沖縄平和祈念公園/摩文仁の丘にある慰霊碑のうち

第62師団慰霊碑勇魂の碑黎明之碑を…

沖縄平和祈念公園/平和の丘越しに摩文仁の丘方面。

こうやって見ると横に広い丘になっているのが分かるかと思いまする。

 

第62師団慰霊碑

 

 

第62師団戦没将兵慰霊顕彰碑


第六二師団(戦時呼称石部隊)戦没将兵慰霊顕彰碑


仰々第六二師団は昭和十八年六月独立混成第四、第六旅団を基幹として北支で編成され京漢作戦に偉功を奏す。昭和十九年七月沖縄第三二軍の戦斗序列に編入され仝年八月二十日沖縄本島那覇港に上陸す。戦時呼称を石部隊と称し、師団司令部(石第一八九一部隊)は首里城跡に位置し、配備の重点を浦添村付近に部署す。昭和二十年三月一日華北の独立混成第九旅団長藤岡武雄中将第六二師団長に補職さる。師団長藤岡武雄中将は、独立歩兵四箇大隊を基幹とする独立歩兵第六三旅団(石第三五九一部隊中島徳太郎少将)、第六四旅団(石第四二八一部隊有川圭一少将)の統合編成に師団輜重隊(石三五九七部隊)、師団工兵隊(石第三五九八部隊)、師団通信隊(石第三五九九部隊)、師団野戦病院(石第五三二五部隊)の将兵約八、三〇〇名を指揮掌握、昭和二十年四月一日米軍沖縄本島上陸を遊撃す。中国大陸歴戦の師団将兵は師団長藤岡武雄中将統率軍の下、鞏固たる団結と厳正なる軍規を堅持し、その卓越せる戦斗指揮をもって師団直轄賀谷支隊(独立歩兵第十二大隊石第三五九三部隊)を前方部隊として主力を島袋付近に展開、各中隊は一斉に米上陸軍を邀撃戦斗に突入、勇猛果敢な反撃により随所に敵を撃退し、緒戦にあたり米上陸軍の心膽を寒からしめたり。四月六日第三二軍司令官牛島満中将は四月八日夜半の総攻撃に関する軍命令を下達せるも、七日総攻撃を中止し陣前出撃に変更す。藤岡師団長は隷下第六三旅団主力を首里戦線要地、牧港、嘉数、西原、我如古、上原、一四二高地、南上原、和宇慶の地区に第六四旅団を那覇正面地区に配備、米軍の熾烈な艦砲射撃と砲爆撃下、戦車を伴う米上陸軍の攻撃を全面に受けつつも、師団将兵は堅固な既設陣地に拠り勇戦奮斗これを反撃阻止し、歴戦の精鋭部隊石兵団の真価を遺憾なく発揚せり。彼我戦史にも稀有な嘉数高地攻防の白兵死斗は壮絶を極め(独立歩兵第十三大隊石第三五九四部隊、独立歩兵第二七二大隊)、一五五、一四二高地(独立歩兵第十二大隊独立歩兵第十四大隊石第三五九五部隊)の争奪戦と倶に連日連夜の挺進斬込奪回攻撃、救援奪取攻撃が敢行された。四月十九日失勢にあった米上陸軍は戦艦以下十八隻の艦砲射撃と、野砲二七箇大隊(火砲三二四門)の支援射撃下、有力なる戦車群を先頭にわが師団全正面に総攻撃を開始す。師団の右翼主力陣地の一大拠点であった仲間高地、前田棚原高地、南上原高地、白兵死斗の嘉数高地の攻防戦は、米上陸軍第七、第九七師団との決戦であり、彼我攻防は正に一寸刻みの争奪死斗が連日昼夜決行された。師団隷下諸部隊の戦斗は各級指揮官の攻撃時機の選定機宜に適し、将兵の勇猛果敢な反撃と不屈の防禦により、首里戦線中核兵団の真価を発揮し敵に多大の出血を強要せり。師団兵力も連日の戦斗に、配属部隊を含む十箇大隊中七箇大隊の戦力1/3乃至1/2を損失し、無傷なるは僅かに三箇大隊の状況にあったが、師団将兵の志気は極めて旺盛、主陣地帯を確保し死力を盡して奮戦す。米上陸以来米師団正面交戦中の米軍第二四軍団は二箇師団であったが、わが師団の優勢な攻撃による損害多大のため第二四軍団は三箇師団に増強された。米軍上陸以来四月下旬に及ぶ第六二師団の戦斗は、藤岡師団長統率の下、各級指揮官の卓越せる戦斗指揮と、将兵の旺盛なる攻撃精神による頑強な攻防は正に驚嘆すべきものあり、勇猛兵団石部隊の勇名を首里戦線に轟かせ、その武勲は全軍の亀鑑として軍司令官より感状を授与され、その栄誉は全軍に布告された。


感状
藤岡部隊
同配属部隊
右は陸軍中将藤岡武雄統率の下四月一日中頭地区に上陸せる敵第二四軍団を邀撃緒戦の功を収めてより長期に亘り攻防その宜しきを制し、特に十九日朝以来敵主力三箇師団の攻勢を邀ふるや砲兵隊の緊密なる協同下皇軍の精強を発揮して随所に敵の攻撃を破摧せり。特に右翼方面に於ては陸軍少将中島徳太郎指揮の下挙団火の玉となりて奮戦、約一万二千の敵を殲滅し略々同数の戦傷者を病院船六隻に依り遁走せしめたる顕功正に颯爽たり。この間部隊長藤岡武雄中将の統率極めて機宜を得同部隊の善謀敢斗は全軍の亀鑑たり。
 仍て茲に感状を授与す。将来愈々士気軒昂倍蓰の迫力を以て大君の御為忠則尽命の大節に徹し忠節を全うすべし。
昭和二十年四月二十五日 軍司令官


 牛島軍司令官は軍主力の攻勢移転を決し、総攻撃を五月四日と決定す。藤岡師団長は軍総攻撃に呼應し前田高地奪回の果敢な昼間攻撃を敢行、師団将兵は夫々戦斗部署にありて頑強な反撃戦を展開す。五月五日軍司令官は総攻撃を中止し戦略持久に転移を決す。藤岡師団長は首里地区の防衛を重点とする師団の部署により歩兵第六三旅団長中島徳太郎中将(四月三日昇進)を首里防衛司令官に任命、澤岻高地の洞窟陣地に死を決した第六四旅団長有川圭一少将以下を、血路を拓き首里北側に転進せしめ師団予備とす。五月二十一日軍の最後の戦斗態勢を決定するにあたり藤岡師団長は、首里戦線に散華した幾千の師団将兵と首里洞窟内の幾千の重傷者を思い、首里城跡に討死を決意し首里決戦を具申せるも、軍司令官は五月二十二日喜屋武半島後退を決す。軍最後の戦斗態勢は残存兵力をもって玻名城、八重瀬岳、與座岳、国吉、貞栄平の線以南喜屋武半島地区を占領し、陸正面の八重瀬、與座の両高地を拠点とする主陣地帯に、第二四師団(山部隊雨宮巽中将)、独立混成第四四旅団(球第一八八〇〇部隊鈴木繁二少将)の全力を投入し、以て国軍の全般作戦に最後の寄與することとす。
師団は名城から摩文仁に至る海正面を占領し、陸正面両主陣地帯八重瀬、與座両高地に随時増援戦線投入を準備する如く部署さる。藤岡師団長は師団主力(戦斗員約三、〇〇〇)と配属部隊を指揮し退却攻勢に転じ、五月二十五日有川旅団長をして津嘉山地区に転進せしめ、南下する米軍を阻止しつつ島尻南端喜屋武地区に陣地占領、中島旅団長をして配属部隊を併せ指揮し大里方面に進攻せしむ。師団司令部は五月二十六日夜雨中津嘉山に転進、五月二十九日戦斗司令所を東風平に移動、五月三十日新城にありて戦斗を指導しつつ六月一日山城の師団司令部に到着す。五月三十一日首里は遂に米軍に制せらる。牛島司令官以下は六月一日摩文仁八九高地軍司令部洞窟に到着す。南下来攻する米軍は六月七日頃より、軍の南部陣地北正面第二四師団主力陣地與座岳を強圧し来る予想に反し、八重瀬岳地区に猛砲撃を加え右翼独混第四四旅団正面に連日激烈な艦砲射撃、砲爆撃の集中砲火を浴せ有力なる火焔戦車群により、わが陣地を徹底的に破壊する着実強力なる攻撃をもって進攻、六月十二日遂に八重瀬東方一二二高地北方地区に侵入す。歩兵第六三旅団長中島中将は六月十六日朝摩文仁に進出、歩兵第六四旅団長有川少将は六月十六日東辺名より米須北側五二高地に戦斗師団所を進出す。六月十八日夜第六十二師団長藤岡中将は上野参謀長以下作戦指導に直接必要な少数部下と共に摩文仁八二高地に進出、師団長藤岡武雄中将最後の戦斗部署は、第六二師団は八重瀬岳を拠点とする東部戦線保持のため死斗の限りをつくしたるもこれを放棄し、與座岳を拠点とする藤岡中将自ら選定せる展開線をもって軍の右翼抵抗線となし、具志頭-米須を連ねる線の右に独歩第十二大隊を第一線とする歩兵第六三旅団の二箇大隊(第十二、第十四大隊)、左に独歩第十五大隊を第一線とする歩兵第六四旅団の三箇大隊(第十五、第二十一、第二十二大隊)を配置し、独混第四四旅団は與座、仲座を拠点として全滅を期して防戦する如く部署せり。師団将兵は藤岡師団長最後の戦斗部署につき米軍の物量攻撃に、寡兵よく激烈なる死斗を展開、最後の白兵斬込に歩兵の本領を発揮し彼我混戦状態となる。軍司令官は軍の運命いよいよ最後なりとし最後の軍命令を下達す。─ 全軍将兵三箇月にわたる勇戦敢闘により遺憾なく軍の任務を遂行し得たるは同慶の至りなり。然れども今や刀折れ矢尽き軍の運命旦夕に迫る。既に部隊間の通信連絡杜絶せんとし、軍司令官の指揮は至難となれり。爾今各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し、最後迄敢斗し悠久の大義に生くべしと ─ 軍司令部は各兵団司令部ごとに玉砕することを決す。六月十九日第十方面軍司令官より第三二軍及配属部隊に対し感状を授与さる。六月二十一日遂に摩文仁八五高地は米軍火焔戦車の攻撃を受けるに至り、師団将兵の死斗をつづける貞栄平、米須付近は米軍の包囲攻撃を受けつつも最後迄敢斗しあり。第六二師団長藤岡武雄中将は既に師団の運命尽きたりと、昭和二十年六月二十二日午前二時頃、祖国日本の平和と彌栄と、師団戦没将兵の暝福祈りつつ従容として自決せり。独立歩兵第六三旅団長中島徳太郎中将、師団参謀長上野貞臣大佐以下幕僚もこれに従い悠久の大義に殉ず。師団隷下独立歩兵第六四旅団長有川圭一少将もまた米須北側五二高地付近にて自決し、精鋭を誇った第六二師団将兵も遂に摩文仁八五高地師団司令部眼下の北方山野の戦場に、寡兵よく最後の勇を鼓して阿修羅の如く玉砕せり。ここに謹みて本土防衛第一線この地沖縄防衛戦に、第六二師団長藤岡武雄中将下の赫々たる武勲に香る石部隊玉砕将兵の慰霊と遺徳を顕彰し、世界恒久平和と、戦禍に暝る沖縄県民諸霊の暝福を祈念し建之。


 因に師団長藤岡武雄中将自決の壕を背に立つ第六二師団将兵之碑は、藤岡師団長御令室豊子未亡人の師団戦没将兵の暝福を祈る尊い心づくしにより、昭和三十九年二月二十二日建立された。ここ摩文仁ヶ丘にこのようなゆかりの碑の例をみない。顕彰碑も沖縄防衛戦終焉三十五年祭にあたり、藤岡豊子未亡人の悲願と、遺族、戦友、有志の篤志により建立された。
昭和五十五年六月二十二日 合掌

 

※この碑文文字お越しに3時間以上も掛かったよぉ~アセアセ

所々、碑文に地名の誤字誤表記だったりがある気がするけど、

マンマ文字お越しいたしました。

 

慰霊碑の奥に自然壕が点在しておりまする。

摩文仁の丘は琉球石灰岩地形なので、

至る所に自然壕がありますが。

 

多くの将兵が鉄の暴風から

はたまた、ガソリン入りのドラム缶から身を隠すように

していたのだろうに。

 

この辺りの壕内で藤岡武雄さん以下将兵が自決したようです。

 

第62師団藤岡武雄さん、第63旅団長 中島徳太郎さん自決の地。

 

 

第62師団は

師団長の藤岡武雄さんを筆頭に

第63旅団長 中島徳太郎さん

第64旅団長 有川主一さんなどおりましたねぇ。

 

藤岡さんの奥さんが

沖縄県戦没者慰霊奉賛会(現在の沖縄県平和祈念財団)に

資金を提供して慰霊碑が建立されました。

 

有川中将以下将兵自決の壕の慰霊塔は

娘さんが資金を提供しましたしね。

 

有川中将以下将兵自決の壕/シーガーアブ

いつぞやにブログに致しましたし。

 

尚、第24師団司令部終焉の地は糸満市宇江城にあります、

山雨の塔/クラガー

 

 

第24師団長 雨宮巽中将以下将兵自決の地

なんとなしに、雨宮巽さんの人柄の良さもあるのか、

第24師団の方が良い意味で、沖縄戦で話題になりやすいかも。

まぁ、第24師団には第32連隊第1大隊(伊東大隊)【棚原高地など】がありましたし、第32連隊第2大隊(志村大隊)【前田高地など】もありましたし、

第24師団第2野戦病院【ふじ学徒隊/積徳高等女学校/小池勇助軍医】など、

良い話もありますしねぇ。

しかぁ~~~も、

雨宮さんが八原さんに言った、

まぼろしの『トルーマン給与札束』の件もありましたしゲラゲラ笑い笑い笑い

 

きっと62師団にも話題になることはあるのでしょうが、

どうしても、生存者であったり、

事象を伝える方次第の面が大きくなる戦後史でありまする。

 

 

黎明之碑方面に参りましょい

第32軍関連につきましては、

第32軍高級参謀だった八原博通さんの【沖縄決戦】を、

参考文献と致します。

 

この柵がしている辺りで、

顔を90°左に向けますと…

 

至る所に琉球石灰岩の隙間があります。

それら隙間に身を隠すようにしていたのでしょうし、

現在は一般の方は立ち入れませんが、

奥深い所もあるようです。

 

なんたら壕、なんちゃら壕になっていたのでしょうが。

柵がしてあるので、入っちゃダメだよぉ~、

入っちゃダメだよぉ~ダメよぉ~ダメダメ…この振りをしておいて…

期待をしております…オイ!

 

奥:黎明之塔

手前:勇魂の碑

 

第32軍司令部の将校や軍属を慰霊する【勇魂の碑】

 

左側の岩のようになっているのは、

司令官の牛島さんと参謀長の長さんの墓所跡。

ココからちょいと下った壕内で自決され、

副官がこの場所に埋葬したようです。

 

 

第32軍司令官以下将兵自決の壕(適当にネーミングをしてみた)

 

ちなみに、公開に向けてなにんらかんやらをやっている

第32軍司令部壕は首里にある司令部壕跡

 

 

確かに長さんの言う

【16サンチ砲弾や1トン爆弾を嘲笑する築城】は功をなしました。

大東亜戦争以降も、ベトナムで、アフガニスタンで…

対米戦においては各国築城によって”戦略的持久戦”をやりとげた。

 

米陸軍がテコテコ、ワイワイ、ガヤガヤとやって来る前に、

津嘉山→摩文仁へと転進したので、

直接、この壕がどうのこうのにはなっていないのですが、

壕の公開によって、沖縄戦の実相と戦争の悲惨さを伝えるんですと…

 

米軍の砲爆撃で戦死者は出ましたが、

旧海軍司令部壕のように自決者が出た訳でも無く、

なんやらの第32軍の資料展示施設でも併設すれば別ですが。

 

 

話題は摩文仁に戻すよん。

第32軍司令部戦没者名碑を

まじまじと見る方は極稀なのですが、

気になる名前が沢山あります。

 

刻銘碑右側

 

最上段右上には、

司令官の牛島さんから…井上茂さんってどなたうーん

までの将官、佐官が並びまする。

その後は出身都道府県別。

牛島満さん:第32軍司令官(良い評判、話しかないキラキラ)

 

長勇さん:参謀長(悪い評判しかなく、良い話を聞かないゲラゲラ)

 でも、八原さんは長さんとのやりとりを面白く書かれているので、

 文面を見る限り(→ココ重要)憎めない存在。

 

木村正治さん(中佐):後方参謀

 野戦病院に配属になった女性に

『沖縄には必ず春が来る。だから死んではいけない。生きなさい』と伝え、

 その方は生き残ったそうです。

 

三宅忠雄さん(少佐):通信参謀

薬丸兼教さん(少佐):情報参謀

薬丸参謀は『参謀は指揮官ではない。ここで死ぬる必要はない。』と

そぉ~言っちゃっちゃぁ、そぉ~なるかぁ~うーん

ってな意見具申をして、牛島さんは決裁され、参謀の皆さんは、

6月19日に参謀部洞窟を後にし…その後、皆さんアチコチで亡くなりました。

 

長野英夫さん(少佐):作戦参謀。沖縄戦における陸軍の作戦は高級参謀八原博通さんが起案をしてましたが、作戦書を造ったのは主に長野さん。

長野さん→八原さん→長さん→(ほぼスルー)→牛島さん

※この”ほぼスルー”という点が、沖縄戦におけるポイントだったりしますが。

 

牛島司令官が最後に出した命令の最後の最後に…

「最後まで敢闘し、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と命令を出したと言われてますが、

その1行を付け加えちゃったのが長勇参謀長。

赤字で付け加えちゃったよぉ~鉛筆みたいな。

うんで、いつもの如く、牛島さんは命令書に

黙ってサイン、決裁印をされたようで。

 

元々の命令起案は八原さんに半ば押し付けられた長野さん(おいでゲラゲラ)が、

『親愛なる諸子よ。諸子は勇戦敢闘実に三ヶ月、すでにその任務を完遂せり。

諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。

今や戦線錯綜し、通信もまた途絶し、予の式は不可能となれり。

自今諸子は、各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、

祖国のため最後まで敢闘せよ。さらばこの命令が最後なり。』

と起案しましたん。

 

葛野隆一さん(中佐):高級副官/軍管理部長/軍司令部防衛担当

 牛島さん、長さん自決の後、葛野さんを始めとする副官も自決しましたん。

 

佐藤三代次さん(主計大佐):経理部長。首里に司令部壕があった際、経理部の壕は津嘉山にありました。その後、ひめゆり学徒など学徒と接点があったようですが、佐藤さんの優しさなどの証言が多々残っております。

長さんと陸士同期で無二の仲良しで、碁仇、口仇の間柄。

 

篠田重眞さん(軍医大佐):篠田さんがいらした軍医部壕には

島田沖縄県知事、荒井警察部長も身を寄せていたらしいです。

ここ重要だよ注意

 

轟の壕を出発して以降行方不明と記載されているのがほとんどですが、

摩文仁の軍医部壕に入っておりまする。

以降は、荒井さんはこの辺りで亡くなられたようですが、

島田さんは海岸線を逃避中にお亡くなりになられたようで。

 

そんな軍医部壕ですが、

島田さんと荒井さんを祀ってある島守の塔所から…

島守の塔の階段を上って行きますと…

 

沖縄県知事 島田叡

沖縄県警察部長 荒井退造

終焉之地の碑がありますが…

 

その日の周辺には自然壕が点在をしております。

 

この辺りに軍医部壕があったとされておりますが、

壕の数が多いですし、特定できませぬ。

尚、軍医部壕は

・篠田軍医部長、鈴木軍医中佐、大塚薬剤中尉がいらしたようで…

 

この一帯、法務部、経理部、なんちゃら部の壕が点在をしていたので、

どこがどの壕だか、知っている方は知っているのでしょうが、

僕タンは承知しておりません。

 

慰霊碑刻銘簿に戻りましてっと。

佐藤雄寿さん(獣医大佐):6月15日前後に米軍の空中より

 ガソリンの入ったドラム缶焼夷攻撃により戦死

 

池田和美さん(法務少佐):んうーん

井上茂雄さん:えぇ~っとぉ、どなたうーん

 

※左余白

左から2番目の所に京僧彬さん(少佐)の刻銘

 

沖縄戦の始まる直前である3月に歩兵学校から対戦車戦普及教育の為に

沖縄に来たら、地上戦が始まって本土に帰ることも出来ず、

独立混成第44旅団臨時参謀になりましたん。

 

独立混成第44旅団自体、文字通り混成なので、

ひとつにした慰霊塔は無く、京僧彬さんも第32軍司令部の刻銘碑に

名を刻まれたものと推察されます。

※万朶之塔:独立混成第44旅団工兵隊慰霊塔

 

※右余白

左に坂口勝さん(大尉)の刻銘

坂口さんは牛島満さん、長勇さん自決の際の介錯役。

その後、副官の多くが自決したことから、

坂口さんも自決したものと推察されます。

 

坂口さんは

長さ30cm、幅10cmの板に、それぞれ

【陸軍中将牛島満之墓】

【陸軍中将長勇之墓】と墨書したとされますが、

その写真はアチコチの資料を捜しても見つかりませぬ。

 

刻銘碑左側

刻銘碑は右から左に県別で刻銘されているので、

沖縄県が分かれちゃっているのですが…

 

沖縄県の最初が賀数清次さんなんですよねぇ。

名字はカカズだと思うのですが。なんでだろー。

賀数清次さんと言えば、

元々は嘉数清次と刻銘されており、

漢字が違うってなことで、刻銘され直しました。

写真を見ると、分かるかもですが。

 

賀数さんは軍医なのですが、崎山章子さんの場面で登場します。

崎山章子さんは、どこぞの御令嬢で、

軍司令部が安里の蚕種試験場にあった時から、軍属だった気がする。

 

着目すべきことは女性の名前が多い事。

一部抜粋いたしますが、一目瞭然かと。

軍司令部付女子雇員も多かったですし。

女子学徒ばかりが話題にあがりがちですが、

軍属として成人(?)女性の多くも犠牲となりました。

 

6月8日夜に大きな荷物を背負ってやって来た、

首里司令部壕にいた(南部転進前に散開)、

はは~ん(八原さん風)の総勢約30名の娘さん達が、

この中に含まれているかどうかは分かりませぬ。

 

30歳をちょっと過ぎた中学校教師の未亡人の平敷屋さんを始め、

仲本さん、喜名さん、与儀さんは壕を脱出後、米軍に収容されたようですし。

 

尚、長野県

櫻井貢さんは兵器部長(大佐)だったよ。

八原さんの本では兵器部長は平岡大佐となっているけど…

 

各種検索しても出てこなかったけど、

防衛研究所の資料に残されていた。

10・10空襲以降に運命の沖縄の地に赴任になったんですね。

 

長野県佐久市 貞祥寺のちょっと上にある岳南会戦没者慰霊碑

 

6回の所に櫻井貢さんの名前がある。

3回の所にはふじ学徒隊/積徳女子学徒隊を率いた

小池勇助さんの名前があるよ。

 

この慰霊碑は母校である

野沢北高校学校を向いていてね。

 

この慰霊碑の所からは、

母校の野沢北高校学校が見えるんだ。

樹が伸びちゃったけど、見えるんだ、見えるんだ、見えるんだよぉ~。

今般、野沢北高校と野沢南高校が統合されるけど、

野沢北高校学校に統合されるよ。

 

司令官牛島満さんと参謀長長勇さんが祀られている黎明之塔

6月17日にバックナー中将からの降伏勧告文が

前線兵士を経由して、軍司令部に届いたそうです。

『(前略)翌12日摩文仁海岸沖の軍艦上に当方の軍使を待機せしむべきをもって

貴軍においても軍使5名を選び、白旗を持たせ、同海岸に差し出されよ。』

って、もぅ、既に期限が過ぎまくりじゃないよぉ~ガーン

降伏勧告文到着日:6月17日

降伏期限日:6月12日

 

牛島さんが降伏勧告文鉛筆の件ですが、

”最高司令官 サイモン・B・バックナー中将が牛島に向けて送った降伏勧告文が牛島の手元に届いたが、牛島は一笑に付して、これを黙殺している”と、

あちこちで見掛けますが、まずもって、到着日と期限日の関係から、

黙殺などではないのは自明の理として、”一笑”の部分は、

バックナーさんからの降伏勧告文の冒頭に

【歩兵戦術の大家である牛島将軍よ。】と書かれた所に対し、

『ついに俺も歩兵戦術の大家にされてしまったな』と破顔一笑ゲラゲラ笑いしたってな

お話でございまする。

 

この沖縄本島南端の海岸を海を見渡すにつれ、
それは、悲しみの碧色に見えて仕方ないのです。

 

 

78年前、この海は多くの遺体で埋め尽くされました。
今も悲しみに埋め尽くされた、そのような海に見えます。

 

 

国道331号線から見る黎明之塔周辺

ポコンと丘になっているのが分かるかと思います。

 

昭和20年6月23日0430

牛島満さん、長勇さん、自刃する。

6月22日説などもありますが、

23日にしないと、あっちもこっちも日にちがずれて、

整合性なんか取れなくなりますので、23日にしてちょm(__)m

 

黎明之塔の入口にある階段を下ってきた所。

ここで写真右側の階段へ下って行きます。(案内表示は出てません)

ちゃんと、ここでターンをしないと、

健児之塔までの長い下り階段を下りることになっちゃうよ。

 

司令部壕入口
案内などは出てませんので。

 

生きて故郷へ帰るという選択肢を排除されたその時代、

78年経たイマでは、選択肢は増えたように感じます。

ただ、選択肢が増えれば増えるほど、

その分岐点に立たされた時に、

悩み苦しむ機会が増えるのかもしれません。

 

悩み苦しむというのが人間の本質であるのならば、

その本質に抗うだけの知恵や経験が必要となってくる。

そして、その知恵や経験は、琉球石灰岩に散って行った皆様の想いの上に

成り立つと信じております。

 

~~ 八原博通さんのあとがきを抜粋するよ ~~

戦後、沖縄戦に関しては数多くの文書が出ている。

しかしそれらの大部は作戦の根本に対する検討が不明瞭で、

本質をはずれたものや事実の誤認に立脚したものが多い。

沖縄作戦は、決戦か持久か、作戦目的が混迷し、幾多の波瀾を生じた。

その間の真相を知るものは、おそらく私唯一人と確信する。

歴史のかなたに埋没するのは残念である。

本書を世に公にする所以である。

 

※ブログ掲載の写真(沖縄摩文仁の丘)は

2022年11月7日並びに2023年2月26日訪問時撮影の写真を

使用しております。