時には議論も噛み合わぬ | 牛久の小盆栽 ながちゃんのブログ

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伝統的な盆栽愛好者の姿は、培養歴6年で樹齢150年、200万円の五葉松を出入りの業者に任せる旦那でした。「なんとか盆栽展示会」にその蔵者が得意げ写真におさまる、とか。私は貧乏なので全て実生、挿し木の小盆栽です。


石蕗


茅花の路


写真は石蕗(つわぶき)と茅花(つばな)。


石蕗(つわぶき)は濃き緑に鮮黄の斑。
この葉模様を何と言ったかしらん、「星斑」であったような。

園芸店で、6号素焼き鉢に「ぬくぬく」安住しておられるところを200円くらいで買い求めたものです。

石蕗はおもしろい草でして、与えられた鉢や環境に適応して育ちます。
年々歳々追い込んで御覧の通り、出来損ないの盃に植えても不平を漏らすことなく、与えられた場所に「庵を結んで」くれるのです。


盃植えの石蕗について、道行く見知らぬ女史に注意を受けたことがあります。
「ま、石蕗!かわいそう!こんな小さな盃に入れられて。あんた、ねえこれは植物虐待ですよ。もっと広いところに植え直したらどう?」


唐突な女史の居丈高な物言いに、爺はこの方はもしや「植物愛護協会」の全権特使なのだろうか、と思いましたね。
女史は石蕗を指さし、柳眉を逆立てておいでになる。


ああ、この方は散歩の途中に石垣の隙間から顔を出す「シノブ」を救出され、歩道の石畳に辛うじて生きるタンポポを発見されては、自由闊達の地に移し替える仕事に従事なさっているのかもしれない。
心優しき女史よ!


女史は盃植え石蕗になり代わって見知らぬ爺に抗議をなさる。
物の見方、考え方の違いが底辺にあって、爺如きが盃石蕗の「環境順応」性質をジュンジュンと説いても議論は噛み合わないと思う。
もし女史の論理?に従うならば、800鉢の植物は全て広大な土地に植え替えなければなりません。
爺はやむなく口を閉ざしましたな。


以前駅前に乱舞するムクドリの大集団を拡声器で追い払う商店主に抗議する女性を見たことがあります。

「ムクドリがかわいそう!あんたなんてことするの、ここを追われたらこの鳥は何処で寝るのよ!動物虐待ですよ」

「あのね、私らにも生活権があるのですよ。ムクドリに追われて商売をたたんで引っ越しせにゃならんのかね。この鳥の鳴き声をアンタも今聞いているだろう。ギャーギャーって商売どころじゃないんだ。この車の屋根のフンを見ろフンを!」
この後しばしのやりとりがあったようですが、最後まで見届けてはおりません。


立場によって、見方によって、時代によって物事の意味や価値が変わることはありがちなことですが、心底理解し合うのはムズカシイですね。


爺は昨日の午後の好天につられて、郊外に「茅花(つばな)」観賞に出ました。

中央分離帯の所々に茅花(つばな)は群生していました。
夕景の陽を受けて輝く風情は、秋の「芒(すすき」に見紛うほど。
美しかったですよ。

写真は、筑波山山麓の国道で車中で撮りました。
車窓に流れゆく茅花に、大慌てでカメラを向けたものの、何を撮ったものやら意図不明のピンボケ写真になりました。

あの夕日に照り輝く茅花の穂を、戦後の欠食腹減らしの子供らはは夢中で食べたものでした。

これも「時代によって物事の意味や価値が変わる」例の一つでしょうか。


駄句5句。
筑波山茅花流しを颪(おろ)したり
道茅花排気ガス添え食ひし頃
国道脇思ひ出の草茅花抜く
国道に一列並ぶ茅花かな
晴天の今日茅花の輝きぬ


腰折れ1首。
国道に一列に並ぶや茅花の穂芒に紛ふ輝きあはれ