赤い灯のともる部屋   前篇 | 風紋

風紋

鋼の錬金術師ファンの雑文ブログ



  リンとランファンに愛が偏っています


 乾いた岩山の谷あいに開けた町は驚くほどにぎわっていた。
機械鎧の街・ラッシュバレー。
義肢の技術で栄えたいわば軍需産業の町なのに、そんな厳めしい印象とはかなり違う。
軍人や憲兵が幅をきかせるアメストリスのほかの地域と違って、技術者と中途退役した流れ者
が多数を占めているからだろうか。
 通りには荒くれた男たちと、ひと癖もふた癖もありそうな職人たちと、その男たちを相手に
宿や食事を提供する威勢のいい女たちであふれていた。
 こんな痩せた土地ではたいした人口は養えまいというシンの常識とは違う原理で
この国は動いているのだとまざまざと感じる。軍事国家は人民の生活を疲弊させる
ものではないかと漠然と考えていたが軍需から拡がった工業の発展はたいしたものだ。
兵站線の確保のために発達した鉄道網が民需のためにもうまく機能しているから、こんな
工業に特化した町が活気づいているわけか。
 鉄鉱石のとれる鉱業の町ならシンにだっていくつもあるが、こんなにぎやかに栄えている
ところなどない。
機械鎧のような最先端の技術があれば、住民はただ山を削り出してその日の糧を得、その
代償に荒れてゆくばかりの山の危険に怯えることはないだろう。


「欲しいな。こんな技術をシンに持ち帰りたいよ。」
町並みを眺めていると我しらずそんな言葉が口をついて出てくる。
「若、今まず求めるべきは今夜の宿です。」
黒衣の老従者・フーが新奇な技術がもたらす町の活力に浮き立つリンの心をぴしゃりと
引き戻すような硬い声で告げた。
「はいはい。」
「宿を決めてから食事に出ればいいのに、そこを待てないのが若の困ったところです。
出遅れてしまったみたいですよ、私たち。」
 同じ黒衣を纏った従者の娘・ランファンはいくぶんか不安げな声でそう追い討ちをかける。


 賢者の石の情報を知っているらしい錬金術師の兄弟に行き会うことができたのはまったく
もって僥倖というほかはないが、まだ彼らはこちらをあまり信用していない。
いささか強引に首都へ向かうという兄弟の旅の連れになることを承知させたのだが、出立は
明日以降になるのは確実だった。この街で宿を確保せねばならなかったが、あえて彼らに
同宿を願い出るのは止めた。
こちらが密入国していることがバレたら、彼らが自分達を憲兵に突き出さないとも限らない
からだ。

 軍事国家は他国民の出入りを監視する目が厳しいのが定石。
アメストリスに入ってからは密入国者として拘束されぬよう、人気のない山奥以外では野宿
はせずに宿を取るようにしている。
しかし事情が事情だから身分証明書のいるような格式のホテルや軍関係の宿泊施設などは
論外で、泊まるところには苦労することが多い。
身元の詮索をしない気安い商人宿のようなところを探しているのだが、この町は意外な
ほど空き部屋のある宿がないのだ。
どうやら機械鎧の業者の会合のようなものが先日から行われているために国内の各地から
職人や商人が集まってきていて宿が満杯らしい。
さっきからどこも予約なしとわかると断られてばかりだ。


駅の裏手にあたる場所のほうまで宿を探して足を伸ばしてみた時だった。
安く空いている宿を探すうち町並みは少々あやしげな雰囲気になって来ていたのだが、
そこに少し凝った細工の飾り窓のある小さな宿屋を見つけた。
さっそくたずねてみると
「ちょっと三人さんは困るね、うちは。」
ここへ来てそんな満室以外の断りの言葉を初めて聞いて少し驚いた。
三人じゃダメ?  だったら二人やひとりならいいのか。


「部屋はあるノ?それならちょっと融通きかせてくれないかナ?」
「いや、うちはお二人さんまでの部屋しかないんだよ。」
 キセルに刻みタバコを詰めるほうに集中してこちらの顔をろくに見もしない白髪まじり
の痩身の男は、宿屋の主人にしては愛想がなかった。
しかし部屋の空きがあるとわかっているのに諦めるのは惜しすぎる。
それはフーも同感だったようで、ぞんざいな口ぶりで断ろうとする宿の
おやじになおも食い下がった。
「狭いのや寝台が足ぬことなぞは構いませヌ。泊まることはできませぬカ。」
「いやあ、そういう話じゃないんだけどね。」

 何か含みのありそうな苦笑まじりの声でそう言う宿のおやじの顔を見ればなんとかなる
のではと思うのに、交渉をやめ礼を言って立ち去ろうとするフーにリンはいぶかしんで
小声で尋ねた。
「ほかを探すのか?」
「いえ、ここで構いませぬ。若が一人で行けば喜んで泊めるはずゆえ。」

 路銀を節約するため部屋をとるときはリンだけが入り、後にフーとランファンをしのび
こませるということは今までも何度かやったことがある。
なるほど、今回もその手でいいということか。

「じゃあ、ここらをひとまわりしてから俺だけ行くよ。それでいいだろ?」
 合点がいったとばかりに勢い込んでそう言うと、フーはなぜか表情を引き締めさらに
声をひそめて耳打ちをする。

「ですが若、余計なことは喋らず、無用の誘いは断るように願いますぞ。」
「無用の誘い?」
「旅先の夜に羽目をはずすというのは、どの国でもよくあること。
ですがそういった誘いに乗るようなことは決してなさらぬよう。」
「それって・・・」
「まあ、あの娘にはあまり聞かせたくない話と言えばお分かりかと。」


 思いきり含みをもたせたその口ぶりは、昔は色悪の異名を取っていたリンの祖父の手綱取り
役だったという(そして引きずられ通しだったという)フーの、普段の固さに似合わぬ世知長
けたところを思い知らされた。

・・・なんかこれじゃ、男同士の内密の話ってやつみたいじゃないか。
思わずランファンのほうを見てしまい、彼女の何事かときょとんとした怪訝な顔にわけもない
罪悪感がわいて咄嗟に目をそらした。
別に何も悪いことをしてるわけではないが、つい後ろめたいような気分になってしまう。

「この先空き部屋が見つかるあてがあるわけじゃなし、ここは少々の不都合には目をつむって
ここに今夜の宿を求めるのが得策でしょう。なに、別に普通の宿と同じに使うこともできよう
というもの。」
不安はあったが、フーのその言葉を信じて行動開始とすることにした。





「さっきはどうモ。あいつらは置いてきたヨ。」
つい先ほど立ち去ったばかりの宿屋のおやじに片手をあげて笑いかけると、こんどは打って
変わって愛想よく迎えられた。
「お、これはさっきの! いやーよかった、わかってるならいいんだ。こっちだって断りたく
はないけど、三人客ってのは一度許すと良からぬ使い方する奴も出てくるからねえ。」
「せっかくだからゆっくりしたいと思ってネ。泊まり、いけるでショ?」
とりあえず当たりさわりのない言葉を口にしてみたが、これがさっきのフーの言う
『無用の誘い』にのることになりはしないかと内心ドキドキして仕方がない。
「若旦那、それで正解。 羽伸ばすんなら使用人は抜きじゃなきゃ。」
・・・俺は若旦那でフーとランファンは使用人か。
まあ、当たらずとも遠からずってところだから、そう見えたんなら否定しなくていいだろう。

「二階の部屋空いてル? 人の出入りが少ないほうが落ち着くからネ。」
本当のところは窓から二人が侵入してもバレないからだ。
「そんなこと気にしなくても、うちは客引きが扉を叩くようなのと違いますから大丈夫です。
筋がいい安心して使える宿というのがウチの売りでね。まあお二階も空いていますから、
そっちにご案内させましょう。では料金は前金でお願いします。」


フーから言われた意味深な言葉の実像はなんとなく予想できていたが、案内された部屋の
中を見てリンの予想は確信に変わった。

密室感を強調するような重々しくも派手なカーテン。
赤いシェードのかかったランプ。
そしてふたつ枕の置かれたなにやら大仰なダブルベッド。
やはりここはそういう宿なのだろう。
極めつけは案内の婆さんが去り際に残したひと言。
「女性を呼ぶならうちの帳場通してくださいよ。いい娘紹介しますから。」
―――ごゆっくり。
ポットのお湯と茶器を置いて下がる婆さんの言葉をあいまいな笑みで受け流しながら、
リンは内心が波立つのを感じていた。


「はあー。アメストリスにもこういう宿があるって聞いてはいたけど、ここでこうして実物
にお目にかかれるとはね。」
さっきの婆さんの口ぶりでも、遊興客じゃないと知れたら泊まれない宿ではないとはわかっ
たが、それまで緊張しっぱなしだったからひとりになれたことが無性に嬉しかった。
リンはあまり物に動じない性質だと周囲にも思われているが、それは半分しか当たっていない。
常にアンテナを張り周囲の動きを認知し予測することで起こる事態に冷静に対処できるのと、
動揺を悟られないように振舞うことが習い性になっているからそう思われているだけなのだ。
やはり異国の知らない文化にいきなり放りこまれたら緊張しないわけがない。
こうしてひとりになったから、やっと気をゆるめられる。

大きなベッドに体を投げ出して寝転がり大きく伸びをすると、ゆっくりと体が沈んでいく感触
に体がほぐれるのがわかった。
砂漠の隊商宿ではベッドと呼ぶにはためらってしまうような粗末な寝床で寝たこともあったし、
それすらなく天幕で野営もした。
どこだったかの宿では部屋に何かの虫がいたらしく、夜中になって痒くて仕方なくなり中庭へ
と避難していたら、フーがそこで即席のハンモックを作ってくれてやっと眠れたなんてことも
あった。そんなのに比べたらここは上等も上等だろう。
入るまではややこしいが、部屋のなかで過ごす分にはこんな宿だって十分使えるかもしれない
な、などと天井を眺めて考える。
第一、これはなかなか貴重な体験じゃないか?

リンは好奇心のままに部屋の検分にかかることにした。
たいして広くはない部屋に大きなダブルベッドと小テーブルにソファまでがあるのでいくらか
息苦しい感じがする。
それともこの圧迫感は自分がどこか気後れしているだけなのだろうか。

入り口近くのドアのむこうは浴室だった。
この値段の宿だと浴室には簡素なシャワーがあるだけのことが多かったが、ここはちゃんとバス
タブを備えているあたり、かなり得をした気分になる。
ソファはやけに座面がひくい上に柔らかく、体が沈みこむような座り心地になっていて二人がけ
にしてはいくらか狭い。
かわりに背もたれが高く、体をあずけて寝そべるような感じになる。
カーテンのかかった窓が二面あった。
ひとつは道路に面したものだが、こちらは角部屋でもないのになぜ?

いぶかしみながらカーテンを開けるとそこにはなんと、鏡があった。
・・・なるほど、ベッドのすぐそばにあるのはそういうわけだったか。
柄にもなく思わず赤くなりながらカーテンを閉じた。
あまり気にしないようにしよう。
こんなものの存在を意識したら落ち着いていられない。
それよりそろそろ二人を入れてやらなくては。


リンが部屋の窓を開け指を鳴らすと、黒衣の人影がふたつ風のように現れ窓枠の上に鎮座した。
「今夜の宿、確保成功! 入って。」
音もなく静かに窓から部屋に入ったフーとランファンは、窓を閉め扉や壁などを見回して危険な
気配を感じないことを確認してからやっと安心したように声を出した。

「首尾はうまくいきましたな。」
「今日はゆっくり体を休められますね。」

臣下たちの安堵したような声を聞くと、こんな宿でも落ち着く場所だったなら、これからも
やっていけそうだなと改めて思った。
フーはここが色事のための宿と承知の上で。
ランファンはこの様子だと何も気付いていないという違いはあるけれど、何にもわずらわされず
休息できるのはありがたい。
明日以降も移動、移動の毎日だろうが、一緒に頑張ればきっと賢者の石にまでたどり着けるだろう。
その手がかりはこの町で掴んだのだし、ここは幸先のよい場所かもしれない。
まずはそれをしっかり辿っていかなければならないのだけれど。


「あの兄弟が俺たちに黙って急にセントラルへ向かうことがないように見張っていないといけな
いな。機械鎧の修理があるから、そんなことはあるまいが用心するに越したことはない。」

頭の隅でわずかに危惧していたことを二人の従者に告げると、
「ええ、ですから我々が交替で監視を致します。」
「若がこの宿の交渉をしている間にランファンにあの兄弟の動向を探らせておきました。」
「先ほどあの兄弟が機械鎧の店を出て、表通りの軍直轄ホテルに投宿したのを確認しています。」
そういったお考えは我々も承知済みとばかりの周到な行動にはいつも感心させられる。

しかし、そう淡々と報告しながらも先程の戦闘で面を壊されたランファンはしきりに服の襟元の
布をひっぱりあげ、少しでも顔を隠そうとしていて落ち着きがない。
それを見たフーは、仕方ないとでもいうように嘆息して言う。
「その様子では、ランファンは休んでいたほうがよかろう。」
「いえ、爺様。休むなんてとんでもないです!」
慌てて首筋を伸ばし凛とした声をあげたランファンだが、それを抑えてフーは言う。
「面がないのを気にして監視がおろそかになってもいけない。今日はもういいだろう。
兄弟の監視は終列車までで充分ゆえあとは儂一人で足りる。」

フーはまだ何か言いたげなランファンにきっぱりとそう告げると向き直り
「若、それでよろしいですかな。」
「あ、 ああ。」
「では、終列車の刻限まであの兄弟のいるホテルの監視をしております。
緊急の動きがありましたらその時は報告に急ぎ戻って参ります。」


ランファンのほうはともかく、若い頃から何度もさまざまな土地への潜入の経験のあるフーは、
この宿が色事をする男女のため部屋を提供する種類のものだと最初から当然わかっていただろう。
そして、俺もそれに気づいて落ち着かないのだということも。
そこにランファンと俺を置いていこうというのか。
いい大人としてはこんな若い男女をひとつ部屋においておくというのは、当然そこで何か起こる
ことを考えに入れないわけがない。
そのうえで自分は何も気づかないことにしますと言うのか。
いいのかこれは?

内心の葛藤をそのまま込めた目をフーに向けると、何もかもわかっているとでも言うような
不思議に静かな顔でうなずかれた。
腹をくくって
「わかった、頼むよ。」
と告げる。

「でも、不急のことでいきなり帰ってこないでくれよ。」
懇願めいた口調が出てしまうあたりが情けないが、かなり必死だ。
取りこみ中に帰ってこられたのでは、俺はともかくランファンが身のおきどころをなくして
かわいそうだろう。
「お互い気まずいですからそれは。ただ本当の緊急時にはご容赦を。」
言わずもがななことをご心配召されるな、とばかりに静かに片頬に笑みを浮かべて老従者は
目で答える。
思わずあははっ、と笑ってごまかすしかなかった。

「では。」
フーは頭を下げ窓へ向かうと、去り際にもう一度こちらにあの一瞥をくれてから風のように
姿を消す。
窓枠を蹴る軽い足音は庇から屋根の上へと続き、すぐに遠ざかっていった。






・・・これってやっぱり気を遣ってくれたんだよな?

フーは余計なことは何も言わないが、俺とランファンのことを自分たちが記憶がさだかになる
以前からよく見て知っている。
いや、俺どころか俺の母のことも、母を皇帝に嫁がせたヤオ族の首長たる俺の祖父のことまでを
一番よく知る人物のひとりだ。
俺がまだ皇帝の継嗣として生き残ることを許されるかも判然としない幼い頃から、一粒種の息子
の遺した孫娘であるランファンを俺の守につけ、彼女と俺に宮中の生存競争に生き残るすべを
教えてくれたのだ。


俺とヤオ族の民の安寧を守ることを第一に考える為に、まだ世の中のことをよくわかっていな
かった俺とランファンが、宮廷の内部の思惑によってそれぞれ学問所と護衛の鍛錬へと引き離さ
れた時、フーはそれを是とした。
それは皇子である俺と、数多いる臣下のうちの一人でしかないランファンとの仲を否定するもの
かと当初はひどく憤慨したものだった。
俺はただ、幼い頃から親しんだ者と仲良くし続けたいだけなのに、と。

お互いの顔すら見ることもかなわぬ長い日々は、はじめは肉親への追慕のようだった思いを恋へ
と変えた。
俺は彼女を求めて焦がれた。
やがて生れ落ちてから干支が一巡する十二の歳を迎えて、俺は宮廷を構成する皇子として改めて
認められ宮女がふたり与えられたが、それは房中術の講義をする太監の指導の一部のような感覚
でしかなかった。
俺は彼女が欲しかった。

フーとランファンを護衛として側近くにおけるようになったのは、十四歳になったときだ。
間もなく一人前の皇族として領地を与えられるだろう時期を待たねば、自分が心から信頼する
者を側におくことすらできないのだと、そのためには力を持たねばならぬのだということを、
この頃には俺も痛いほど理解していた。

しかし同時にこの頃には立場という障壁が俺と彼女を阻んでいた。
皇子と臣下として向かい合うことはできても、それ以上のことは許されないのだということを、
また思い知らされた。


力が欲しかった。
生まれる前から決まっている仕組みなど、作り変えられるような強い力を。
ヤオ族の民が、他の民族たちに自分達の伝えてきた営みを抑圧されることがないように守れる
強い力を。

それを求めて旅をすることを決めたときから、俺とランファンの関係ははじまったといって
いいだろう。
シンでは皇子と臣下としての姿を崩さず、人目を憚ってばかりいて彼女の心はなかなかついて
こなかった。
旅程を進むうちにその頑なさが薄れ、昔のようにふとしたはずみに微笑みあうようなことも
できるようになったが、それはごく最近のことだ。
それまではもどかしく歯がゆい思いと、お互いどうすればよいのか困惑しそれでも止められ
ない思いがときにぶつかって、みっともなくうろたえてはおずおずと寄り添いあうことを
何度も繰り返してきた。
そんな彼女と俺の様子もずっとフーは見てきているはずだった。


旅の途上にも時折、まるで目を盗むようにひそかに愛を交わしていることを知らぬわけは
ないだろうと思っていたが、いざこうして黙認されると期待していたこととはいえ、やはり
少し気まずく照れくさい。


・・・だけどこれは願ってもないチャンスだよな?
葛藤もあるが、至って現金な考えのほうが次の行動を既に決めていた。
こんな機会がそうそうあるとは思えないし、頭を切り替えてこのひと時を有効に使わなけれ
ばフーの厚意も無駄になってしまう。
何たって刻限は終列車の時間までと限られているのだから。





「ランファン。」
ドアの傍らで置物のように座って控えている黒衣の娘を呼び寄せる。
「今日はいろいろ大変だったな。」
ねぎらいの言葉をかけるとランファンは
「いえ、特に大変なことはございません。」
と、護衛としてのもの硬い口調で答える。
まずはこれを破ってやらないと。

「ロープで吊り上げられてもか?」
うっ、と言葉に詰まった彼女の顔が見るみる赤く染まっていく。
「いい加減のところで止めようと思っていたけど、あの姿を見たときは呆気にとられたよ。
相手にプレッシャー与えて揺さぶるはずが、挑発に乗ってしまったらあんな手を食うのも
当然だろ。」
「迂闊でした。私のミスです。」
恥ずかしそうに身を縮める姿は、異形の面をつけそこに居るだけで威圧感を与える皇子の護衛
とは思えぬ可憐さで、つい頬がゆるむ。

「まったくお前たちは血の気が多すぎるよ。」
「申し訳ありません・・」
常々言われている欠点を指摘されうつむいて小さくなる娘の手をとると、リンはいささか強引
に手甲をはずした。
ロープを外そうともがいた時に擦れてできたらしい赤い線状の跡が白い手首のまわりに環の
ようにうすく残っている。
「痛い?」
つかんだ手首を引き寄せ、その跡にくちづけようとすると
「わ、若!そんなこと・・・」
ランファンは慌てたように手をひこうとするが、ガチガチに緊張していてうまくいかず困った顔
をしたままうつむいてしまう。
いつものことだが、どうしてこう融通がきかないんだろう。
「照れなくてもいいのに。もう、しょうがないなあ。」
ランファンの頭をくしゃくしゃと撫で、微笑みかける。

「こんな跡をつくって。色々手数はかけてしまったし、賢者の石のこともあるけど、大事な臣下
に傷をつけてくれるとは、あの小さい錬金術師にはひとつ礼をしてやらないとな。」
「こ、こんな傷たいしたことありません。若があんな生意気な輩を相手にこういう些細なことに
関わっていては、なめられます!」
「んー。ちょっと痛い礼を見舞ってやろうかと思ってたけど、そうだな。明日ランファンの面を
直してくれたら許してやることにしようか。それなら面目たつだろう?」
「・・・はい!」
この提案はランファンの心をゆるめることに成功したらしい。
ほっとしたように目を和らげて微笑む顔はやけに可愛らしくてこのまま押し倒してしまいたく
なる。まさかいきなりそんなことはできないけど、この雰囲気ならそういう流れにもっていける
んじゃないか。



「だいぶ外も暗くなってきたな。ランプに灯りを入れてごらん。」
命じた言葉に素直にランプを点けようとしているランファンをおいて窓辺に寄りカーテンを引くと
宵闇の迫る部屋は暗く沈み一瞬ののち、ぽっと赤い灯に照らされた。

灯りをやわらげるシェードが赤い布で出来ており、それで透かした光にも赤い色がついているよう
に見えるのだろう。少々けばけばしくも見えていた部屋の様子が、ランプの灯りのなかで見ると
落ち着いた雰囲気になるのが好もしい。
夜の部屋のなかで白く浮かぶランファンの手と顔は、普段は面と手甲に隠されているからこそ
余計に艶めいて綺麗に見えた。

「綺麗だな、赤い色が映えて。」
シェードにかざした彼女の白い手に自分の手を添えてそう囁いたが、それこそ照れて否定しそう
な言葉なのにそれらしい反応がない。

・・・もしや通じていない?
危惧していると小首をかしげた彼女の口から出た言葉は、案の定
「そうですか?この色だと何かあやかしが出そうな感じがしますけど。」

おそれていた通り、素で色気のない感想を言われてしまい頭を抱えた。

「んあああもうっ!どうしてわからないかなあ!
怪談話しようってんじゃないのにぶちこわしだよ。」
「え?」
突然叫びだした主にランファンはうろたえて目を泳がせている。
この期に及んでまだ艶っぽい言葉の意図を理解していないのはいかにも彼女らしいが、
精一杯自然にことを運ぼうとしてきたのに、返ってくる言葉がこれでは腰砕けだ。
自分の空回りする滑稽さが恥ずかしく、やけくそでぶちまける。
「綺麗だってのはランファンのことなのに。」
「ええっ?」
「きみは全っ然、わかっていない。自分が綺麗な女の子だってことも、
だから俺はつい他の男の前にきみを出すのを嫌ってしまうってことも。」

あっけにとられた表情のランファンは何か言おうとするのだが、言葉にならないらしく口を
ぱくぱくさせている。
「たとえ一瞬でもランファンがあんな奴に好き勝手されそうになったかと思うと、
頭に血がのぼる!」

大きな声をあげて私的で感情的なことをいうことは滅多にない。
そういうことは努めてしないようにしているのだが、なぜだか今日はつい激してしまった。
半分は照れ隠しだが半分はほんとうに本気だった。

「申し訳ありません若。私の考えが及ばずに無様な姿をさらして・・・」
しゅんとしてうつむき、体の前で組んだ手にぐっと力をこめて反省の言葉を紡ぐランファンに
はっと我に返る。
「・・・ごめん。俺の勝手な言い分だ。」

言うだけ言ってしまうと、しんと静まりかえった部屋の空気に頭のなかがやっと冷えてきた。
まったく何をしているんだ俺は。
あのエドワードという錬金術師への嫉妬心を何もわかっていないランファンにぶつけてどうし
ようというんだ。
彼女とふれあいたいという欲望がうまく伝わらなかっただけなのに。
ランファンを萎縮させてしまっただろうか。

喧嘩したわけではないが、言いたい事を言いっぱなしで済ませられるほど自分とランファンの
仲はまだ出来上がってはいない。
仲直りというわけでもないが、ずれた空気を戻すのに歩み寄るべきなのは俺のほうだろう。
それが自分から出来るような彼女じゃないことは、先の一件をはじめとしてよくわかっている
から、尚更。


「・・・俺だけだって、言ってくれる?」
背後から寄り添うように腕をまわし、頭をこつんと彼女の肩にのせてそうつぶやくように甘え
た声で囁いた。

惚れたはれたの言葉を口にすることを極力避けたがるランファンだが、こうして幼子のように
甘えた仕草をするとそれを拒みきれないことは、昔からよくわかっている。
ふたたび、今度は耳もとへ顔を寄せ内緒話の格好で甘えた声を出す。
「ねえランファン、好きなのは俺だけだって言ってくれる?」

「私は・・・」
ためらう風情で一旦言葉を切ったランファンはこちらへ向き直り、珍しく正面からまっすぐ
見つめ返してきっぱりと言った。
「ずっと、私にはリン様しか見えていません。これからも同じです。」

思わず抱きしめていた。腕のなかでランファンは頬を染めて立ち尽くしていたが、やがて身体を
そっとこちらへと預けてきてくれた。
少しずるいような気がして後ろめたかったが、せっかく色めいたことは苦手なランファンがこん
なに可愛いことを言ってくれたのだから、この機会を逃したくない。
それに、ここはそういうための部屋なんだし。
「じゃあ、さっきの続き。」
甘えた口調はそのままに指をからめながら囁く。
「確かめていい? ランファン、君が俺だけだってこと。」





囁きはそのまま無言の口づけへと変わって、ランファンの薄く色づいた可憐な唇へそっと
重なった。
ごく軽く触れ合うだけのものから、湿度の高い濡れた感触と息遣いのものに変わるのにそれ
ほど時間はかからなかった。
下唇で彼女の唇をすくいあげ、空いた唇のあいだに舌をしのびこませてかるくなぶるように
舐めると自然に口が開いて深く探ることになる。
柔らかい唇を自分の唇で挟んで味わい、それをめくって歯列を舌でなぞりその奥へと侵入する。
舌を絡めあって口のなかを探り合ってあふれだす情熱の甘さに酔った。

ながいキスに上気して頬も目元も赤く染めたランファンの顔は艶めいてなまめかしく、受け
止めきれず唇の端から零れる唾液の糸さえ美しかった。
すっかりあがってしまった息を整える暇を与えずソファへと追い詰める。
もう腰が立たなくなっていたのだろう、少し押しただけで彼女は雪崩れるようにソファへと
体を沈める。
そこへ覆いかぶさるようにして再び唇を奪った。
唇から耳元へ、そして首筋へ。

「・・・っ、爺様が帰ってきたら・・・」
ランファンはこの期に及んでそんな心配を口にする。
「大丈夫。終列車まで帰らないって言ってただろ?」
「でももし・・・」
「フーはわかってるよ。わかってて時間をくれたんだ。」
その言葉の意味するところを知ったランファンの頬に、サッと鮮やかなまでに赤みがさす。
「せっかくの厚意を無にしたら、がっかりするよきっと。」
ためらいを消すには熱に巻き込むしかないだろう。
「それにもう止められないよ、俺。」
硬く兆しはじめている下半身をさりげなく押し付ける。
「ランファンが欲しいんだ。」
こういうときは言葉を尽くすよりもストレートに欲望をあらわすほうが、彼女は存外頷いて
くれるのだ。

無言でおののき息をのむ彼女に言い聞かせるように囁く。
「だから、ね? このままじゃ可愛いがれない。」
一瞬石を呑んだように固まった後、目を伏せ恥ずかしそうに防具の留め金をはずすのを合図に
身につけているものを取り去る作業が始まる。
ランファンは床に胴鎧を落ろし、靴を脱ぎ去った。
上衣の袖口と袴子の裾から手を入れ、前腕と下肢にしのばせているクナイをそれぞれ留め具
ごと外す。
武装をすべて外すこの瞬間が、彼女の感情が揺れてもっとも目覚ましい表情の変化が見えると
いうことを他の誰が知っているだろう。


俺は、護衛として俺の側にあることを選んだ彼女に寵を受ける女としての苦悩を与えるつもり
はなかったが、こんな関係になったことは彼女に悩みをもたらさないわけはない。
それでも俺は彼女を求めた。
救いようのない強欲さで。
自分のなかにある剣呑なまでの力への欲望はよくわかっている。
ランファンを欲するのは俺のわがままで、それを別のもっともらしい何かだと誤魔化さず正直
になることが、俺の彼女への尽くし方だった。


武装を外したランファンはたよりなげな儚い女の表情になって、それが何より俺の欲を刺激する。
寝所に侍る者は簪をはずすことを知っている彼女は、何の武器も隠し持ちようのない纏め上げ
た髪をも自らほどこうとした。
「そのまま。」
動きを止める言葉を投げかけ、頭にかけた手を抑えて髪紐を奪う。
はらりと雪崩れ落ちる黒髪は俺の獲物だ。
これからは俺が楽しませてもらうのだから。


素足で床に立ったままのランファンの服を脱がせていく。
襟のあわせを両側に広げて開くと黒い衣装のなかからまぶしいほどに白い彼女の肌が現れた。
鎖骨の窪みに口づけながらなだらかな肩をむきだしにし、腕から袖をぬいて上衣を剥ぎ取れば
上半身は胸からみぞおちの下まで固く巻かれたサラシだけが残される。
「これ、ほどくよ。」
巻き終わりの布の端を探して目を凝らすと彼女は恥ずかしがって腕で胸を覆い隠そうとする。
「あんまり、見ないでください・・・」
「じゃあ、こうしたほうがいい?」
探し出した障壁をほぐす糸口を右手に捕らえたまま、左手で腕のなかの彼女の体を反転させて
背後からそっと抱く体勢に変える。
肩に顎をのせ、髪の香りを楽しみながら背後から彼女の体の前面へとまわした両手を交互に
使い、白く細長い布を巻き取っていく。
腕のなかのたおやかな体は布の戒めが軽くなるほどに息を浅くして指先が触れるたびにぴくり
と反応する。
我慢できずにうなじに唇を押し付けたのと残りのサラシがぱさりと落ちたのは同時だった。
「やっ・・・」
あらわになった胸をかばうのに発した声か、うなじへのキスの感触に思わずあげてしまった
声だろうか。
小動物のような小さな悲鳴はかえって嗜虐性を刺激して、荒々しい愛撫へ向かわせることに
なるというのに。
サラシを巻き取ることを終えた右手で乳房をしっかりと捉える。
掌のなかのやわらかく弾力のある感触が、揉みしだくうちに肌が内側から張り詰めるように
なって、彼女の昂まりを伝えてきた。

頚椎の継ぎ目のまるい骨の頂、脊椎のくぼみ。
翼の名残のような肩甲骨の内側とキスを散らしていく。
滑らかな肌の広がる背中は目にも触覚にも美しく飽きることはなかった。
自分では見えない背面に愛撫を受けながら乳房を揉まれることは彼女を思った以上に追い詰め
たらしい。
「うそ・・・こんなの、ダメ・・・ああん!」
いつも声を出すことを恥ずかしがっているのに、今はうわごとのようにそう呟いてランファン
は腕のなかで身悶える。

「立っていられなくなったんだろ?」
腰を抱えた左腕にかかる体重が増してきたのをそう囁いて指摘すると
「・・・そんなことっ、・・・」
否定しようとしたのか、言わないでほしいと言おうとしたのか。
「なら、このまま続ける?」
わざと意地悪くそう訊くと答えに詰まる。
こういうわかりやすいところが可愛いくて仕方なくて、ついからかいたくなるのだということ
を彼女はわかっているのだろうか。

「ベッドに行こう。そのほうがいいだろ?」
意地悪の埋め合わせとばかりに抱き上げてやるとランファンは顔を真っ赤にしながらも
ちいさく頷いた。