振りかかる雨 振り返るとき   前篇 | 風紋

風紋

鋼の錬金術師ファンの雑文ブログ



  リンとランファンに愛が偏っています

 見知らぬ街を歩くうち、いつの間にか何かに追いかけられていて必死
で逃げるのにいつまでたっても同じような街並みから抜け出せない、そん
な夢を時折見る。
 それが何なのかはわからない。ただひたひたと、いやそんな音すらし
ないのに、気づけばその嫌な気配がどろりとした煮凝りのように固まり
実体化してじっと背後から圧迫を伝えてくるのだ。
 振りかえってはならない。なぜかそれだけはわかる。
自分の歩みに重なってついてくる背後からの気配はどんなに足を早めて
も振り切れず、駆け出してしまえばもう気のせいで済まされなくなるの
に止められない。もつれる足に喉が干上がり、荒い息のなか見る景色が
どこまで行っても変わらないことに気づいて絶望的になった時、突然足
元が崩れておちてゆく・・・
 必ずそこで目覚めるのだ。


 ああまたかと思う程度には慣れたが、この夢を見たあとはいつも奇妙
な焦燥感に駆られてわけもなく苛立つ。
 最近になってやっと、何らかの焦燥を感じているがゆえにこの夢が出
てくるのだと、そう理解できるようになっていたのだが


―――それが夢でなく現実に現れるとは。



「バカ野郎。」
 おとなしく隠遁の暮らしを続け、この国でひっそり老いて死ぬことだ
って出来ただろうに、偶然見つけただけのあんなバケモノを飼って
『力を手に入れた。』などと。

「真に力ある者はそれを誇示したりしないんだよ、クーロン。」


 愛刀の刀身が小さく鳴って、過去からよみがえり現れた災禍はやっと
息の根を止めた。
 こうしておけばよかったのだ、五年前に。
 今頃になって昔の自分の愚かさ弱さを見過ごしてきたツケを払うとは
思わなかったが、『力が欲しい』という願いを叶えるものを求めていれば
いつか奴の影にあたるのは当然だったのだ。


 クーロン。奴はちっとも変わっちゃいなかった。太歳を手に入れたこと
で身の丈にあわぬ野望を抱き、周囲に破滅を及ぼした。
五年前シンで犯した過ちと同じことを飽きもせず繰り返して。
 こいつさえいなければこのウエルズという町の者が太歳に食われること
もなかっただろうに。


―――俺のせいなのか。


 考えてもどうにもならぬ自責など要らぬのに捨てきれない。
 俺がエルリック兄弟に付いてこの町に現れなければクーロンは太歳をこ
れほどまでに暴走させることはなかったのではないか。
『見せてやるよ。これが力だ。』
赤錆の色をした巨大な肉塊の触手となった太歳にエルリック兄弟やラン
ファンを襲わせたのは示威だけではなかったはずだ。俺から仲間や臣下を
切り離して、また俺を自分の力のもとに従わせようとしたあの時の奴の顔
に浮かんだのは、歓喜そのものだった。
俺を操れることへの歓喜。そんなもの、反吐が出る。

 奴の掌で踊ることなどまっぴらだというのに、なぜまたここで巡り合っ
たりしたのだろう。
 シンを出てこの国に来ることは広い世界に飛び出すことだと意気込んで
いたのに、俺はただ運命の歯車のまわるまま過去の因縁に呼び寄せられて
いただけなのかもしれない。


 まだ俺は自分の力で道を切り拓くことすらできないのか。
 俺の意思は俺の運命を変えられないのか。


 夢に出てくる実体のわからない化け物はただの粘菌となって地面に倒れ、
それを操ったつもりで操られていた男は土塊と変わらぬ無様な姿になり果
て死んだが、まだ俺のなかの焦燥はじりじりとくすぶり続けている。


―――俺はこの男を超えられたのか。


 答えるものはない。






―――今日の若は何か違う。


 ランファンは護衛として仕える主、リンが静かな不穏を抱えていること
を感じていた。


 最初は自分の感覚が戻っていないのかと思ったが違うようだ。
 自分が太歳というバケモノの使役者であるメイベルという少女の分裂した
魂に乗っ取られていたと知ったのは、エルリック兄弟と瓦礫の崩れるなかを
走って若のもとに駆け寄ったときだ。
 なぜ若はこんなに苦しそうにしておられるのか。
 そう思ったときに、自分の直前の記憶と現在が繋がらないことにめまいが
した。若の足元に自分とエルリック兄弟を締め上げたバケモノの残骸がある
ことでやっと状況が把握できた。若は一人でこのバケモノと対峙したのだ。
「若!」
「戻ったか、ランファン。」
 そう言って笑った若の顔がどこか固く見えたのは、私の何時いかなるとき
もお守りするという使命を守りきれなかった心の呵責のせいだけではなかっ
たのだろう。


 その後、ウエルズという街からセントラルへ戻る道中では相変わらずエル
リック兄弟を相手に軽口を飛ばして快活に笑っておりその後の食事どきも
いつものように旺盛な食欲を見せていたが、若はどこかに空ろな気配を漂わ
せていた。
 太歳を葬るための闘いで地面に打ちつけられて肘を痛めたと仰っていたの
でそのせいかと最初は思っていたが、痛みに気をとられているわけではなさ
そうだ。


―――いや、痛んでいるのだ、心が。


 幼い頃から皇子という生まれゆえ命を狙われるのは日常茶飯事で、手ずか
ら敵対する者の命を奪うことも多く、そのことに痛痒を感じる時期はとうに
すぎたと自ら語ったこともある主だ。
 しかし今日主が葬った太歳は、クーロン―――自らの教育係で兄のように
慕った男―――でもあったのだ。


 もどかしい。
 自分がその男のことをろくに知らないという事実がランファンの心を重く
曇らせる。


 護衛の孫娘として多くを宮中で過ごし、リンのことを主というより弟の
ように世話をやきながら一緒に育ってきたランファンだが、ある時から皇子
と共にあるべきでないと遠ざけられた。
 クーロンはその時期を象徴する男だった。

 その後クーロンは主とヤオ族に消えない汚点を残したが、そんな単純な認
識では測りきれぬ複雑な思いが主にはあるのだろう。
それを理解する材料を持たない自分が歯がゆい。

―――私はどうやって主の心に添えばいいのだろう。






 不穏は時を待って爆発する。


 夕食後に戻ったホテルの部屋の扉を閉めた途端、リンはランファンの前
に立ちふさがり彼女の体を壁に押し付けた。
「お前は本当にランファンか。」
 押し殺した低い声は狩りをする獣の唸りのようでランファンは本能的な
恐怖を感じて身を竦める。
「若、いきなり何をおっしゃるんです?」
 それには答えずリンは彼女の顎をもちあげ覗き込むように目を見つめる。
否、鋭く睨みつけ視線で射すくめる。

「クーロンをとりこんだままの太歳は俺が倒した。太歳の使役者のメイベ
ルはエドが葬って終わった。だが今のお前は本当にもとのランファンか。」
 何を、とおののく。
 こんな風に主から自分の存在の証しを立てよと迫られることは彼女の思
考の範疇にはなかった。
「何をおっしゃるんですか若。私が他の何者だというのです?」

 その答えはリンを満足させるものではなかったらしい。
 鎧の隙間から黒い衣服の襟元ふかく手を入れて、巻いたサラシの上から
乳房を押しつぶさんばかりに掴み、彼は尚も問う。
「お前は俺のランファンか。俺の知らぬ者になりはしないか。」


 乱暴な手つきよりも己の存在を疑うようなその言葉に愕然とし情けなさ
に涙がにじみそうになる。気を読めるリンがそんなことをわざわざ問うほ
ど疑心暗鬼を抱えているなんて。
 そして同じく気を読める自分が、太歳を操れるほどの強力な者だったと
はいえたやすく自己の内部へ他者の侵入を許してしまったことをランファ
ンは悔いた。自分が意識を抑えられている間に主がどんな思いをしたのか、
まるで知らぬまま気づけばすべてが終わっていた今日の自分の役立たずぶ
りに臍を噛む。
 一緒に戦っていたなら、彼の抱えるわだかまりをほんの一部でも私が引
き受けることができたのに。今さら思っても詮無いことと後悔に蓋をし、
ランファンは主に向かって一心に答える。
 「私はリン様にいつまでもお仕えします。変わることなく。」


 強張った声で忠誠を語るランファンの言葉にリンは体を退いて彼女の表
情を見つめた。いつも面をつけている彼女は感情が表に出やすい性質だと
いうことは、主であるリンは一番よく知っているはずだった。
 しかし彼はその答えだけでは気がすまなかったらしい。
 苛立たしげな顔をし、暫く考える様子の後リンは言い放った。
「服を脱ぐんだ。今すぐ。」


 きっぱりとした口調で言われた内容に絶句する。

「・・・命令、ですか。なぜそのような・・・」
「体を見せてくれ。俺の臣下の体を勝手に使われて、しかもその前には
あんな触手に絡め取られたのに、ただ大丈夫と言われても安心できない。
怪我はないか、何も影響はないか。」
「私より若のほうこそお怪我が心配です。痛められたという肘、まだ何も
していないんですから、きちんと手当てをしないと。」
「ランファンの体を見て確かめてからだ。じゃないと俺の手当てなんか
させない。」

 お互いの意地を探るようなにらみ合いが続いた。

 折れるのは自分からしかありえない。今主を苛んでいる不信は私が和
らげて差し上げるしかないのだから。少しの抵抗感はこらえよう。
でも傷の手当ははさせていただかなければ。
 そう決意してランファンは言った。
「わかりました。」


 ランファンは手甲をとり、鎧をはずした。靴を脱ぎ、クナイをしのばせ
る留め具ごとはずして床に置く。爆雷や照明弾までを。いつもは私的な時
間のはじまりを告げるこの作業が今日は名づけることの出来ぬ重苦しさで
彼女の口をつぐませる。


 見つめるリンの目は鋭い。情欲のそれとは違う強さにランファンの胸は
震えた。
 自分ですら分からぬ心の奥底までを見透かすような視線の前で無防備な
姿をさらす心許なさを必死でなだめる。
―――若は私を試している。私が若をどれだけ信じているのかを
測ろうとしている。わかっていただきたい。ならば・・・


 白い帯をほどき、床に落とす。衣擦れの音は黙り込む二人の間に思いが
けぬほど大きく響く。頭巾の布をとり、襟を広げて黒い上衣をはだけ、
ひと息に脱いだ。

 肩が剥き出しになった。腹が外気にふれてきゅっと締まった。
さらしの下で痛いほどに鼓動が胸を打っていた。頬が自分でもわかるほど
カッと熱くなる。
 「これで、いいですか?」
 「まだだ。」
 訊ねる言葉は無情に撥ねかえされる。


 胸に巻いたさらしの布に手をかけて彼女はためらった。
 このまま主の見つめる目の前でこれを解けるだろうか。恥ずかしさに指
先は震えてこわばっている。
 せめてもの気休めに、ランファンはリンに背を向け、かがんでサラシを
巻き取ることにした。胸を抑える布を両手を使い背から前へと交互に畳ん
でいくうち、頼りなさはどんどん増して最後はサラシをとり落としてしま
い、あらわになった乳房を思わず腕で抱えてしまう。なんとか気をとりな
おして、すっかり裸になった上半身に黒い上衣を羽織りなおすと、ランフ
ァンはリンに顔を向けなおし彼の許しを待った。
 リンの首はまだ頷かれない。ランファンは頬を染め唇を噛み締めながら
下半身の衣服までをすべて脱ぎ去った。
 かろうじて肩から脚の付け根までは羽織った上衣に隠れているが、その
下の脚はむきだしのまま、何ひとつ身につけぬ素裸だ。
その黒衣の前を両手で握りしめランファンは主に訴える。

 「若も、脱いで下さい。傷を見ます。」


 きっぱりと言うランファンの声は震えている。声だけではない。
羽織っただけの黒衣の裾からすらりと伸びた脚はかすかに肌を粟立てて震
えている。
「こんな状況で、俺にも脱げと。見るだけじゃ済まなくなることくらい
わかるだろう?」
「承知の上です。見るだけでなく消毒させていただきますから。」
 震えながらもランファンはリンの皮肉めいた口調にもひるまず言い切った。

「そうか。それなら。」
 言うなりリンは自分の手荒く衣服を脱ぎ捨てた。
肘に大きな擦り傷ができている。滲んだ血は土埃と共にすでに固まりかけ
ていてそこここに小さな砂利がめり込んだままだった。
「傷を洗い流さなくては。」
「ああ、そうだな。」


 この先に起こることをはっきり予感しつつも、ランファンはリンを浴室
へと促した。扉の前で灯りのスイッチを入れる。
 瞬間、肩に羽織って前を掴んであわせていただけの黒衣はリンの手によ
って剥ぎとられた。白い裸身があらわになる。
「言ったろ、確かめさせてもらうって。」
 上から下まで目をすがめて一瞥したのちリンは告げた。
「ここで十分お互い気の済むようにしよう。」


 二人はもつれ込むように浴室に入った。
 押し込まれるかたちになったランファンは壁ぎわに追い詰められて背を
打ち、その拍子にシャワーのコックが開いて天井のシャワーヘッドから湯
が迸った。
 ほどけて肩へとおちた黒髪がたちまち濡れそぼってゆく。ランファンの
裸身は白いタイルに囲まれた浴室の明るい照明のなかで内側から輝くよう
な滑らかな艶をたたえていた。その肌を滴が玉になってとめどなくおちていく。


 降り注ぐシャワーの温湯に頭からずぶ濡れになりながら、リンの手はラ
ンファンの身体を隈なく探り続ける。濡れた髪をかきわけるように生え際
をなぞり耳朶を指ではさみ、うなじに唇を這わせて跡の残るほど強く吸っ
た。肩を押さえていた手は腕を掴んで持ち上げ、腋下をさらさせそこに鼻
先を押し付け唇で刺激しランファンに悲鳴をあげさせる。かと思えば、突
然解放し呆然としているところを腰からわき腹へとリンの熱い手は這いあ
がり、胸のふくらみをきつく掴んだ。


「んんっ。・・・んあっ、は、あ・・」
 痛いほど強く掴まれて鬱血するかと思われたところに、こんどはやわやわ
と揉まれると痺れるような感覚が広がって、つめていた息が甘く吐き出さ
れてしまう。顔を濡らしながら息をついていると、まるで泳いでいるとき
のような気分になる。
 いや、泳いでいるというより溺れているのだ。リンと二人刹那的な快楽
に溺れようとしている。


 今日のリンは荒々しく性急で、いつものランファンの反応を愉しむよう
な様子はない。しかし手管も忘れ自分の体に没頭しようとするリンの懸命
さに、ランファンのこんな形での交情を厭う気持ちは次第に薄れてきていた。

 それでも本来の目的は果たそうと、ランファンは荒い愛撫に耐えながら
リンの擦り傷に入り込んでいる細かい砂粒を洗い流す。
流しきれないものを取ろうと傷に口をつけて吸う。手に取るリンのたくまし
い腕の質量に、おそれとも憧れともつかぬ思いが湧いてそうせずにはいら
れなかった。


 受身をとった時に地面に擦ったという傷は浅いが大きい。湯とともに新た
ににじむかすかな血と砂粒が口のなかに溜まったのを漱ぎ、またふたたび
吸うことをランファンは幾度となく繰り返し続けた。

 そんな中でもリンは手を止めない。うなじを撫でる指は耳元へ這い上がり
ふたたび耳朶をもてあそぶ。胸の膨らみを捏ねるように揉み、張りつめた
乳房とその先の切ないほど充血した紅い頂を刺激し続ける。


 肘の傷を清め終わったときにはランファンは、リンの肩に縋らねば立っ
ていられなくなっていた。
 そのまま唇を奪われる。
「あ、はっ、んん・・・」
 狭い浴室のなかでシャワーヘッドから落ちる湯滴は二人を濡らし、絡み
合う唇と舌を潤し続けた。



―――いつかこんな風に滴に顔を濡らし抱き合ったことがある。


 不意に思い出す。


―――あの日もこうしてずぶ濡れになりながら、私はしがみついてくる
若の腕の力強さだけを頼りに震えていた―――








 不穏な風は二日ほど前から続いていたが、突如として降りだした豪雨に

退出することも叶わず、ランファンがその日リンの房に居残っていたのは
偶然だった。


 ようやく皇子らしく振舞いはじめたリンはややもすると十歳のやんちゃ
な男の子らしくとんでもない悪戯をするので、同年代の少年の供よりは、
少し年長で姉のように彼をたしなめることのできるランファンが側につく
ことは黙認されていた。
 膨大なしきたりで成り立っている宮中の仕組みは、決まりはあれどそれ
に伴い抜け道も必ず出来るようになっていて、護衛の孫娘でしかないラン
ファンの存在はそうした「抜け道」扱いだった。
 身の回りの世話をする女官二人と教育係の宦官二人が皇子リンに与えら
れた公的な臣下だった。


 そういった者たちとは別に、皇子たちにはその母たる皇帝の寵妃を擁す
る一族からの家臣がつく。リン・ヤオ皇子の場合は武術とヤオ族に伝わる
各種伝統技能を教えるためという名目でフーが仕えているが、実体は宮中
こそが謀略渦巻く場所であるがゆえの護衛なのだった。公的にはいない者
として、だがそれゆえ完璧に信頼できる私兵として、黒装束を纏った護衛は
目を光らせる。フーとランファンはそういった形でヤオ家に仕える一員だった。
 皇子皇女といった存在は各部族の覇権争いの直接の主権者であるゆえ、
宮中が生存競争の場になるのは必然の帰結なのだ。


 だからその夜起こったことも、痛ましいがありがちなことと思われていた。
のちにクーロンが捕縛される前までは。



 鳥籠に覆いをかけるのを忘れたことに気づいたリンが、側の者を使わず
ランファンを伴ってなおしに行き、房に戻ったときには室内は奇妙な乱雑
さと静けさが占拠していた。
 房の真ん中で老宦官ふたりが首を掻き切られ倒れていた。奥のリンの寝
室に通じる入り口近くには女官が。
 ほんの短い時間に襲撃があったことは間違いなかった。そして狙いはリ
ンであろうことも。争う物音が聞こえなかったのは嵐の音のせいか、余程
手際がよかったのかはわからなかった。



―――そうだ、この敵は全くわからない。一体何人いるのかも、
どこから来たものかも。


 今までにない危機感に背を押されてランファンはリンの手をひき、急い
で房を出た。フーが所用で城下に出ていて今日はいないことがひどく心細
かったが、そんなことを気にしている暇はなかった。
とにかく逃げなければ。

 しかしどこに敵が潜んでいるかわからぬ状況では下手な場所に駆け込む
わけにはいかなかった。仕方なく雨のふきこむ灯火の消えた回廊の隅に隠
れ潜む。そこでランファンは自分の黒い上衣を脱いでリンに被せた。
 せめてこの黒衣で敵の目から逃れさせることが出来れば。
 黒衣の下はしばらく前から巻くようになったサラシだけだったがそんな
ことは気にならなかった。
 ふくらみはじめた胸は自分をリンのいる世界から遠ざけるものでしか
なかったから、それを意識することは止めていた。


―――サラシの白い色と自分の素肌とが闇のなかで目につくなら自分が
囮となればいい。


「リン様。私が合図したらリン様はこれを頭から被ったまま八角堂に
お逃げください。あそこは周囲からまる見えになりますが、敵の来襲も
見切れます。私が時間稼ぎをしますから逃げて潜んで下さい。もし危険
が迫ったなら池へ。」


―――もっと爺様から護衛の術を教わっておけばよかった。
 まだお前には早いと碌な武器を持たせてもらえないのは子どもだから
仕方ないと思わず、もっと頑張っていたなら爆雷を持たせてもらえて
いたかもしれないのに。
 池の真ん中にある八角堂は橋を渡らねば辿り着けないから、爆雷さえ
あればリン様を逃したあと橋を壊して敵を寄せ付けないように出来たのに。

 今さらな後悔を噛み締めているランファンに、リンは泣きそうな声を出
して言い募った。
「いやだ。ランファンが囮になることなんかない。誰かの命を踏み台に
したくないんだ。」
「私の命など惜しくはありません。リン様に生き残ってもらえればそれで
いいのです。」
「死ぬことなんか考えるな。二人で生き残るんだ。」

 リンは被せられた黒衣をランファンに戻そうとする。
ランファンは一歩下がるとリンを見つめ静かに首を横に振った。
 自分のするべきことをしなくてはならない。それはランファンだけで
なくリンも常々教え込まれ実感していることだった。護衛は主君を守る
こと、護衛の献身への最大の報いは主君が健やかな身を保つことだと、
まだ幼いといっていい二人は分かっていた。


 しかし、きっぱり割り切れないこともまた真実だった。
 交わった視線はお互い縋るような切実さで絡み、離れたくないとはっき
り語り合っていた。
 「隠れるなら、こうしていればいい。」
 黒衣を頭から被いたまま、リンはランファンの肩を抱いて彼女の上半身
を包もうとした。
 いくらランファンのほうが少し背が高く黒衣が大きめに作られていても、

ひとり分の衣服の生地では二人の体は包みきれない。
 しかしリンが精一杯自分をも助けようと考えてくれているのはありがた
くて、それを無駄なことと思いたくはなかった。


―――動きがあるまではこのままでいよう。下手に動かないほうがいい。
それに・・・やっぱり心細いもの。


 背後をとられないよう壁を背にしてリンを座らせ、その前を塞ぐように
屈みクナイを構え周囲の様子を窺いながら息を潜めた。
 リンはそのランファンの肩を少しでも黒衣で隠そうと身頃の布を掴んで
彼女の体の前で覆おうとする。
 体の前に廻されたリンの腕は胸のふくらみを抱くようなかたちになった
が、それを咎める気にはならなかった。ただ、固く巻かれたサラシの下の
乳房は締め付けられるようなじんとした痛みに似た感覚を伝えていた。

―――胸が苦しいのは敵の出方がわからないからだ。
 乱れる鼓動をなだめ、ランファンはそう自分に言い聞かせた。




 リンは黒衣でランファンを包もうとした。


―――もっと自分が力を持った大きい男であったなら、ランファンをこんな
危険にさらさずに済むのに。
 

せめて、この無防備な肩を闇に溶ける黒衣で隠してやれればいいのに、
それすらかなわない。
 己の無力さに唇を噛み憤ることでかろうじて死の恐怖に耐えているこ
と、ランファンを守ろうとすることでとり乱しそうな自分を保っている
ことを渦中のリン自身は気づいていなかった。

 刺客の動きは全くわからない。何の物音も気配もしないが本来の目的で
あろう自分の命を奪えぬまま去ったはずもない。思えばいつもの場所に
愛刀がなかった。得物を携える間もなく逃げねばならなかったのだが、
あれはその者

の仕業だったのだろう。丸腰のままで対処しきれるかと思う
と震えが止まらない。


 リンは息詰まるような緊張に耐えかねて、眼の前のランファンの体に廻
した腕に力をこめ、しがみついた。
 自分の体を楯にしてかばってくれるこの少女を失うことだけはしたく
なかった。それをすれば自分の存在が許せなくなるだろう。
 皇帝の寵妃である母の存在は遠く、だからこそこの姉のような少女は
リンの安らぎだった。今も腕のなかにその優しい柔らかい体を感じれば
安心できた。

―――こういうふれあいが許されぬ時期が迫ってきていることは
二人ともわかっていたけれど、口には出さぬままだった―――


 腕のなかでランファンのまだささやかな胸の膨らみがそれでも柔らかく
撓んでいた。幼い興奮とともに泣きたいような気持ちになってリンはラン
ファンの横顔を見つめた。

 吹きこむ風雨で回廊の屋根は役立たずも同然で、ランファンは降りかか
る雨に顔を濡らしながら、端然と周囲を見据え続ける。
青ざめて陶器のように固い顔のなかで、その目だけが恐怖を跳ね返す意思
をもって射抜くような鋭さをたたえていた。
 暗がりのなかで猛禽のようにきらきらと輝く彼女の瞳は今が命の瀬戸際
ということさえ忘れそうになるほど美しかった。


・・・それが最後に見たランファンの顔だった。