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 四歳の時、明日が精一杯の未来でした。十九の時、未来は永遠の長さのように思われました。三十五の時、私は少し疲れました。あと十年子どものために頑張ろうと思いました。そして今、いつ死んでもいいやと思っています。ーーー「ポリバケツの男」より。

 

 

 

『百万回生きたねこ』の作者、

佐野洋子さんのエッセイ。

1989年から1992年にかけて

雑誌で掲載された作品集らしい。

 

 

 

ひとつめの作品「めがね」。

三千万をだましとられた(らしい)女性と

聞き役の女性の会話。

 

 

「ねぇ、世の中の人って冷たいわね。私が三千万だまされたって言ったら、まず同情すべきじゃない。それが百人が百人とも、えっ、あなたそんなお金持っていたの、知らなかったわぁって言ってねたむのよ。それから、私もだまされるほどのお金欲しいわぁって言うのよ。あれって何?やきもちなのかしら」

「私、三千万なんて実感ないからわかんない。でも、あんたが欲張りだってことは前から思ってた」

「もう欲なんかかけないよ。欲って、かく種があるからかけるのよ。私もう種もないの」

 

 

 

果たしてこれは、

本当にエッセイなのだろうか?

やけにあけすけな会話だ。

狐につままれたような顔で読み進める。

 

 

 

二つ目の作品は「あのひと」。

容姿に自信のない「私」は

恋をして初めて

自分が素敵になれた気がした。

 

 

 

「私、きれい?」

「顔なんかなくても好きだよ」

とその人は言った。私は嬉しくて口惜しかった。

 

 

 

「あんなきれいなひと、いるの?」というほど

とても美しい女性に、ある時出会った。

きれいな彼女は「私」が恋した男性と結婚した。

しかたがないとおもうのがさみしくて泣いた。

 

 

 

ずいぶん経って、街で見かけたら、

「私」を捨てた男性はしょぼくれ、

隣を歩く「あのひと」は、

全然きれいじゃなくなっていた。

二十年が経過していた。

 

 

 

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この前読んだ江國香織の、

『いくつもの週末』は

“物語のようなエッセイ”だったけど

佐野洋子のこれは、

“エッセイのような物語”だ。

 

 

 

それも優しい童話ではなく、

ちょっぴりアクが強くて

イソップ物語みたいに

シニカルで大人びた寓話。

 

 

 

人生の苦い一面を

わざと物語風に仕立てたみたい。

まさにタイトルの如く、

「そうはいかない」。

 

 

 

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「それがあ、明じゃなくてその女の方が明に迫っているみたいなのよぉ。明、困ってるみたいなの、オロオロしてしまってぇ」

 すごい血わき肉躍る話ではないか。しかし私は、ゆっくりゆっくり話すどでかいカオルを見ていると、ファーファーファーとあくびが出てきそうになるのである。ーーー「とろとろ」より。

 

 

 

こういう表現、ばかばかしくて

わたしはとっても好きだなぁ。

 

 

人の不幸にきょうみしんしんで、

面白がっておきながら

そのくせファーファーファーと

あくびを咬み殺しているなんて。

 

 

 

ちょっとクセのある作者の性格が

いきいきとあらわになっている。

只者じゃない感が、

物語にも映り込んでいる。

 

 

 

あんなに元気で、おっとりとおおらかな女には不幸など寄りつかないし、寄りつけたとしても、いずれいいあんばいに不幸の方がどこかに旅立ってゆくのである。不幸は、不幸が好きな人間にしっかりと住みつくものである。ーーー「とろとろ」より。

 

 

 

こんなこと言われちゃうと

そんな気になってしまう。

エッセイというか寓話というか

悟りのような風味。

 

 

 

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もっと後になって,

同じ作者が書いたエッセイ、

『神も仏もありませぬ』も

以前読んで面白かった。

 

 

六十年生きたらこの境地になるの?

信じられない、って思う。

普通に生きてても次元が違う。

全く、並の人ではありませぬ。

 

 


 

 

 

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