昨日は第24師団第1野戦病院白梅学徒隊/沖縄県立第二高等女学校をUP致しまして、

本日は第24師団第2野戦病院/ふじ学徒隊/積徳高等女学校

 

度々掲載しております糸洲の壕/ウッカーガマで自決された

陸軍軍医小池勇助さんの部隊/ふじ学徒隊/積徳高等女学校だよ。

 

東風平国民学校学校で看護教育を受け、

豊見城城址公園にある第24師団第2野戦病院に配属となりました。

豊見城城址公園

 

その碑から漫湖方面の眺め

 

山部隊野戦病院患者合祀碑
山部隊…説明すると長くなるので…
第24師団が山部隊
第62師団が石部隊

第32軍並びに独立混成第44旅団が球部隊

 

 

軍医の島尾二さんは小池さんの部下だったんだけど、
沖縄戦を生き抜いて、金沢の病院病院で勤務をしていたんだ。
その病院退職時の退職金で、こちらの碑を建てて欲しいってなことで、
建立になった背景があります。
 
尚、島尾二さんは建立時には体調を崩されており、
この碑の前に生涯来ることはなかったよ。

 

公園整備中ですが階段を下って行きます。

 

 

 

整備後に出掛けられたポチ太郎さんがYOUTUBEにされてましたん。

 

その後、南部転進の折、

糸洲にある糸洲の壕/ウッカーガマに移りました。

右に写っているのが、

那覇空港/那覇市内、糸満市内から南部戦跡方面に向かう国道。

空港から向かう際に、最初に轟の壕がありますが、

看板が無いのでスルーしがち。

 

でも、糸洲の壕/ウッカーガマには看板があるので、分かりやすい。

山第二病院野戦病院小池隊最後の地

積徳高女学徒看護隊(糸洲の壕)

ってな看板が見えてくると思うざます。

 

信州・長野県の皆様

『分かりませんでした、気付きませんでした』は、

許されないような環境。→素敵ねぇおいでゲラゲラ

 

沖縄で個人名が記載されている看板なんざスーパーレアですし、
信州・長野県から平和学習という名の修学旅行でお越しの皆さんは、
ガイドさんなりなんなりから説明を受けて通過しているのかしらねぇうーん

いや、確かに大型バスは停められない…

いやいや、それを言い出したら、轟の壕だって、

駐車場は無いやん。

 

国道から見ると、樹がモワっと茂っている所が

慰霊塔/壕口の所

 

最後は未舗装道路。

でも、この未舗装道路、たまに通行する車があるので、

道路の真ん中に駐車をするのはヤメテね。

 

 

壕口までわちゃわちゃしていて入れません。

いや、入ろうと思えば入れるのやもですが。

 

壕内につきましては、

これまたポチ太郎さんが動画にしておりますので、参考にしてねぇ。

 

 

積徳高等女学校の女生徒25名からなる”ふじ学徒隊”を率いた
小池勇助軍医【少佐】は長野県佐久市野沢の出身
(生家は千曲バス本社バスダッシュ付近だそうです)。

 

現在の千曲バス本社バスダッシュ周辺 2023年6月撮影
千曲バスバスダッシュの前身は小池自動車でしたので、

縁戚関係にあったのかもしれません。
お墓は近くの本覚寺の小池家代々の墓に眠られているそうです。

 

小池さんは、戦闘が沈静化するのを待ち、
6月26日、ついにふじ学徒隊に解散命令を発令。

 

6月26日に解散命令を発令。→前行は半角数字で、全角数字にしてみた。

六月二十六日に解散命令を発令。→漢数字にしてみた。

June 26th.→英語表記にもしてみた。

26 giugno.→イタリア語表記にしてもた。

26. Juni.→ドイツ語表記もやってみた。

懐かしい、日独伊三国同盟。

 

白梅学徒隊の解散命令は6月4日には解散命令が出てますし、

ひめゆり学徒隊は…6月18日に解散命令が出たようです。

解散命令後、女子学徒隊(過去形)は鉄の暴風下を彷徨う事となり、

解散命令後の方が戦死者が多かった経緯があります。

 

第32軍が組織的戦闘を終結したのは、

6月23日。その…計算出来ない…3日後に解散命令。

 

9月7日に嘉手納基地で沖縄戦降伏文書に調印するまでが沖縄戦とされてます。

歩兵第32連隊第1大隊長伊東孝一さんが投降をしたのは8月22日ですからねぇ。

8月15日を経ても戦い続けてましたし。

ちなみに、伊東さんは写真左側の丘陵地帯(国吉台樹林)におったにゃぁ~

 

はい、話題を戻しましてっと。
小池さんの最後の訓示(一部意訳)
「日本は戦争に負けました。負ける戦だと分かっていれば、
君たちを預からなかった。
親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない。
捕虜になることは恥ではない、アメリカ軍は、民間人は殺さないから、
両手を挙げて出て行きなさい。

大人数だと目立つので、2、3人ずつで逃げなさい。
決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。

そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」
という言葉の元、女子学徒隊25名のうち、戦死者は3名に留まったそうです。

ただ、ふじ学徒隊の戦死者は3名でしたが、

軍人である衛生兵などは斬り込み攻撃に出て、多くの戦死者が出ています。

6月27日
「南の孤島の果まで守りきて
 御縦となりゆく吾を
 沖のかもめの翼にのせて
 黒潮の彼方の吾妹に告げん」
この辞世の句を詠んだ後に青酸カリで自決されたそうです。
54歳だったそうです。


南部戦跡では多くの女学生が命を落とす中、
こちらの女子学徒隊では戦死者が少なく、
小池さんの英断が、語り継がれております。
しかしながら、再び、浅間山と千曲川の懐に帰りたかったのでしょうね。

 

ふじ学徒隊/積徳高等女学校慰霊碑は那覇市の大典寺にあります。

大典寺正面に向かいまして、右向け右

 

 

学校のある牧志から”→”が東風平に向かっておりますが、
東風平国民学校(現東風平中学校)学校で教育を受けた関係から。

 

 

 

 

こうやって見ちゃうと、

学徒看護隊の戦没者数が…18名になっておりますが、

ふじ学徒隊として従軍をして亡くなったのは3名(1名は戦後自死)。

なので、学徒看護隊の戦没者名は…どういうアレになってますのんうーん

あぁ、あれか、看護隊になる前に、小池さんに戻された人もいるから…

56人に従軍か除隊かの調書を取る。結果、31名が除隊、25名が従軍。

いやいや、それだと除隊だから看護隊としての戦没者名にならないし…

なんでにゃんうーん

 

ふじ学徒隊は3名の生徒が亡くなられましたが(1名は戦後自死)、
学校自体の戦没者は、これだけの数になるようです…
※卒業生という枠は、どこまで入るのか分かりませんが。

 

 

 

小池勇助さんのお墓がある

長野県佐久市野沢にある本覚寺

※以下写真は2022年12月訪問時

 

 

長野県南佐久郡野沢村(現佐久市)に男5人、女1人の兄弟の次男として生まれる。

野沢中学(現野沢北高)を経て、1914年金沢医学専門学校を卒業し、

同年11月金沢歩兵第七連隊に入営、その後陸軍軍医学校で眼科を専攻。

1925年(大正14年)予備役。

帝国大学眼科教室で研究生活の後、

千葉県銚子町(現銚子市)石津眼科病院勤務を経て、

1928年(昭和3年)佐久鉄道(現JR小海線)中込駅前に小池眼科医院を開業。
1937年(昭和12年)日中戦争に軍医として出征、

1941年(昭和16年)から満州、

1944年(昭和19年)8月沖縄へ。

 

 

小池家代々のお墓

 

2023年6月訪問時の写真を追加してみましたん

 

 

生家があったとされる現在の千曲バス本社バス周辺 2023年6月撮影

 

写真正面に野沢町の女男木

先の大戦前からあった樹木。

 

信州・長野県では8月15日が近くなると、

松代大本営地下壕(松代大本営跡)、安茂里の旧海軍地下壕(共に未完成)の

話題ばかりが上がるけど、まぁ、そんな穴掘りばかりを話題にしていないで、

もうちょっと他のことにも目を向けましょうよ…

と思ったりも感じたりもしちゃいますがうーん

 

貞祥寺にある

岳南会戦没者慰霊碑に寄るよ。

 

岳南会は

旧制野沢中学校及び長野県野沢北高等学校卒業生
旧制野沢中学校及び長野県野沢北高等学校職員であったもの
長野県野沢北高等学校在校生及び職員

現在、全国におよそ24,000名(令和2年3月末現在)の同窓生を擁する組織だよ。

 

長野県内としては、よくできた碑文だと思います、はい。

 

墓標を見てみると…

 

3回生の所に小池勇助さんの名前があるよ。

6回生の櫻井貢さんは、第32軍の兵器部長(大佐)だったよ…

 

この慰霊碑は母校である
野沢北高校学校を向いていてね。

 

樹が伸びちゃったけど、見えるんだ、見えるんだ、見えるんだよぉ~。

母校の野沢北高校学校が見えるんだ。
今般、野沢北高校と野沢南高校が統合されるけど、
野沢北高校学校に統合されるよ。

 

JR小海線 中込駅前

左側の茶色瓦に覆われた建物、

喫茶ぽえむがあった位置に、小池眼科医院病院があったと推察されます。

 

小池さんが亡くなり、小池医院も売却されたりで、

その後、区画整理により現在の形態になったそうな。

 

戦後78年の今年、

中込駅前はこのような状況で、

閑散としておりまする。

 

 

 

 

小池さん、今の中込駅だよ。

 

毎朝、この駅から野沢北高校学校の多くの生徒が、

穏やかな時が流れる佐久平の地で、

清流千曲川を越え、浅間山を右手に見ながら

学校に向かっているんだよ。