今日は午後からどうしても外せない用事が有ったのですが・・・
午前中は空いていたので早起きすると新潟県新発田市赤沢にある
日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道廃線跡のスノ-シェッド散策に出かけてきました
場所はココ。
会津若松から磐越自動車道(越後街道)を抜けて新潟県に入るのは初めてです
郡山ICから乗って津川ICで降りると県道新発田津川線で赤谷に出て、更に加治川ダム方面へ
冬期通行止めになるゲート。
スノーシェッド補修のため、月~土まで8:45~16:30は通行止め(お昼1時間は除く)
この時点で6:30・・・急がなきゃ
スノーシェッドとは道路や線路を雪崩や落石、土砂崩れから守る隧道状の覆いのことですか。
洞門とか覆道とか雪覆工とか言いますね。
この道路は赤谷鉱山専用鉄道の廃線跡でこのコンクリート構造物は昭和初期の産業遺跡ですか。
取りあえず車で加治川治水ダムまで登りました。
巨大なコンクリート構造物
私自身はダムはそれほど萌えませんね
なんでも加治川治水ダムは(多目的ではなく)治水(目的オンリー)ダムとすれば日本最大らしい。
何だか勿体ない気がするのは貧乏性だからか・・・
通常は貯水しないため水面が低い
ボートを降ろすダビット。
水面が低いのでこれに乗って降りるのは怖い
キリギリスが沢山いました
もうすぐ冬ですが・・・バイオリン持ってないじゃん
ここは飯豊連邦の新潟県側の登山口の一つ。
車を駐車場に止めて登山準備される方々も多かった。
今日は天候悪いのになぁ・・・
ダムから下流側を望むと・・・開けてます。
ここらにかつて赤谷鉄山という鉄鉱石を採掘する鉱山があったそうです。
国内で鉄鉱石が取れる鉱山は貴重で昭和戦前~戦中期にかけて賑わったとのこと。
ここから下りながら適宜、車を降りていろいろ散策
飯豊川を渡る赤谷鉱山専用鉄道の鉄橋あり。
プラットトラス構造ですね。
廃線後はこの鉄橋を人が渡っていたそうですが、現在では老朽化のため放置。
撤去するだけでも大変そうですから。
全部で4つあるスノーシェッドのうち、最も上流側に有るヤツ。
短いですね
支柱はかなり傷んでます
下流側から3つ目(上流側から二つ目)のヤツ。
見ての通り対面通行できないので信号機があります。
なお、周囲にはケモノ臭が漂っていて何だか嫌な感じ
クマもいるし、ニホンカモシカやニホンザルさんもいますからなぁ
補修工事してます。
ここも豪雪地帯で過酷な環境なのでメンテナンスしないとアッという間に壊れちゃうんだろな。
下から二つ目のヤツ。
何か荘厳な感覚すら覚えるコンクリート構造物です。
アーチ状の天井が・・・ゴチック様式の教会みたいだ
最も下流側にあるスノーシェッド。
鉄筋って錆びると膨張するので、鉄筋コンクリートってコンクリートが剥落して中性化が進行すると
(鉄筋が錆びてコンクリートが崩壊して)構造物とすればお終いになっちまいます。
この部分の補修は今年やるのか来年に持ち越すのか
山側に向かって「謎のトンネル」が多数あり
これもそう。
中には鉄柵があり入れないようになってます。
スノーシェッドから少し下流側に開いてあるトンネル。
ココは鉄柵が開いていて中に入れそう
内部は異様な雰囲気でとてもじゃないけど1人じゃ入れない
赤谷鉱山専用鉄道はこのような覆道を備えても厳冬期は積雪のため運行不能になったとのこと。
戦後になって長い隧道を掘って鉱山と麓を直結して電気機関車でトロッコ運行したそう。
この「謎のトンネル」はこの隧道のための施設(空気穴)なんだろうと察します。
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国鉄赤谷線の廃線跡も少し散策
新発田駅~東赤谷駅を結ぶ、鉄鉱石輸送を主目的として開通したローカル線。
赤谷鉱山専用鉄道は東赤谷駅から赤谷鉄山を結ぶ鉱山鉄道だったと。
ここらが国鉄赤谷線の終点東赤谷駅があった場所・・・らしい。
終点がスイッチバックという国鉄でも希有な駅だったとのこと。
バス停跡(現在ではバスも廃線)の休憩所が唯一の駅があった痕跡でしょうか
国土地理院の古い航空写真を眺めると・・・
この写真の右側には鉄道の広大なヤードがあって、
左側は鉱山事務所や作業員の宿舎らしき長屋が建ち並び、それはそれは賑わっていた様子。
現在では全くの夢の跡です
これが終点東赤谷駅から1駅手前の赤谷駅駅舎跡。
地域の公民館になっているようですがよくぞ残ってたな
こちらが線路側ですがホームの痕跡はなくなってます。
赤谷駅周辺には鉄橋と橋台が赤谷線廃線跡として残ってました
んで鉄橋の脇に1868年(慶応四年)の戊辰戦争における会津藩士の戦死碑あり。
合掌(-人-)
現在のココは日本海に近い完全に新潟県ですが・・・江戸時代までは会津藩の領域だったんですね現在では福島県でもローカル都市扱いの会津ですが・・・かつては強大な勢力だったんだな。
会津藩・新発田藩の国境近い、ここで会津藩と西軍(薩長、広島藩・金沢藩)+新発田藩の
会戦が行われたとのこと。
新発田藩ってさ、周囲を会津藩・長岡藩・米沢藩・庄内藩といった
「バリバリ奥羽越列藩同盟の雄」に取り囲まれてやむを得ず列藩同盟に加わりながら
ノラリクラリと交わしていち早く新政府軍(西軍)に寝返ります。
新発田藩士や領民達が一丸となって「戦いに巻き込まれない」ように工作する様は
ある意味アッパレですが、列藩同盟側に取っては明らかに裏切りであり、
明治時代になってから深刻な地域対立を引き起こしたそう。
やっぱし遠くの敵よりも隣の裏切り者の方が許せないってのは
素朴な感情でもありますからな