れWDRのTVでも放映して欲しいと思う。この作曲家は無調の作品ではあるが動機展開を並べたりポリフォニックな書法が大半を占めているので、その点でジョージ・クラムよりも更に最もヨーロッパの作風に近い音楽家といえよう。所謂イギリスのバートウイッスルか、ドイツのヘンツェか、日本の三善晃か保守と前衛の中間というそう言う地位にある。だが軽蔑よりも彼の生まれた1908年は世代的に妥当的な様式なのであろう。メシアンの様に極めて雑音を駆使した特殊奏法が少ない作曲家でもある。ブーレーズが彼のスコアの矛盾点を語っているのも面白い。ベルクはその「3つの管弦楽曲」で、「主旋律」をmfで、同時に響く「対旋律」をfで書いていて、自分では矛盾としか思われないから解釈するときには自分はその強弱を交換する。カーターは似た矛盾をやっているので自分はやはりそうするとか、作曲者に直に言っていて、そのとおりだと本人は晩年のシュトックハウゼンのように争わないらしい。
8時からのコンサートはカーターの2004年の「モザイク」でハープ協奏曲のような存在である。特殊奏法はほとんど無い作曲家ではあるがこの作品は例外で地味ではあるがハープのいろいろな肩のこらない音色が楽しめた。
2番と3番目のホリガーの1993年の「二つの為の三つ」とクルタークの1998年の「カーターへの思い出」はそれぞれこの作曲家に捧げられた小品。
4番目はカーターの1990年の「Con・Legerezza・Pensosa」は三重奏曲。難解なのか指揮者が付く。
5番目は1998年の「テンポとテンポたち」で歌詞はイタリア語。どうも歌手の声量が無い。現代音楽をやるのはいつも声をこわした声楽家が圧倒的に多いのが残念だ。
ここで休息があって後半はこれとは関係ないロベルト・H・P・プラッツの2008年に作曲したアルトフルート独唱曲の委嘱初演。昔ダルムシュッタトの講師時代の尊敬すべきだがちっとも面白くない単純形式を脱却した改心の新作といいたいところだが、出てきたのはダルムシュタットの受講生の音だし会のような陳腐な曲でいつもの大絶望。やはり教授の地位の待遇が良すぎるのか?
次はカーターに戻って2001年のオーボエ四重奏曲。やはり指揮者が付く。
最後は1997年の「Liomen」でやはりハープの特殊奏法の研究の後が見える。この人は90歳越えてからの作品数が全体の3分の1以上を占めているらしい。ここ最近作曲活動が衰えるどころかどんどん活発になってきているらしく、呆ける暇がないのがこの作曲家で、常に奏法などの研究も欠かさないらしい。この100歳のアクティヴ性に心からの喝采をしたい。