カモメの悪性リンパ腫闘病日記3 | あ、ついでにブログも。

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素敵なオジサンにまつわるエトセトラ。ようは、わりとよくあるタイプのブログ。

こんばんは。

 

絵も描きたいし、CADも練習したいし、文章も描きたい

 

でも1日特に何もすることなく寝てしまうことも多い

 

・・・カモメです。

 

そんな時すごい病みます。

 

こうして時間は、あっという間に過ぎて

 

あっという間におばあちゃんになっちゃうんじゃないかとか。

 

右を向いても左を向いてもつまらない人間だらけ。

 

上司も先輩も同期もみんな

 

とりたてて何も面白いところがない人間ばかり。

 

私はそんな毎日に流されて

 

自分を失いそう。好きな人も友達も家族も近くにはいない。

 

生まれてはじめてのひとりぼっち。

 

失ったと実感できるほどの恋愛じゃなかったけど

 

あんな人でも今更さみしい。

 

だけど街に出会いを求めていく気力も興味もない。

 

そういう出会いは結局、同じことを繰り返すだけで

 

生産性がないって、4年足らずの時間で学んでしまったから

 

東京は綺麗な街だと思う。

 

 

機嫌が悪いと上司は物に当たり

 

取引先の気に入ってる女と話した後だけ上機嫌になる。

 

私はそのタイミングで確認に行き、

 

女の腐ったような、、ってこの人のことだなって

 

毎日実感する。

 

一番歳の近い30歳のデザイナーは

 

ジムで知り合ったエグザイル顔のむきむきと

 

付き合っているが上司に色気を使う。

 

前の席のババアはガンに効く石や粉を

 

私に勧めてくるし、事務の骸骨は

 

探るように話しかけてきては私の髪色が明るいと

 

陰口を叩く。上の階の死んだような顔をした40代メスは

 

漁師の娘の私に向かって、弁当が魚臭いと

 

悪気もなく言ってくるような低知能だし、

 

その上司は自衛隊オタクで、

 

私の腕にあったヘナタトゥーを見た瞬間から

 

私をヤクザな娘と思い毛嫌いしてる。

 

ごみ溜めみたいな陰気臭い職場で

 

貴金属と向き合っているだけの私に

 

時間はだた過ぎてくだけ、

 

毎日楽しいことは食べること、お金を使うこと。

 

酒を飲むことにも、夜遊びすることにも飽きた今は

 

何を求めているのか自分でも不明。

 

画力も文章力も落ちて

 

やりたいことができているのかどうかもわからない。

 

不満ばかりが増えて

 

生理中みたいにイライラする。

 

今の生活より、

 

胸に腫瘍があった闘病中の方が

 

よっぽどキラキラしてた。私は

 

なんのためにガンと闘ったんだろう。

 

それでは闘病当時に書いた日記、3つ目です。

 

東京のお茶の水に生検検査の結果を聞きにいく前日。

 

この時点でまだ、腫瘍の正体はわからず

 

胸腺腫なのか、胸腺ガンなのか、悪性リンパ腫なのか

 

はたまた何か違うものなのか、、、

 

恐怖に怯えて暮らした1ヶ月間

(生検手術から結果が出るまで約1ヶ月)

 

人生で一番長い1ヶ月だった。

 

得体の知れない恐怖が一番きく。

 

そしてこのあと、得体の知れなかった恐怖の

 

正体がわかり、本物の絶望が私を襲うことになるのだけど。

 

 

 

 

 今日は1日家にいた。

明日は(日付では今日)東京へ行く日。

病院の近くのホテルに泊まって、

明後日(日付では明日)結果を知る。

 

 ずっと右胸をかばって生活していた

私の背中と肩はもう限界に近く凝っていたらしい。

夕食後、なんとも言えない気だるさと気持ち悪さに襲われ訴えると、

母が背中や肩をマッサージしてくれた。

母が過呼吸になった次の日、

必ず脇の下あたりの筋肉が痛くなるらしく、

私も同じところが凝っていたからマッサージは効果覿面だった。

毎回過呼吸の後は、

ものを持ち上げられない程痛むらしいのだが、

私はそんなことにも気づかずにいた。

そんな自分が情けなくて申し訳なくて

「私もしてあげればよかったね」

って言っていたらしゃくりあげて泣いてた。

母が泣きながらマッサージするものだから、

私もつられて泣いてしまったんだと思う。

いや、私が先だったか。

 

 特に何もない1日だった。

明後日の病院には父はこない。

残って仕事をするそうだ。父らしい。

私の治療代くらい、1日で稼ぐこともある。

兄2の運転で母と東京へ向かい3人でホテルに泊まり、

病院には兄1も駆けつけてくれる。

 

 久しぶりに彼と電話をした。

お母さんの訃報から声を聞いていなかった。

言葉ではかなり落ち込んでいる様子だったけれど、

声を聞くと重症ではなさそうでよかった。

安心したところで、

割と私の彼に対する気持ちは大きいのだと思った。

 

 大丈夫大丈夫。落ち着いて望もう。

良くても悪くても、勝負はここからなんだ。

 

 

 

 

母は酒乱な祖父の暴力に怯える

 

不穏な生い立ちのせいで、パニック障害と

 

特定の人物に対する対人恐怖症、

 

過呼吸を持病に持っている。

 

私はなにかと被害者なりたがる母を

 

面倒だと思っていたし、実際

 

冷静に考えて自分が悪いだろと突っ込みたくなることも

 

母は誰かを悪者にする癖があって

 

いつも悲劇のヒロインで居たいようなうざったさを

 

私は感じてた。冷酷にも母が過呼吸になっても

 

いつものこと、どうせ現実逃避の成れの果てでしょと

 

心の底から心配したことはなかった。

(それはもちろん、今もたぶん少しはそう思っているし、これは

説明すれば長くなる叙情が色々とあるのだが)

 

だけど

 

都合が悪くなるといつも誰かのせいにして

 

その人に対するパニック障害を起こす母が

 

私の病気からは逃げなかった。

 

家族の誰よりも、

 

時には私よりも強く立ち向かった。

 

病気になって初めて私は母の強さを見た。

 

私は

 

母の健康のこと、精神状態のことなんて

 

いままで見向きもしなかったのに

 

過呼吸の後、腕が上がらないくらい筋肉痛になることなんて

 

気にもかけず気づいてさえあげられなかったのに

 

私の痛いところや辛いことに母はすぐに気づいた。

 

それが申し訳なくてありがたくて、後悔で、

 

あのときすごく泣いた。

 

母の前であんなに泣いたのは幼い頃以来だと思う。

 

「私もしてあげればよかった」

「きづかなかった」

 

と言いながら自分の冷たさを感じていた私に

 

母は、バカそんなことはどうでもいい

 

とやっぱり泣きながら笑って答えてたと思う。

 

あの夜は一番の恐怖と一番の暖かさを感じて眠った。

 

 

 

 

兄や母は迷惑な男だと言ったけど

 

闘病中彼は毎日電話をくれた。

 

家族とわずかな友人としか会わず

 

ただガン患者として過ごしていた私にとって

 

彼からの電話は唯一普通の女の子でいられる時間だった。

 

そのことについては今も

 

とっても感謝してる。

 

闘病中にもメイクしたりファッション雑誌を読んだり

 

女であろうとするのは大切なことだ。

 

女性にとってそれは重要なこと。

 

顔色が悪くなったり、変にむくんだり、

 

髪の毛が抜けたり、肌が荒れたり。

 

今までちゃんとケアしていた人ほど辛いと思う。

 

それに比べ私はもともと女子力がなかったから

 

ショックは軽かった。

 

だけど、こんなことがなければ

 

人生で坊主になることも、坊主金髪になることも

 

なかったし、案外坊主が似合う自分も知らなかった。

 

病気を認めて共存し、

 

その上でお洒落をしても案外楽しい。

 

治療の時に派手なピアスをしていても

 

まわりは、

 

後少しの命を精一杯楽しんでいるのねと、

 

何をしても同情の目で見てくれることが

 

ガン患者の特権だ。

 

病人の特権を大いに利用すればいいと思う。

 

若いうちガンになれるなんて運が悪くて1度きりだから。