昇魂之碑から高濱機長を始めとする運航乗務員の所へ


 

世の中で残酷な装置と言ったら・・・

原爆はてなマークいや使わなければ良いだけですから・・・

ボイスレコーダー・・・僕なら、そう答えます。

最期の瞬間まで肉声を記録する装置、

ボイスレコーダーの解析って残酷だよね。

 

JAL123便のボイスレコーダーの公開まで

年月が掛かりましたが、それによって、事故の状況が

広く国民に知れたかと思います。

 


写真中央部に”人”が写っておりますが、

管理人の黒沢さんでございます。

 

黒沢さんは4月下旬から10月まで

御巣鷹の尾根全体を管理されておりまして、

分からない事がありましたら、聞いちゃって下さいまし。

 

うんで・・・

黒沢さん:「ご遺族の方?」

我が家:『いえ、違いますよぉ』

黒沢さん:「日航関係者?」

我が家:『・・・いえ、そういう訳でも・・・(微妙)』

黒沢さん:「その花はどちらに?」

我が家:『高濱機長の所に』

黒沢さん:「後で日航の関西の方が来るって・・・

       あぁ、機長の所は水が無かったから、コレを持って行き」

 

ってな事で、水の入ったペットボトルを渡されて尾根道を進みます。

 

 

 

 


再び、御巣鷹の尾根の概略図を・・・

昇魂之碑から上部のX岩の所まで尾根道を上がってまいりますよん。

 

 

昇魂之碑付近には

茜観音、遭難者遺品埋設、祭壇などが集まっております

 

下:遭難者遺品埋没の場所

上:祭壇の建物

 

 

 

 


茜観音

 


茜観音の所の慰霊碑

ココは乗客と乗員の氏名が分かれて記載されているのでございます。

 

JAL123便 JA8119号機 墜落地点の碑

まぁ、どこをもって墜落地点とするのか、

微妙ではありますが、ココが墜落地点。

 

1985年8月12日 18時56分26秒

JAL123便 JA8119号機 ここに墜落

524名搭乗

乗客 505名死亡

乗員  15名死亡

 

ご存知かと思いますが、

機体は分断され、機体後部はすげの沢に落ちていき、

そちらで4名の生存者が発見されました。

 

現在、JAL122便、JAL123便は欠番となっております。

先般、伊丹→羽田搭乗便がJAL124便でしたので、

欠番の次の便となります。

 

その時の記事はコチラに・・・

http://ameblo.jp/kamizoh/entry-12024419052.html

 

 

 

尾根道を登って参りましょう

 

事故当時の木でしょうか。

焼け焦げた跡がそのままに

 

尾根道は歩きやすくなっております

 

切り株もそのままに・・・

 

振り返るとU字溝が見えますねぇ

 

U字溝

 

中央上部の岩に白い文字で『×』と書かれている所があるかと思いますが、

そちらが×岩と呼ばれる所でございます。

×岩はココに墜落をしたという訳ではなく、

事故調査の際に、測量の基点となった場所なのであります。

 

この辺りは墓標の数が多いですねぇ

 

×岩

 

岩の間からドウダンツツジの木が育ち、

花を付けておりますよ。

 

さてさて、尾根道もそろそろ頂上になります。

左側のハシゴを登った所に・・・

 


運航乗務員3名の墓標が・・・

左側にありますルピナスは持ってきたものでございますよん。

ペットボトルは、黒沢さんに渡されてもの。

下まで持ち帰るよん。

 

お線香の残りがありました。

我が家もお線香を持て来ましたが、なかなか火が付かない。

そうそう、暗黙のルールと言いますか、

お線香をポイポイと置かれますと、山火事の原因になりますので、

このようなお線香置きがある所や、

無い所ですと、鎮火を確認してから帰りましょう。

 

また、お供え物(特に食べ物)は、野生動物に荒らされますので、

持ち帰りましょう。

 

うんで、お花などは・・・

あっ、黒沢さん、どうしよう・・・

後から関西の方も上がって来るし・・・

(帰り道ですれ違いましたが、彼らは大きな花束3束持ってましたけど・・・)

 


皆様を含め、520名の命が失われる事故となりましたが、

皆様のおかげで、4名の命が救われ、

また、人家など、人口密集地への墜落を防ぐにあたり、

被害を留める事になりました。

 

おそらく、ご遺族の方々にとっては、

尊い血縁関係者、あるいは友人、知人と二度と会うことが

出来なくなり、事故当時は、

日本航空はもとより、特に運航乗務員への風当たりが強かったと

耳にしております。

 

機長が亡くなったと言えば、

1999年7月23日羽田発千歳行の全日空61便がハイジャックされ、

長島直之機長(51歳)が刺殺されるという事件が起こりました。

 

今、その事件についてマスコミ等で放送されることも無く、

多くの人々の記憶からも消えてしまっているようですが、

褒める材料の少ない全日空を賞賛すべき点は

あの時、古賀和幸副操縦士や乗客が犯人を押さえつけなければ、

横田付近に墜落をし

乗員14名、乗客503名+住民が亡くなるという

大惨事になりかねなかった事象がありました。

その時も夏休みで航空機はほぼ満席状態。

 

ふと・・・守って頂きましたはてなマーク

って思った事象でした。

 

 


中央:機 長 高濱 雅己(49歳)
左: 副操縦士 佐々木 祐(39歳)
右: 航空機関士 福田 博(46歳)

 

機体制御不能の中、

大阪(伊丹)に向かう事も、

名古屋(小牧)に向かう事も、

あらゆる選択肢が失われた中で、

羽田へ戻ろうと、そして、どこかに不時着できる可能性を信じ

操縦稈を握り続けた、佐々木副操縦士。

 

荒々しい言葉づかいながらも、最後の一瞬まで

可能性を信じた、高濱機長。

終始冷静なアドバイスを送り続けた福田機関士。

皆様の職務遂行に対しての姿勢を忘れる事はありません。

 

僕タンの現在までのJALマイレージバンク設立以降の

登場回数61回

(内訳:国内線 28 回 国際線 33 回)

 

そのうち、

1)成田→グアム

  成田空港出発準備中に速度計不具合により60分のディレイ

 

2)ミラノ(マルペンサ)国際空港→成田

 ミラノ空港タキシング時に主翼に結氷物付着によるスポットへの帰還

 

イレギュラーと言えるか分からない程度の事が2回ほどあったくらいです。

この2回は”修理する事””引き返すこと”という選択肢がありました。

あらゆる選択肢を失っていた、JAL123便とは大違いです。

 

現在、鶴丸飛行機に登場するたびに、

 

日本航空運航乗務員の技量の低下を感じるようになりました。

機材の発達により、マニュアル部分が少なくなり、

人の技量が重要視されなくなったからでしょうか。

いくら、機材がコンピュータ化されても、

最後はマンパワーに頼らざるを得ない部分が多いのは確かです。

 

本年4月5日(日)、羽田発の日本航空455便が着陸の

許可を得て実行しようとしたところ、滑走路内に作業車両を発見。

日航機はタッチゴーをし、事なきを得たという事象が徳島空港でありました。

皆様の後輩方が、緊急時の対応を日々訓練している成果だと思います。

 

ただ・・・今でも言われ続けているのが、

皆様3名の運航乗務員よりも優れた人材が出ない事、

今後も出ないであろうという事を・・・

 

(墓標の前よりU字溝方面を・・・)

 

昨年の御嶽山噴火

紅葉の時期、週末、お昼時

という余りにも偶然が重なる中での噴火により、

57名の命が失われました。

 

JA123便

お盆の時期、夕方、羽田→伊丹路線

どうして、こうも神様は酷な偶然を重ねるのでしょうか。

 

だって、神様は試練を与えるっていうけど、

これは試練じゃないんだよ、試練は乗り越えるためにあるけど、

人は死んじゃったら、何もできなくなっちゃうんだから・・・

 

 

 

来年から祝日として山の日が8月11日に施行されます。

元々、お盆前の8月12日が祝日になる予定でしたが、

日航機墜落事故の日を祝日にするのは・・・

という事で、11日になったそうです。

永田町にも気に掛ける議員さんがいたもんだと、

ほんのちょっと安堵したものでした。

 

 

また、来ますね。

皆様の後輩方が運航している飛行機の登場回数を増やして、

また、来ますね。

 

美谷島 健 くんの墓標

いつもドラえもんなどのぬいぐるみが置かれております。

 

昨年のドキュメンタリー番組等でも放送されますが、

9歳での初めての一人旅が、このJAL123便でして、

母親の邦子さんは遺族会事務局長をされたり、

本を出されたりでございます。

 

この墓標は東京方面を向いており、

その先には木が無く、視界がはれているのだとか・・・

 

その通路を平行移動してまいりますと、

大島九(芸名:坂本九)さんの墓標が

 

僕の世代ですと

坂本九と言われましても、

「上を向いて歩こう」の歌くらいしか知りませんし、

知っている方は知っているし、知らない方は知らない有名人となりました。

 

 

天高く、空青く、緑輝く

すげの沢まで下りが続きます

 

どなたかが、お供えをしたものなのかなぁ

何気ない苔むした岩の上にポツンと・・・

 

スゲの沢には累々たる墓標が立ち並んでます。

 

機体後部部分が墜落地点から、

斜面を滑り落ちて、すげの沢へ

 

墜落当時、多くの生存者がいたようですが、

結局は4名のみの救助となりました。

 

 

 

黒沢さんが木や植物を増やしているのですが、

スゲの沢の所には水芭蕉が・・・

もぅ、時期は過ぎてしまってますが、

鹿からの食害を防ぐための工夫なども行われております。

 

スゲの沢を後にします

 

山小屋の所にいらした

黒沢さん(左)にご挨拶をして、下りましょうかぁ。

 

黒沢さんの服の左胸には

「御巣鷹の尾根

 山守 黒沢」と書かれてます。

誇り高き刺繍です。

 

ちなみに後ろに写っているのは上毛新聞の方々ね。

そう、あのクライマーズ・ハイの新聞社

 

帰りにカウンターの人数を見ちゃってっと


慰霊の園に向かいましょう

もぅ、この日は御巣鷹の尾根も慰霊の園も人が多かったです。

 

TV局の取材やら、どこぞの法人の団体が2つやら、

賑やかなのは良いのかもしれませんが、

あのぉ~、全員集合での集合写真を笑みで写るって、

どうなのかと思いますけど。

 

 

きっと、各TV局が特番を放送するのでしょうねぇ

 

高濱 雅己
 

佐々木 祐

 

福田 博

 

茜観音の慰霊碑とは異なり、

乗員乗客一緒に名前が刻まれております。

 

 

 

 

今年の8月12日は報道陣が大勢押しかけて、

また生中継だのなんだのがされるのでしょうねぇ


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