今回の福島紀行では東北本線の松川と奥羽本線の庭坂にも寄り道いたしました。
松川は・・・知っている人は知っているでしょうけど、松川事件が起こった場所ですね。
終戦直後の1949年(昭和二十四年)8月のこと・・・
当時の日本は占領軍(GHQ)の占領下にあり、国家としての主権は制限されている状態。
戦争の痛手がまだ生々しく残っており、人々は貧しく、人心は乱れ、
古い価値観と新しい価値観が混在して様々な混乱が生じていた。
特に日本共産党指導による労働運動が非常に活発であり、
明日にも日本に革命が起きるのではないかと大真面目に考えられていた時代背景。
特に国鉄(現JR)において大量人員整理(有り体に言えば馘首)が行われたことにより、
質量共に最も先鋭な労使対立が生じたのですが・・・
その状況において、現在でも未解決な国鉄三大ミステリー事件が起こりますが、
その一つが東北本線松川~金谷川間に発生した松川事件という列車転覆事故。
カーフにおいて軌条の継目板や犬釘が抜き取られ、軌条そのものが10m以上移動せしめた結果、
SLが脱線転覆し、乗務員が3人殉職しました。
はの赤丸印が松川事件が起こった場所。
なお、昭和二十四年当時の東北本線は(上図の)下り線のみの単線でした。
JR東北本線を跨ぐ高架橋の上から眺めた犯行現場。
左手のカーブが列車が脱線転覆した場所。
右手にあるのが「松川の塔」
なお、この場所から直接現場に降りることは出来ません
ぐるりと遠回りして石合踏切を渡ります。
「大型トレーラーは通行に注意」なる標識が見えますが、大型車がこの踏切を通れるんけ
ちょうどJR貨物のEH500が通過中
そもそも東北本線の坂路を走るために開発されたのがEH500だもんね。
砂利道の奥が松川事件の犯行現場。
この右手側の拡幅に車を置いて歩いて現場を散策するのが好手ですね。
私はズカズカと自家用車で入り込みましたが・・・悪手でした
松川事件で検索すると転覆したC51の画像が出てきますが・・・この地点だと思われます。
線路に向かって慰霊塔とお地蔵様が建っています。
合掌(-人-)
側に東日本旅客鉄道労働組合(JR東労組)の「謀略 忘れまじ松川事件」の石碑あり。
国家権力と共に権力に迎合するマスコミに対しても激しく糾弾し、
また『共産党の「九月革命説」は権力側に利用された。』と日本共産党にも辛辣な立場ですなぁ
そっか・・・国鉄時代「鬼の動労」で有名だった松崎明氏は、JR東労組の会長だったんだなぁ
田んぼには水を張っていましたが、農家の人たちは皆無で私ひとり・・・
地元の人たちに迷惑は掛けられませんからね。
この狭い道に車を入れて酷い目に遭いました
軽トラしか入れない道だったんですねぇ
松川の塔
警察のフレームアップにより不当逮捕され死刑宣告を受けるものの、その後杜撰な捜査が明らかとなり
無罪となった国鉄(現JR)や東芝松川(現北芝電機)の労働者を記念した「人民勝利の記念塔」
この地点まで車で入れないのが致命的だなぁ
直ぐ近くまで松川ニュータウンの住宅街が迫っていますが、
ここは外界から隔絶された谷間で、確かに「謀略」を行うにはもってこいの場所。
この場所は昭和20年代の風景のままだと察します。
これは凄いぞ
重さ1t近くの軌条を13m移動させたということは、多数の共犯者がいたことになるけど、
共犯者が多いほど犯行の秘匿は困難になる。
現在まで(恐らく未来永劫)未解決なのは不思議だと感じます。
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んで、松川事件の1年前の1948年(昭和二十三年)に同様の列車妨害転覆事件が
奥羽本線で起きていまして、その関連性が検討されているのが・・・庭坂事件です。
この赤丸印の急カープが犯行現場。
県営あづま球場近くなので寄り道しました。
「殉職之碑は此の奥」の石碑あり。
殉職之碑 合掌(-人-)
この事件も未解決で終わっています。
土手の上の線路から継板目のボルトや犬釘が引き抜かれSLが脱線転覆し
当時水田だったこの場所で横転したそうです。
3人の国鉄職員が殉職。
庭坂事件は松川事件の予行演習では無いか(同一犯の犯行)という見解もありますが、
この犯行現場は築堤の上の目立つ場所で有り、松川事件の谷間とは全く違う。
現場を訪れた第一感から庭坂事件の犯行は単独犯だと私は感じますがどうでしょうか
ただしこの事件が未解決だからこそ、その後模倣犯が次々と現れることとなったと。
軌条の継目板や犬釘を抜くことはそれほど難しいことではない。
でも電車や列車が高速で脱線転覆すると怪我人は必至だし、止めて欲しいよなぁ