沖縄その3:沖縄諸島の信仰世界について。ニライカナイ、御嶽など編。 | 白樺嵐山のブログ

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旅・散歩で気になることをなんとなく「学び」に繋げていくためのブログです。

前回の続きから。
みっつめ、沖縄諸島の宗教観あるいは世界観について。

 

 

沖縄を感じる海の景観

 

これらアニミズム・祖先崇拝を基礎とする信仰体系は、一般的には「琉球神道」の語でもって呼称されています。

17世紀初頭、琉球王国に滞在していた陸奥国の僧侶・袋中大徳が記した『琉球神道記』以来、後述の日琉同祖論の文脈の中で、それぞれの宗教観念を相対化する際の慣用句として用いられてきました。

折口信夫は「琉球の神道」冒頭にて、琉球神道は日本本土の神道の一分派あるいは過渡期の性格を示すものであり、組織立った巫女教時代の姿を現に保つものであると断っています。

古くは本邦室町期の『樵談治要』、また折口自身の「水の女」論からも見えるように、古代に遡るほど巫女の力が強いという見方があることも鑑みるに、琉球王府による封建支配のもと聞得大君を主宰者とするノロ祭祀体制が存した琉球神道は、その典型であったことでしょう。

 

個人的には、内地の「神道」とは抱合する概念の範囲とその前提が大きく異なるという点で注意が必要であるとは感じつつ…

「沖縄諸島における信仰・世界観」を説明するための伝統的かつ便利な単語であるので、これ以降も使っていきます。

 

那覇泊港


近代的な沖縄学の父である伊波普猷は、日琉同祖論の形成に強く影響を与えました。

その名の通り、琉球諸島の文化・民族を大和のそれと同源であると説く考え方。

琉球処分以降、本格的に「日本社会」へと組み込まれた沖縄は、その歴史的・文化的差異と経済的な困窮から、内地の人間からすれば偏見・差別の対象となる恐れがありました。

こうした状況に危機感を抱いた伊波は、沖縄人自身の手で自らのルーツを究明し、その根源を大和民族と同一のところに求めることで同族意識を覚醒させていくという、ある種のイデオロギー的な学説体系を展開しました。

 

とはいえ歴史的にはより古い概念であって、17世紀中葉に編纂された国史『球陽』は琉球王府の祖が源為朝であるとする立場で書かれ、王府自身も江戸幕府との交渉の中で、徳川家と同属である源家王朝由来を創造していたことを伺えます。

あるいは本邦でも新井白石の『南島志』、かの有名な曲亭馬琴『椿説弓張月』にて同種の言論が垣間見えるため、ある程度人口に膾炙していたものであろうと推測できます。

 

 


久米島・兼城の御嶽

前々回ふれたように、第二尚氏・尚真王時代に琉球王府は中世的な封建国家として脱皮し、男性による政治的権威と女性による宗教的権威を分掌する、独自の中央集権体制を確立していきます。

聞得大君を頂点とする王権儀礼の宗教制度は、各集落においては祝女(ノロ)を介する村落共同体の精神的支配に拡張されていく、という経緯ですね。

 

また巫女は、ノロをはじめとする神人(かみんちゅ)ともうひとつ、ユタというシャーマンに大別されます。

前者は神事の際の祭司としての公的領域を。後者は病気平癒や身辺者の口寄せなどの私的領域を管掌。

長くなるので詳細は省きますが。17世紀後期の羽地朝秀の改革以降、ユタは歴史的に弾圧・差別の対象となっており、明確な区別が為されてきました。

今回の現地での聞き取りにおいて、今日においてもノロ・ユタが現存しているということ、二者を区別する意識があるということを知ることができたので、感動。

 

 

すなわち、琉球社会は本来が祭政一致であったうえに、共同体宗教そのものが宗教的支配イデオロギーとして転化。

そんな中で民間の信仰・祭祀に対しても政治的な介入があり、王府主催の神話体系の中に取り込まれていった…

というのは、先日投稿した↓こちら↓の動画にて内地での類例を解説しておりますので、是非ご覧をば。

 



久高島から眺めるニライカナイ

さて、琉球神道の根本にある観念のひとつは、栁田国男や折口信夫が注目してきたニライカナイ思想。

ニライカナイ(ニルヤカナヤ、ギライカナイとも)とは、奄美含む南西諸島において、遥か彼方東方の海上あるいは地底にあるとされる理想郷世界。

そこから年毎に神が訪れて祝福を与えるとか、五穀の種の起源であるとか、豊穣や生命の起源であるとされています。

栁田国男は『海上の道』にて、日本内地との信仰源流が同一である論証としてニライカナイの詳細分析を行っており、それが内地にある常世国思想、すなわち日本神話における根の国に相当するものであるとしています。

一方、対比される天上世界はオボツカクラといわれます。

しかしながら、栁田によるとオボツカクラの天中思想は遅れて登場し、ニライカナイ信仰を押しのけるには足りず、むしろニルヤ信仰の新しいカミ観念への移行を導くのに便利であり完全に分離せずに残ったのであると考えました。

 

 

久米島・具志川城跡 グスクがもとは風葬場だった?

 

折口も同様に、天上の神の国の登場は全能の神を欲するようになってからであると述べます。

さらに、琉球の神々は時々出現する「新降(あらふり)」という点において内地の神々と異なる、という点にも着目しています。

それ即ち折口の中心的な理論である「まれひと」ー共同体外部からの人間に対する歓待と畏怖の精神に、時を定めて来訪する神の存在があると説くー 的な去来神が、後述するアマミキヨを筆頭に琉球神道には屡々登場します。

そうした神々、あるいは鼠に至るまで、定期的に来訪する神霊は人びとへ恩恵と災厄をもたらしていき、一方で、御嶽に祀られる祖先霊や火の神は常在神として人間世界に関わり、集落や日常生活を見守ります。

                                          


 

久米島・真謝の石敢當

 

議論の余地はまだまだありますので、簡単に学説動向をまとめておきましょう。             

ヨーゼフ・クライナーは【常在神‐去来神】を改めて滞在神・来訪神】とに分類し、来訪神の基本的性格は〈あの世とこの世の厳然たる区別〉であって、そこに再生の観念が融合しているものと説きます。

一方で、滞在神の性格は〈世は一つ、この村だけであり、これと異なる他界のことは全然考える必要はない〉ことにあり、それはすなわち土地神的存在であるのだとします。

 

比嘉政夫は沖縄の世界観を社会組織の性格にまで下降させ、ニルヤ信仰が毎年新しく準備され、ヒトもモノも毎年変わることが考えられ祭りが終わると次の年への踊動を祝福して組織を解散する、いわば世代階層的原理に基づく集団に管掌されていると説きます。一方でオボツ信仰は祭上常置であって、生涯不変の成員権と男女司祭者を中核とした系譜意識によって結ばれた集団を基礎にもっていることに注目します。

 

渡名喜島・里御嶽
 

そして人間の霊魂(マブイ)は死後、後世(グショー)であるニライカナイへ送られつつ、一方では村落の近くに留まって子孫を守護するものと考えられました。

沖縄では霊魂存在が強く意識されており、肉体と不即不離の関係にあって自由に遊離脱却する人間守護の霊魂が、外在して多くの肉体に附着しているものと考えられています。

 

「後生」というと仏教的にも聞こえますが…

琉球における仏教は13世紀に伝来して以降、王国の全面的保護のもとで歴史的に一貫して国王長久・国家繁栄を祈願する鎮護国家仏教として展開しており、地域社会にはあまり浸透しませんでした。

内地の本地垂迹説のような複雑な宗教融合が進まず、集落共同体に根付いた、あるいはそれを琉球王府による神話世界に対応させた信仰観が保たれてきました。

海と墓の関係範疇を設定し複合構造論を唱えた伊東幹司は、「遠くはるかな」世界としてまとまっているニライカナイに対し、後世は死後の世界であるがその距離感は多様であると指摘しています。


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久米島・君南風殿内

それでは、その聖地ではどのような「神」が祀られているのか?
ということで最後に、沖縄の人びとの信仰を裏付ける構造物のひとつ、御嶽について。
御嶽、端的に言えば琉球神道の聖地のひとつ。
森あるいは山の神聖なる場所であって、折口曰く天への、海沿いでは海上の小島への拝所に相当します。

 

うちなーんちゅとの会話から察するに、発音は「煮炊き(→↑↓)」と同じ様子。
しかしバス案内に耳を傾けると、「タタキ(↑↓→)」と同じアクセントを取っている場合もあるようでしたので…
どうなんですかね?(未検証・音韻学未履修)

 

 


渡名喜島・集落内の殿

 

御嶽で祀られる神… たとえば『女官御双紙』によると、御日(テダ)の御前御火鉢の御前金の美御すぢの御前の三体が挙げられています。

主宰神は御日の御前であり、ニライカナイ思想にも通じる太陽信仰を基礎として育まれた自然崇拝から生まれたもの。

そして琉球王の称号は「てだか末味添い」あるいは「天加那志」であって、按司の中の王者たる太陽の化現であるのだと正統化が図られました。

 

内地同様のアニミズムよろしく、沖縄では日常生活に関わるあらゆる地物・庶物にみな霊があるとされ、新しい神々が時々生まれてきました。

特にその中でも大切にされているのは、井(カア)の神、家の神、五穀の神、そして祖先の霊など。

もちろん明治以降に建てられた国家神道色の濃い神社においては、いわゆる「日本神話」に登場する神々や御霊が祀られている場合もあります。

 



久米島・真謝の御嶽

さて、折口が指摘するところによると、琉球神道の根本の観念は「おとほし」すなわち遥拝であるといいます。
御嶽と同じく拝所(ヲガン)となる場としては、巫女の家である祝女殿内(ノロトゥンチ)、根所の先祖を・氏神を祀るあしゃぎ、祭事の場である神あしゃぎがあります。

そして御嶽を構成する必要十分要件はふたつ、①神々の象徴である石「いびがなし」と、②神々の存在を示す香炉です。

①は特に、三個の石をもって火の神(ヒヌカン)を象徴されるとされ。この石さえあれば拝所として成立します。

②の香炉とは、儀礼を司る神人たるノロ=女性の附き物と考えられているもの。

神々の来臨する場所こそが香炉のある場所であって、たとえば比較的長い間家を出る者は炉を持っていくともいいます。

 

 

久米島・西銘ノロ殿内
 

典型的な御嶽の観は二種類あるように思いまして、①内地の神社とほぼ同一で鳥居を伴う、②鳥居を欠き小さな祠のみ乃至場所を示す石のみ。

①の場合、まさしく内地式の神社といった見た目であって、本殿や拝殿の形式も近代的な神社といって差支えのない外観。

②の場合、内地でいうお地蔵様の祠や馬頭観音碑を想起させるような小さな構造物、あるいは後述する綺麗な丸石と琉球石灰岩による空間で表現された、どちらかというと「聖地」と換言すべきような外観であります。

折口がいうように、社ある神とない神とが併存するというのは、本来御嶽の社殿が神の在り処を示すものとしての象徴として建てられたのではなく、あくまでも祭儀の必要性から生じたものではないかと推測されます。

 

 


久米島・西銘

御嶽含む沖縄の典型的な集落の配置を考えると、小高い丘陵の傾斜面に位置し、村落の守護神を祀る御嶽がその最後方、これに近接して村落の草分けである根所、分家はその前方に位置します。

仲松弥秀はこれについて、古い村の立地構造には祖先崇拝の観念が反映されていると指摘。

御嶽に人骨を埋葬すること、御嶽と根所の近接からそれが祖先の葬所が本来であって、祖先神の鎮座する地として神聖視するようになった。

祖先神に保護されるかたちで集落が発展していった…という認識が共有されていたといいます。

 

前回の墓の話、そして後述する御嶽の存在の根底にあるのは、言うまでもなく人びとの信仰心。
内地でも祖先崇拝はもちろんありますが、ことに琉球神道においては色濃くそれを嗅ぎ取れる、というわけです。


 

久高島・拝所

琉球神道最高の聖地・久高島では、その全域が拝所であるかのような感覚を覚えました。

沖縄本島からフェリーで20分ほど、久高島は琉球神話における天地開闢の舞台。

内地での諾冉二尊に相当するアマミキヨ・シネリキヨがニライカナイから来臨した土地であって、同じくニライカナイから五穀の種が入った壺が流れ着いた場所でもあります。

今日においても、たとえばフボー御嶽には神人であっても祭祀の日以外の立ち入りができないなど、強烈なタブー意識が垣間見えました。

 

ちなみに五穀とは、現地の方によると、アワ・ムギ・ヒエ・イネ・アズキであるとのこと。

しかしながら島では稲作ができないので、何故ここにイネが入っているのか、その方自身も疑問に感じておられました。

思い当たるのは内地でも屡々見られるようなコメの神聖性…

すなわち、ハレの日の食物であり霊力の象徴であるコメと、ケの食物である雑穀との対比でもって推論すべき内容ではないかと推測されますが…

ここは要検討ですね!

 

 



沖縄本島からニライカナイの方角に久高島を望む丘の上…

ここに座すのは斎場御嶽(せーふぁうたき)、琉球創世神話に登場する七つの御嶽のうち、最もその格が高いとされる御嶽です。

琉球神道の最高神女・聞得大君が直接管理する御嶽であり、またここで、その就任儀礼である「御新下り」の御名付けが行われました。
巨岩や聖樹に囲まれた敷地内には首里城内の施設を模された拝所が配され、宗教的権威を象徴する場として、王権と密接に結びついて整備されたことが窺い知れます。

 

ちなみに、現地のガイドさんへ「ここで祀られている神さまは何ですか?」と尋ねてみたところ…

あくまでも「カミ」であり名前はない、との回答でありました。

 

 

久米島・ミ―フガー 斎場御嶽と同じく女陰の観か?


畢竟私論を述べるとすると、あくまでも斎場御嶽は、王権の宗教的権威に密接に結びついた、高度に儀礼化された拝所であって、ある意味で一般的な御嶽に感じられるような崇拝対象を欠いているように考えます。

今回は特に沖縄の離島にも訪れたため、琉球神道の枠内で思考するにおいても、王府側が擁する神話と、周縁に残存する信仰とは区別して考えるべきであると感じました。

 

これは内地の神社でも出会うような、ふつうの拝殿・本殿の隣に簡素な石碑や祠を見つけた時と同じ感覚…

すなわち地方の神社で祀られるご当地祭神について考える場合と同様に、中央による記録による神話創造が周縁部の民間信仰を包摂していく経緯について、しっかりと意識しておく必要があるのだと感じた次第であります。

 



那覇・識名宮 御嶽が風葬場の痕跡かガマに繋がる

 

そんなわけで以上、長々と外部の観測者による机上の空論を述べてきたわけですが…

やはり重要なのは、当事者である現地の沖縄人たちがどのように信仰世界を有しているのかどうか。
そういうわけですので、いざ現地にて情報収集を行いました。
久米島・渡名喜島・久高島で訪れた食事店や施設、宿泊した民宿にて、厚かましくも地元住民の方々とおしゃべり。
同島に残る習俗や信仰について、直接的なお話を伺ってみましたところ…

 



久高島・ガジュマルのある風景

・ガジュマルの木にはキジムナーが宿り、太鼓の音が聞こえる。木を軽んじた者に火の跡をつける。片目の魚についての話は20年ほど前に聞いたことがある。(久高島)


・妖怪にはマジムンとキジムンがいる。(久高島)
→一般的に【マジムン=妖怪】と解されるが、聞き取りの中では人びとに好意的な霊・悪意的な霊という区別であると感じた。

・近づくとひっくり返されるという大男がいた。(久高島)

→山の霊異に相当するものか?

 

・ノロは先代から途絶えている。世襲はしてはならない。ユタも存在しているが、明らかに軽蔑されている口調であった。なお、斎場御嶽のそれはサクラではないかとのこと。(久高島)

 

・島にはノロもユタもいない。島の祭りは本家筋の神人が行っており閉鎖的なものだったが、現在は若者にも見学の機会を与えている。(渡名喜島)

 

・ノロもユタもふつうにいる。(久米島)

 

・御嶽に興味をもつ若者は少ないが、興味をもつことは人生を豊かにしてくれる。(久米島)

 




首里城 東に斎場御嶽と久高島が見える

 

そういうわけでした。

正直なところ、うちなーぐち(琉球方言)が強くて半分くらいしか発言を聞き取れませんでした…

古老とのおしゃべり、なかなかどうして難しい!

加えて、誘導尋問にならないように情報を引き出すということを意識し過ぎたせいか、思うような回答が得られなかったことが間々ありました。

ウーム、研鑽が必要。


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柳田国男なら『海上の道』を着想しそうな浜
 

以上、沖縄旅行で感じた民俗学を、ゆっくりじっくりと振り返ってみました。

奥深い、沖縄諸島の世界観。

本の世界で理解を深めた(つもり)事物・事象を、改めて現地でのフィールドワークでもって体感するというのは、実に楽しい経験でありました。

しかしながら、どんなに威張ったところで私は在野の素人でありますから、改善すべき箇所はどんどん直していきたいですね!

 

そして改めて、学んだ知識を咀嚼して言語化しまとめるという行為の難しさを、強く強く思い知らされました。

いつものブログ記事を書く5倍くらい時間がかかっています!!

…文章力も上げていきたいですね!!!

 

 

久米島・ヤジヤーガマ

 

それでは、また来年…。

と思っていましたが、6月に出張の予定を確保。

この気分の高まりのまま、再び彼の地へ―――

 

◇この出張の目的は―――!?

 

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*参考文献

・折口信夫「沖縄に存する我が古代信仰の残孽(一)」1924年.

・折口信夫「国文学の発生(第三稿)」1929年.

・折口信夫「琉球の宗教」1923年.

・伊藤幹治「南西諸島における来世観の複合構造序説」1964年.

・伊波普猷『沖縄歴史物語』1947年.

・倉田勇「民俗方位観を探る若干の考察」1968年.

・住谷一彦、ヨーゼフ・クライナー『南西諸島の神観念』1999年.

・谷川健一『常世論』1989年.

・知名定寛『沖縄宗教史の研究』榕樹書林、1994年.

・知名定寛「近世琉球の霊魂観と救済」2015年.

・比嘉政夫「琉球の祭祀と世界観‐〈ニルヤ〉と〈オボツ〉の分析」1968年.

・仲松弥秀『神と村』1975年.

・仲松弥秀『古層の村 沖縄民俗文化論編』1977年.

・宮本常一著、田村善次郎編『日本の葬儀と墓』2017年.

・柳田国男『海上の道』1961年.

・柳田国男『海南小記』1925年.

・ヨーゼフ・クライナー「南西諸島における神観念・他界観の一考察」1967年.

・渡辺欣雄「沖縄の世界観についての一考察-東村平良を中心として-」1971年.