写真は秋薊、鬼薊(あざみ)。
春の薊と秋の薊の違いはなんだろう。
そりゃ簡単明瞭、軒端の風鈴。
咲く季節の違いですよ。
春に咲きゃ春薊、秋に咲けば秋薊。
なるほど。
でもね、「憂い」や「悲しみ」を秘める花は秋薊こそ相応しいと思うのだけれど。
憂いや悲しみにうち沈む季節はなんと言っても秋ですね。
それにしても、あの「あざみの唄」の意味は分からない。
♪山には山の憂いあり 海には海の悲しみや
まして心の花園に 咲きしあざみの花ならば
「山の憂い」「海の悲しみ」とは、何であるのか。
分かりそうで分からない、
「まして……」の「まして」は「何にまして」なのだろうか?
などと、いつものゴタクを並べながら、アザミにも水を差している愚老なのです。
「憂い」や「悲しみ」に耽るものに水を掛けるのは、人としてあまりにも倫理にもとる行いである、とは思うのですが、アザミもチジミも水が必要なのですな。
あの豊かな金木犀の香が、我が魯鈍な嗅覚を逃れて旬日は経つようです。
金木犀が散り、アザミも枯れて秋は行くのですね。
今朝の煌めく朝の陽の中に、山茶花が息吹き返し、台湾椿が蕾を開きかけています。
椿は「炉開き」と「西王母」が静かに花を広げています。
駄句6句と愚歌1首。
露繁く野に花もなく冬備へ
鬼薊名に違ひたる可憐花
鬼薊野にすいと立つ可憐花
野の端に思ひがけなく秋薊
秋薊花の季節を仕舞ひけり
秋薊摘む人なくも凛然と
露繁く野に花もなく冬備へ華やぐ乙女遙かになりぬ