カモメの悪性リンパ腫闘病日記2 | あ、ついでにブログも。

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素敵なオジサンにまつわるエトセトラ。ようは、わりとよくあるタイプのブログ。

こんばんは。

 

生理痛がひどい・・・カモメです。

 

そういえば、抗がん剤治療中は

 

生理が止まる人もいるみたいだけど

 

私は順調にきてたなあ。

 

量は減っていたけど。

 

それでも卵子ができなくなる可能性があるから

 

治療の前に卵子を冷凍?することを推奨します

 

とか言われたんだけど、、、、

 

それの予約と、手術待ってたらね

 

抗がん剤治療が遅くなっちゃうからってやめた。

 

入院待ちの時間中に

 

自覚症状としては中期の

 

発熱まで出てて、私もかなりビビってたから

 

将来を期待する男もいないくせに

 

将来の子供のことまで考える余裕はなかった。

 

両親もお前の命が第一だからって

 

子供なんてその気になれば貰うことだってできるとか

 

よくいうよね、四人も産んどいて笑。

 

急を要するんじゃなかったら、

 

卵子凍結?やっといた方がいいみたい。

 

何しろお医者様がお勧めすることは従った方がいい。

 

それでは、1から次の日記。

 

毎日書いていたわけじゃないので

 

飛び飛びです。

 

全部で20あるかないかくらい。

 

ぶんの2です。

 

 

 

 

2018 01 08 M

 

 こんな状態の時は、

精神状態なんて分か秒単位でコロコロと変わる。

それが、俗にいう、情緒不安定というやつだ。

私が昨日の夜、東京へ戻りたいと言ったのは、

その時は最善の策だと思っていたが、

周りの人にとっては違う。よくよく考えてみれば、

自分自身にとっても最善の策ではなかったはずだ。

夜シクシク泣いて居ると父を起こしてしまうこと。

否が応でも朝まで私のそばを離れないでいてくれること。

母が私の精神状態を読み取って、

色々なことを試してくれるのに、

それで素直に元気になってあげられないこと。

それを苦痛だと思った。

一人でいても精神状態が何かで紛れる自信はなかったが、

周りの精神状態まで巻き込むことは無くなると思った。

そしてそれで私が傷つくこともない。

それと単純にいつも通り”普通”で居たいと思ったのもある。

すべてが自分本位の考えだった。

両親からしてみれば、

私がこの腫瘍を抱えながら東京へ一人帰ることよりも、

私が近くにいて日々不安定な精神状態に付き合うことの方が

ストレスにはならない。物事を正常に考えられる私であれば、

それに気づかないはずもなかった。

というより、気づいていた。

だけど、自分の現実逃避をとった意見だった。

まあ、そんなことは両親も気づいているだろうから、

反省する気もない。私は私で精一杯だったのだ。

 

 一夜明けて精神状態はころっと変わったが、

またころっと変わるのが厄介なところだと思う。

結論と、最善策はいつも見えているのに、

それに従えないのが「情緒不安定」なのだ。結論と最善策とは

結論「考えても仕方がない」 最善策「いま笑顔で居ること」

このふたつに尽きる。そんなことはハナから私の中にはあった。

順天堂で兄とともに病状を知ったその瞬間からあった。

たぶん同じような状況に立たされる人間の80パーセントは

この考えが初めから脳内にある。

ただ、それを、状況に立たされた瞬間に行使できる人間が少ないだけである。

私の家族は、そんなことがハナから私の脳内にはある、

ということと、だけどそれに従えていないが故に悩み苦しんで居る、

ということも、一瞬で理解する。特に、兄1と母に至っては瞬時だ。

鈍感そうに見える他の面々も、愛で理解する。

家族とは本当に厄介で有難い。

私の考えて居るほとんどのことが筒抜けだと思っていて間違いない。

そう信じられることこそ愛だ。

 

 私が今、笑顔で居ること。

周りにとっても自分にとってもそれがいちばん大切だ。

なにより、私が今、笑顔で居ることで、

安心してくれる人がいるというのが、本当にいちばん幸せなことだ。

こんな状況だからじゃない。それはいつまでも続く。

どんな時も私が笑顔でいることで、

”それがいちばん”

と思ってくれる人がいる。

だったらいつも”いちばん”で居てやろうじゃないか。

 

 

 

日記はここまで。

 

 

 

家族の暖かさと尊さ、

 

いかに自分が愛されているかを実感しつつ

 

恐怖と戦うって、

 

すごい辛かった。

 

これは、

 

この時期は

 

今思い出しても、2度と戻りたくない

 

人生でおそらく一番恐ろしい日々だった。

 

母や父は、自分がガンにだって何にだってなったとしても

 

あんなに苦しむことはないって言い切ってた。

 

私は患部が痛んでいたので、

 

この頃は夜まともに眠れなかった。

 

激痛ってわけじゃないけど

 

恐怖と痛み、周りに家族がいると

 

泣いたり弱気になれる時間は

 

夜中しかなかったから。

 

父は昔から物音に敏感で

 

私たちの小さい頃から、

 

夜中に体調が悪くなったり

 

怖い夢を見て泣いていたりすると、

 

そばにいてくれたのは父だった。

 

このときも

 

私のすすり泣く声で

 

何度起こしてしまったかわからない。

 

その度に、痛いのか?と聞くけど

 

痛くて泣いてるわけじゃないって知ると

 

もっと苦しそうな顔をした。

 

そんな時父は何も言わないけど、

 

椅子に座って私が寝たふりをしても

 

なかなかそばを離れてくれなかった。

 

寝るときは私が寝たふりをしない限り

 

母は決して寝なかったし

 

私が寝た後も

 

台所の方ですすり泣く声が聞こえたりした。

 

母や父はネットなんか情報を集めることが得意じゃないし

 

そういう期にもなれなかったらしく

 

悪性リンパ腫という病名に完全に最悪の未来を見ていたと思う。

 

特に母は、曽祖父を悪性リンパ腫で亡くしてる。

 

ほんの20年くらい前までは

 

今の治癒率の半分の治癒率しかなかった病気だ。

 

父に至っては、ガンと聞くと不治の病であるかのような

 

印象を受ける世代だから、私には言わなかったけど

 

影で、カモメの望むことは何でもしてやりたいと

 

夜毎、母に言っていたらしい。

 

今思えば、アメリカ旅行にでも行きたいと

 

言っておけばよかったと思う次第である。

 

 

 

一番大切で大好きな家族を

 

苦しめているという実感が、

 

ガンになったことよりも悲しかった。