写真は「屋久島猩々袴(しょうじょうばかま)」。
この猩々袴は屋久島産で、普通種に比べて花は小ぶりです。
猩々袴には変種、改良種が多く、花の色は紅、白、紫と多様です。
菊池寛の小説に「形」という作品がありました。
さる国の武将で猩々緋(真っ赤な毛皮の想像上の動物)の服折(陣羽織)を着用して、戦の都度大いに武功を立てる人があった。
陣中で、火のような猩々緋の陣羽織見かけると、敵は総崩れ、味方は奮い立ち、武将の名はいやが上に高まった。
あるときの戦闘で、猩々緋の陣羽織を若い武将に貸し、自らはありふれた黒皮縅(くろかわおどし)の鎧を着用した。
黒皮縅の武将など、敵兵の誰も恐れない。
ついに名も無き雑兵の鎗に、身中深く突き通されてしまった。
人は「人相、出で立ち=形」が、実態より評価されがちだ、という話であった、と思います。
さて、写真の「屋久島ショウジョウバカマ」は、恐ろしげな名前とは無関係に、嫋(たお)やかな花です。
ご覧の通り破れ傘にも似た、小花が俯いて、恥ずかしげに咲く風情は思春期の乙女にも似て、可憐です。
でもね、「小花が俯いて咲く」からとて、思春期の乙女の風情と感じるのも「形=花容」による評価なのでしょう。
「恥ずかしげに咲く」というのも「形」から連想する勝手な思い込みで、実態は「女傑の偉丈夫」なのかもしれません。
かような、形=先入観や思いこみが、誤解を生む例は多くありますね。
「小百合」という形=名前で、可憐な乙女を連想するのも楽しいものでありますが、「50歳になったらやりたいこと」とCMで優しくに仰る、吉永小百合嬢は愚老と同じ年齢であります。
拙老が「50歳になったらやりたいこと」と述べて、優しく微笑んだら「可憐」ではなく「加齢」で、その場にすてては「おカレン」、と相成るでありましょう。
「屋久島ショウジョウバカマ」の鉢を手に取り、さようなゴタクを並べるジイサマでありました。
駄句5句と愚歌1首。
破れ傘猩々袴雨通す
屋久島の猩々袴項垂(うなだ)れる
俯いて猩々袴恥ずかしげ
何故か猩々袴緋(ひ)に非ず
屋久島の猩々袴内気なり
提灯の破れて咲きて屋久島の猩々袴恥ずかしげなり