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料理をし、麻雀をし、韓流ドラマに身を焦がす。病に慄き、自分のバアさんっぷりに愕然とし、それでも身近なものから天下国家までをとことん憂えて怒り狂う。淡々と豪快に生きる老境の日々を綴る超痛快エッセイ。人生を巡る名言、ゴロゴロ転がっています。

 

 

 

佐野洋子さんは

1938年北京生まれ。

絵本作家、イラストレーター、

エッセイストでもあった。

 

 

 

この『役にたたない日々』は

2003年の秋から

2008年の冬までのエッセイ集。

著者の年齢で言うと

64才から70才にあたるころ。

 

 

 

2010年に72歳で亡くなっているから

晩年の作品ということになる。

 

 

 

60代後半から70代にかけては

女性にとってどういう年齢だろうか。

30代後半の私にとっては

ちょうど母親世代の年齢で、

いまから30年先の未来。

 

 

 

会ったこともないけれど

親愛を込めて洋子さんと呼ぶ。

 

 

 

洋子さんのエッセイを読むのは

この本で4冊目になる。

初めて読んだのは

『神も仏もありませぬ』で

洋子さんが60代前半に書いた作品。

 

 

 

あまりにパンチの効いた文章に

思わず仰け反りながら読んだ。

男の人は歳をとると丸くなるけど

女の人は豪快になるんだなぁって

洋子さんの姿を見て思った。

 

 

 

いや、ひとことで豪快というより

「老い先短いのになりふり

かまってられない」っていうか、

「怖いものなしになっていく」

と言った方がふさわしいのか…。

 

 

 

この人も10代のころは

花も恥じらう乙女だった時期が

あったはずなんだよなぁと思うが

人間、歳を重ねると変化するものである。

 

 

 

今の世の中、60才以上の女性の

暮らしにまつわるエッセイや

SNS上での文章を見かける

機会はずいぶん増えたけれども、

世の中に出回るものというのは大抵

「歳を重ねてもいつまでも素敵なままで」

という、憧れを抱かせるようなものが多い。

 

 

 

だが、洋子さんの場合は全く違う。

自分の老いをひしひしと感じては

「バアさん」になったもんだと嘆き、

身の回りの人間観察をしては

言いたい放題に悪態をついたりする。

どこにも取り繕ったところがなく

清々しいほど「素」を曝け出す。

 

 

 

例えば2003年秋のエッセイに

こんな文章が出てくる。

 

 

 

 パンがなかったので、コーヒー屋に朝めしを食いに行く。歩いて二分で着いた。金さえ出せば朝めしが食える都会はすごい。セルフサービスのトレイを持ってソロソロとつきあたりまで歩いた。ひとつだけ小さいテーブルがあいていた。壁を背にして六個くらいのテーブルがあった。タバコに火をつけて壁を背にしている人たちを見回した。全部女だった。全部ババアだった。四人はスパスパ、タバコを吸っていた。

 

 

 

 

「全部女だった。全部ババアだった。」

の書きっぷりが、強烈すぎる。

 

 

 

そんなことを言う著者だって

女であり、バアさんの一人なのだが、

なんとも毒っ気のある

あっけらかんとした表現。

 

 

 

もしも文章がここまでだったら

ただの嫌なバアさんで終わりだが

そうはならないのが

洋子さんの、洋子さんたる所以。

 

 

 

昔はこんなバアさん居なかった。きっと全身独身者のオーラが立ちのぼっているだろう。明日同じ時間に来たら同じ顔ぶれかも知れない。そして誰も人と話をしない。意味もなく力がわいてきた。史上初めての長寿社会での私達は、生き方のモデルを持たずに暗闇を手さぐりしながら、どのように朝めしを食うか開発せねばならない。そしておのづからそれぞれ選びとるしかない。

 

 

 

そうだ、そうかもしれない。

歳をとったからといって

しょぼくれてなんかいられない。

誰も教えてくれなくたって

女達は自分の生き方を選び取っていく。

娘でもなく妻でもなく母でもなく

「自分」の時間を愉しむために。

 

 

 

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この洋子さんは60代の後半で

乳ガンになり手術をした。

2005年の春には、

こんなくだりがある。

 

 

 

 一年前乳ガンの手術をした。ガンと聞くと、私の周りの人たちは青ざめて目をパチパチするほど優しくなった。私は何でもなかった。三人に一人はガンで死ぬのだ。あんたらも時間の問題なのよ、私はガンより神経症の方が何万倍もつらかった。何万倍も周りの人間は冷たかった。私の周りから人が散っていった。

 人を散らすような私になっているのだ。やがて私は死にたくもない死ねない廃人になって生きながらえるのか、心底ガンの人が羨ましかった。そんな事を口に出したら、わずかに残った心優しいと友人達も飛びはねてどっかに行ってしまうだろう。私の神経症は一生治らない。今でも治らない。

 ガンはおまけの様なもだ。

 

 

 

このエッセイを書くまでに、

いったいどれほどの

気持ちを抱き抱えて

この人は過ごした事だろう。

 

 

 

小さい頃の弟との死別、

自分自身の離婚、

母親の認知症や介護、

そして乳ガンによる闘病生活。

 

 

 

「ガンはおまけの様なものだ」

決して強がっているわけではなく

気丈にならざるを得なかった、

そんなふうに感じた。

憂いたってどうせ人間、

いつかは全員死ぬんだしサ、って

諦観しているようだ。

 

 

 

 

…しかし、季節が進み状況は一転。

死を予感した彼女は、次第に

悟りの境地に近づくのかと思えば、

突然、思いもかけないものに出会い

ハートを鷲掴みにされるのだった。

人生って本当にどんな展開かわからない。

 

 

 

 私は韓流ドラマに身をもちくずした。気の小さい私は、人から見たら、素っとん狂でも何かに身をもちくずしたことはなかったと思う。

 ブランドに狂ったこともなく、美食に走ることもなく、旅行もめんどくさく、男あさりをしたこともない。映画もビデオ屋で借りて見ていた。しかし「冬のソナタ」DVDが家にあって、ヨン様が家に居てくれると安心してから、ボックスごと次々に購入し始めた。これが安くない。次から次へと家の棚に並び、新星堂のニイちゃんに顔を覚えられたらどうしようとドキドキしたが、何がどうしようだ。ただの韓流バアさんと思われるのが嫌なのか、ただのバアさんなのに。

 

 

 

韓流ドラマ、それも「冬のソナタ」。

まったく、ヨン様はすごい。

洋子さんの世界を一気に変えてしまった。

いかに韓流ドラマがすごいかを

褒めちぎる文章が連発される。

 

 

 

 

 私は本当に日本の小母さんに感謝したい。宣伝に踊らされたわけでもなく、えらい評論家にそそかされたものでもなく、小母さんたちは自ら発見し、地中のマグマのように津波のように、どーっと韓流ドラマを押し上げたのである。そして恥も外聞もなくのめり込み、日本を変えた。外交官も偉い学者も芸術家も出来なかったことをやってのけてしまったのである。私などそのしり馬におくれて乗り、身をもちくずしているのである。

 そして私のオドオドしている気持ちを解放してくれた。それどころではない、私を幸せにしてくれた。もう私はこの一年依存症であった。同じドラマを何度でも見るのである。時間がかかる。それでも見ずにいられない。

 

 

 

身をもちくずして上等だ。

思わず色目気だってしまうような

夢中になれるものに出会えるなんて

幾つになっても最高に幸せだ。

 

 

 

洋子さんの生活からは、

病気の暗さはそそくさと散り、

ひたすら韓流ドラマによって

幸せなモードに切り替わった。

 

 

 

エッセイを読みながら

驚いたり、しんみりしたり、

人生について新しい視点に

気付かされたりする。

 

 

 

『役にたたない日々』という題名は

彼女の痛烈な皮肉っぽさを感じるけど

人間臭くて、私は好きだなぁ。

30年経ったら私もその境地に

近づいているのだろうか。

 

 

 

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▽『私はそうは思わない』

この人の意固地な感じが

タイトルに現れていて好きだ。

 

 

 

 

 

▽『そうはいかない』

まるで物語のようなエッセイ集。

 

 

 

 

▽『神も仏もありませぬ』

最初に読んだ佐野洋子さんのエッセイはこの本だった。

この本から、洋子ワールドにハマる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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