沖縄その2:離島巡りで体感した!民家建築と墓編。 | 白樺嵐山のブログ

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旅・散歩で気になることをなんとなく「学び」に繋げていくためのブログです。

1年ぶりの沖縄旅行で体感した民俗学について、お話します。


 

国際通り(那覇市)

沖縄旅行 私の好きな言葉です。
以前、未知の世界である沖縄へ足を踏み入れた感動をそのままに、いくらかの気付きをご紹介しました。
そしてその疑問を更に1年間溜め込み、今回の沖縄旅行を実行するまでに、10冊ほど本や論文を読み込み、準備を進めておりました。

 


海からみる慶良間諸島

というわけで、少しばかり詳しくなった状態で挑みました、今回の沖縄旅行。

テーマは離島巡り。
沖縄島本島、久米島、渡名喜島、久高島を主に訪れたわけですが、個人的な追及課題としていたのは、民家建築、墓、御嶽、信仰についてです。

原稿を書いているうちにあまりにも分量が多くなり煩雑としてきたので、前後編に分けまして今回は民家建築と墓について。
 

いつか茜ちゃん解説シリーズでも取り上げたいですね!

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渡名喜島で宿泊した民家 厠は別棟

ひとつめ、民家建築の特徴について。
こちらは重要伝統的建造物群保存地区である渡名喜島に色濃く残されています。
台風が毎年のように来襲し人びとの生活に甚大な影響を与えていくものですから、防風・耐風の観点から家屋・屋敷地の設計に様々な工夫が為されてきました。

具体的には以下の点です。

 





・屋敷地を1mほど道路面より下げる
・テーブル珊瑚や珊瑚石灰岩の石垣で屋敷地を囲む
・内石垣との間にフクギ(Gorcinia subulliptica)を植えて防火を兼ねた屋敷林とする

 

写真は渡名喜島のようす。

フクギの屋敷林に囲まれた集落内に、赤瓦葺き・寄棟・平屋の統一的な外観の民家が並んでいます。

平屋建て主屋の屋根が外壁と同じ高さになっているというのが、大変興味深い。

一般的に民家では基礎を一段高くして湿気を防ぐものですが…

渡名喜島では砂質土壌の上に集落が形成され、多雨地帯ながら雨がすぐ地中に浸透するため、このような建築様式が発展したというわけですね。

 

 

 

目隠しになっている、主屋前のヒンプン(渡名喜島ではソーンジャキとも)も特徴的。

宿泊した民家では可愛らしい木立がヒンプンの役割を担い、居住空間と外部空間との境界を演出していました。

 

しかしそれでいて、屋敷地の中から外を眺める分には、全くと言っていいほど閉塞されている感が無いのは驚きでした。

ヒンプンのちょうど裏側、民家主屋前方に設ける庇は雨端と呼ばれ、この下が接客空間になります。

この縁側による空間設計が、共同体内での人びとの繋がりを確かに結びつけるものだと体感したから…かもしれませんね!

 



久米島・兼城の民家

その他にも気になる点として、複合的な寄棟屋根の民家、あるいは寄棟屋根の棟を直接繋ぎ合わせた民家が散見されました。

これは、かつての分棟型民家の特色を残すもの。
分棟型民家とは、居室棟(床張り)と炊事棟(土間床)が別棟で近接する民家。

主に南西諸島、九州中南部、東海地方、房総地方に分布。

時代を経るにつれて接続していく傾向にあり、分棟型(ハナレ)→分棟型(廊下で接続)→掛造型(棟が接続したが屋根が別)→寄棟型(見た目が一緒)となっていきます。

 





宿泊した民泊でもそれは明確であり、炊事棟(現地では「カマバ」と呼称)は居室棟よりも低く、庭と一続きの高さ。

主屋の床高は膝ほどあり、明らかに空間として区別されている様子を体感できます。

ただし、分棟の進行度合いが今回訪問した各地域・家々によってまちまちであったので…

要検証ですね!

 





附属屋として特徴的なのはフール。便所兼豚小屋です。
渡名喜島ではほとんどの家庭で現存していたほか、久米島・久高島でもふつうに目撃。
しかし、今日では全く利用されておらず、あくまでも「遺物」のような扱いを受けていたように感じました、
たとえば、久米島でお世話になった民泊のご主人曰く、戦前までは一般的にあったと聞いているが、現在は衛生上の都合で見られない。
渡名喜島で詳しく解説をいただいた博物館の館長さん曰く、日本復帰後の内地の衛生法に基づいて禁止となったのではないかとのこと。

 


久米島・兼城の民家


久米島・仲原家

また、「沖縄民家」としてすぐに想起されるであろう赤瓦についても考えてみます。
琉球竹の下敷きに雄瓦・雌瓦を重ねていき漆喰で固めた、赤瓦葺きの寄棟造主屋。

渡名喜島では一部コンクリート造りの民家があるものの、ほとんどがそんな統一的な外観をしています。

あるいはコンクリート造りの屋根を赤瓦風の素材で葺いたり、小振りな神社・御嶽の拝殿を赤瓦で葺いたり…。

典型的な「沖縄の民家」を象徴する要素かと思います。

 

 

那覇市立壺屋焼物博物館の展示

しかし、そんな「赤瓦の民家」は ―我々が町家建築や寺社建築に対して抱くイメージほど― 古いものではないのです。
康熙十一年(1672年)に再建された首里城が瓦葺で再建された記録などは古いですが、一方で民家の屋根に赤瓦を葺くことが許されたのは明治二十二年(1889年)であり、「町並み」が形成されたのはもちろんそれ以降のこと。
渡名喜島の館長さんの記憶として、戦後すぐの沖縄本島北部ではほとんどの建物が茅葺であったいうお話を伺ったので、この記述を裏付けます。

 




渡名喜島の風景 絶海の孤島を実感する

もちろん渡名喜島では社会的な理由もありまして、農耕地面積が矮小な同島は周辺離島の中でも相当に貧しく、本島の窯で焼いた瓦を輸入して、更には建物の基礎となる丸太や石灰岩を用意するという金銭的・人的余裕はありませんでした。
そんな「憧れの的」である赤瓦に手が届くようになったのは明治期以降のこと。
北に黒潮を望む渡名喜島はカツオ漁で活況を呈し、経済的に豊かになる世帯が増大。

それ以降漸く赤瓦葺きの民家様式が建てられるようになり、今日に至るとのことなのです。

 

 


竹富島重伝建地区

すなわち「赤瓦家の町並み」は過去に一度も存在せず、住民たちの積極的なアイデンティティ確立のための表象として発明された「伝統」ではないか?
と、ポストコロニアルの民俗学者・人類学者たちに指摘されるかもしれません。
渡名喜島と同じく沖縄県内の離島重伝建である竹富島は、しばし「創られた伝統」を観光産業に転換させた成功例として話題に上がりますが…

 

 


いざ竹富島現地、そして今回の渡名喜島へ赴いてみると、旅行中の気付きあるいは現地の方との関わりの中で、そうした情景が「捏造された」と感じたことはありませんでした。
そもそも私は、伝統や歴史に定数としての価値を求めてはいない立場で、対象社会が跡形もなく変化しようと無から創り出されようと、それもまた現代社会における「文化」であると解釈してきました。
また個人的に、沖縄を扱う外部の民俗学者たちは都市化の変化に伴う村落の変貌に対峙せず、過度に構造主義的な〈自然村〉の幻想を抱いているのではないかと疑問を感じているので…

 

これもまた、歴史の一場面を観測したのだなぁと、満足です。

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那覇市内に現れる巨大な亀甲墓
 

ふたつめ、墓について。
沖縄の墓の様式が内地のそれとは大きく異なることは知られています。
実際に今回の旅行中、ビル群の立ち並ぶ沖縄本島の街なかでも、離島の一集落を見守る小高い丘でもさまざまな場面において、荘厳で個性的で印象深い墓たちと、遭遇。
そんな沖縄の墓について、以下の参考資料、そして琉球王府の陵墓である玉陵の資料館展をもとに簡単な分類を試みます。

 

 


久高島の墓の風景
 

歴史的に、崖の中腹や窪みを利用して遺体を納める洞穴墓が自然に発生、そしてこの洞穴の入口を自然岩で塞ぐ岩陰墓が現れました。
その後墓を被覆するという発想が継承され、人工を含む洞穴の入口を成形された石材で塞ぐ横穴墓である掘抜墓(フィンチャー)が登場。

この掘抜墓の正面屋根を亀甲状に装飾したものが亀甲墓(カーミナクーバカ)、三角屋根となるよう切石で装飾したものが破風墓、士族層は単純に前傾する屋根に簡易化した平葺墓(ヒラフチバー)を用いました。

琉球王府時代は王族・士族層がこうした墓を持つことは原則的に禁止されていたものの、明治期以降は一般大衆が士族に倣い墓を建てるように。

そして現在、本来の洞穴を思わせるような痕跡がない平地であっても破風墓や亀甲墓が建てられるとともに、内地でも見られるような家形墓もふつうにあります。

 

 

久米島の破風墓

 

内地式の墓が増えていることに関して、沖縄では仏教の導入が大衆に及んでいなかったことを鑑みるに、戦後になってから火葬が普及したこと、人口増加と共に土地が不足していることなどが理由化とは思いますが…

どうなんですかね?(未確認・未検証)
 

 

久米島の破風墓

墓の外観についてはこの通りですが、しかし沖縄の元来の葬法とは(他地域の原始的な葬法として広くみられるように)風葬であって、遺体を洞穴や崖にそのまま安置し風化させるというのが主流でありました。
すなわち風葬(一次葬)から洗骨改葬(二次葬)という転換があり、上記二次葬類型の墓内部には、遺骨を納める厨子甕を置いておくための空間があります。

また、玉陵もそうですが、基本的には個人墓ではなく門中墓(=一族の墓)であって、厨子甕は同じ墓の中に複数並びます。

 

 

久米島の亀甲墓 破風墓裏の森の傾斜を使っている

 

さて、下記宮本の参考文献によると、沖縄・奄美での風葬は大別してふたつの系統があるとのこと。

 

①グショーなどと呼ばれる特定の洞窟や山林に蓮に包むとか棺に入れるとかした遺体を安置して風化させ、白骨化した後に洗骨して村墓と呼ばれる共同の納骨所に納める

②亀甲墓や破風墓の中に棺を一定期間安置した後に洗骨を行い、厨子甕に入れて納骨所に納める こちらが主流


端的に換言すると、風葬を行う場が洞穴・岩陰なのか、あるいは埋葬場を兼ねる、あるいは近似する存在である共同墓なのかによる違いであるといえます。

 

渡名喜島の共同墓 藪の中に細長い石造りの構造物が残る


渡名喜島で伺った話では、かつて集落外れに共同墓があり、遺体を棺桶に入れそこで風葬にする。
七年後に浜で洗骨し(海水でではなく泡盛で)、甕に入れ改めて墓へ納めるとのことです。

沖縄先史時代の葬法を大別すると①崖葬墓②埋葬墓となることを踏まえれば、時代を経て両形態が接近したわけですね。
 

ただし、渡名喜島では風葬自体がもう行われていないという証言、かつての共同墓と推定される場所が埋もれていたこと、偶然遭遇した旧暦の墓参りの場面で「沖縄らしい」外観の門中墓へ参っていた様子を確認。

我々がいまこうして生きているうちに…墓の在り方も変わっていきそうですね!

 

那覇市立壺屋焼物博物館の展示

 

前述のように、風葬させた遺骨は厨子甕(ジーシガミ)に納めます。

火葬では焼却した遺体が小さくなりますが、厨子甕の場合は人骨が砕けることなくそのまま残るため、比較してそのサイズは大きくなります。
1500年前後に王族などの間で木製の厨子や輝緑岩製の石厨子が、その後は石灰岩製の石厨子が登場し、17世紀ころから陶器製の厨子が一般となっていきます。
さらに時代が経つと飾りつけや色彩が派手になっていき、屋根付きで意匠を凝らしたものまでさまざま。

 



さて、現代ではあまり聞きなれない単語である風葬。
現実感のない葬法ではありますが、久米島にて偶然実例を発見できましたのでその様子をご報告。
こちらは久米島最大の鍾乳洞であるヤジヤーガマ。
鍾乳洞を目指し陥没ドリーネを下っていると、洞窟の開口部に大量の厨子甕、そしてそこに収められた白骨を目にすることができます。

 

 



現実感のない光景です。
陶器製の厨子甕がとその中にある白骨が、鍾乳洞という異質空間の中にさらなる存在感をもって顕現しています。
綺麗な甕もあれば割れている甕もあり、将又裸でさらされている骨もあります。
厨子甕があることから、風葬場そのものというより岩陰墓類型の埋葬場であったと同定できます。




 

鍾乳洞内部は照明皆無で文字通りの暗闇、観光地化されておらずむしろ聖域といった雰囲気すら漂う洞窟を通り抜けた開口部には、入口の案内板にて「風葬場」とあった場所に到着。
石灰岩積みの上には甕と白骨が散乱する一方、その裏にはちょうど頭骨を含む一人分の遺骨が。
まさにこの場に遺体を置いていたのでしょう。
 

 


 

現状としてこれだけの量の遺骨が晒されていたため、風葬の存在を信じざるを得なくなりました。
まァ、白骨遺骸を見る経験なんて先ず無いものですから…感動と恐怖がごちゃ混ぜになった複雑な心情。
しかしそれと同じくらい、葬制について疑問が湧出…!

というわけで件の玉陵にて詳しい方にお話を伺ったところ、沖縄県立博物館の出版物を参考にされつつ、しばし問答しました。

 

 

原初の破風墓である玉陵(那覇市)


・単純な風葬から洗骨改葬へ移り変わったのはいつ
→定説がなくわからない。甕の様式には時代の変遷があるためある程度は推定できるが、古くなった甕を入れ替える場合もあるので正確な特定は難しい。


・久米島で風葬場の実例を見たが?
→おそらく現役ではなく、先祖の墓かあるいは無縁墓となっているのでは。

 

・厨子甕には仏教の影響がある?琉球王府は仏教をあくまでも鎮護国家の手段として上流層が独占していたと思うが?
→目下調査中。逆に言えばあなたの主張は、仏教がどの程度普及して「いなかった」かの材料にはならないかもしれない。展示室にあるのは首里周辺の士族層のモノで、庶民のものがるとすればそれらの人びととの交流があった「仏教かぶれ」か。
 

・ミルク神はどう思う?
→どこかの段階で仏教の弥勒信仰が導入された可能性はもちろんある。個人的には、あくまでも「ミルク」であって「ミロク」ではないことも重要かと思う。

 





ということでしたので。

理解が深まったのは事実であり、大変ありがたい。

しかしながら畢竟、こうしてそれなりに学んだつもりでいても、いざフィールドワークをしてみた途端、新たにわからないことが無限に出てきて更にまたわからなくなり、自分の知識さえも信じられなくなってしまう…ということもわかりました。

 

旅は道連れ世は情けではあるが、準備して旅を臨み多くを望むというのも、最良の選択肢ではないのかもしれない。
どのような態度で旅に臨むべきなのか、改めて考えさせられる良い機会となりました。

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渡名喜島の屋敷林

 


久米島・奥武島の海

以上、沖縄を特徴づける景観の一要素、民家建築と墓について考察してみました。
私なりに解釈を頑張ってみたつもりではありますが、それでも、沖縄病を発症しつつある素人が妄想込みで書いた落書きに過ぎないモノなので…
あくまでも、参考にしていただければと思います。


そういうわけで次回、御嶽&信仰編へ続きます。乞うご期待。


久高島の聖地へと続く道

渡名喜島の砂の上の道

それと…
衒学的な態度でもって博物館スタッフさんに話しかけるのは、やめようね!
(迷惑な客だなぁ…)と思われないよう、担い手の皆さんに感謝して、生きようね!

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*参考文献
・小田克「「伝統の創出」としての門中化」1996年
・折口信夫「沖縄に存する我が古代信仰の残孽(一)」1924年.

・折口信夫「国文学の発生(第三稿)」1929年.
・折口信夫「琉球の宗教」1923年.
・苅谷勇雅・西村幸夫編『日本の町並み 上巻・下巻』2016年
・小松和彦、関一敏編『新しい民俗学へ』2002年.
・知名定寛『沖縄宗教史の研究』榕樹書林、1994年.
・鳥越晧之「地域社会の再編と再生」1983年
・福田珠己「赤瓦は何を語るか‐沖縄県八重山諸島竹富島における町並み保存運動」1996年.
・藤岡和佳「村落の歴史的環境保全施策」2001年

・日本民俗建築学会編『民家を知る旅 日本の民家見どころ案内』2020年.
・光井渉、太記祐一著『建築と都市の歴史』2013年.

・宮本常一著、田村善次郎編『日本の葬儀と墓』2017年
・柳田国男『海南小記』1925年.
・柳田国男『海上の道』1961年.
・Eric Hobsbawm, Terrence Ranger "The Invention of Tradition" 1983.