鬼薊名に違ひたる可憐 | 牛久の小盆栽 ながちゃんのブログ

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伝統的な盆栽愛好者の姿は、培養歴6年で樹齢150年、200万円の五葉松を出入りの業者に任せる旦那でした。「なんとか盆栽展示会」にその蔵者が得意げ写真におさまる、とか。私は貧乏なので全て実生、挿し木の小盆栽です。


秋薊

写真は秋薊、鬼薊(あざみ)。

春の薊と秋の薊の違いはなんだろう。
そりゃ簡単明瞭、軒端の風鈴。
咲く季節の違いですよ。
春に咲きゃ春薊、秋に咲けば秋薊。

なるほど。
でもね、「憂い」や「悲しみ」を秘める花は秋薊こそ相応しいと思うのだけれど。
憂いや悲しみにうち沈む季節はなんと言っても秋ですね。

それにしても、あの「あざみの唄」の意味は分からない。

♪山には山の憂いあり 海には海の悲しみや
まして心の花園に 咲きしあざみの花ならば

「山の憂い」「海の悲しみ」とは、何であるのか。
分かりそうで分からない、
「まして……」の「まして」は「何にまして」なのだろうか?

などと、いつものゴタクを並べながら、アザミにも水を差している愚老なのです。
「憂い」や「悲しみ」に耽るものに水を掛けるのは、人としてあまりにも倫理にもとる行いである、とは思うのですが、アザミもチジミも水が必要なのですな。

あの豊かな金木犀の香が、我が魯鈍な嗅覚を逃れて旬日は経つようです。
金木犀が散り、アザミも枯れて秋は行くのですね。

今朝の煌めく朝の陽の中に、山茶花が息吹き返し、台湾椿が蕾を開きかけています。
椿は「炉開き」と「西王母」が静かに花を広げています。

駄句6句と愚歌1首。

露繁く野に花もなく冬備へ
鬼薊名に違ひたる可憐花
鬼薊野にすいと立つ可憐花
野の端に思ひがけなく秋薊
秋薊花の季節を仕舞ひけり
秋薊摘む人なくも凛然と

露繁く野に花もなく冬備へ華やぐ乙女遙かになりぬ