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こんな大人たちがまだいる、大人の姿をしていても子どものように世界を見つめ、書くことだけをこつこつやり、少しでも世界を良き場所にしようとしている。(吉本ばなな あとがきより)
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『人生の道しるべ』は、2015年に出版された、宮本輝と吉本ばなな、二人の作家の対談集。吉本ばななは、大学を卒業したばかりの若い頃に、当時三十代だった宮本輝の元へ、編集者と一緒に訪ねたことがあるらしい。それから三十年近くを経て、六十代の宮本輝と、五十代に差し掛かった吉本ばなな。ともに作家として第二円熟期に差し掛かった二人が、「作家の資質」「人間の成長」「父として母として」「心と体」「書くこと」などについて、静かに語っている。
対談のなかで二人はお互いに、自分たちの書く作品には下卑たやつ、嫌なやつが出てこないよねと話す。書こうとして書けないわけではない、悪いやつを書くのは簡単だけれど、そうしていないのだ、と語る。作家として、小説世界を通して伝えたいことは、現実世界の不条理をそのままを写す物語ではなく、読んだ人が受け取った時になにか温かさを感じ取ってもらえるもの。だから物語には、小説だから伝えることのできる、人間の美しさも書くのだ。
宮本 しかし文学というのは、、自分の庭で丹精して育てた花を、一輪、一輪、道行く人に差し上げる仕事なのではないかー。これは、もともとは、柳田国男の言葉です。小説を書き始めた当初から、この言葉がずっと、ぼくの頭にありました。現実世界は、理不尽で大変なことばかりだからこそ、せめて小説の中では、心根のきれいな人々を書きたいと。
吉本 でも私は、自分のことをあんまり作家だというふうには思っていなくて、何か実用品の販売…ニュアンスとしては桶を作って売っている人のような感覚があります。とりあえずこれを買えば、今日はこういう気持ちになれる、ということが保証されている商品を商っている気持ちです。
宮本 (前略)ぼくは、どれぐらい長生きできるかわからないけど、この境地で短編が書けるようになりたいと夢見ています。楽しいもの、幸福なもの、心根のいい人の出てくるものを、一輪の花のようにすっと差し出す。ちゃっちゃっと、手すさびで遊びながら書いたものが、元気のない人を勇気づけたりできれば幸せですね。でもこれは、職人的な、長い経験と鍛錬の末にようやく至ることのできる境地でしょう。一年や二年ではとてもとても。何十年もの鍛錬と経験が、それを可能にするんです。
吉本 私は、二十歳を越えた頃、小説を書いていて、あることに気づいたんです。みんな同じなんだな、って。たとえば死について、いつもは見ないことにしたり、心の底に押し込めたりしているんだけど、みんな何かを感じている。そこのところをうまく言語化して物語として差し出すことができれば、読んだ人に「あ、自分と同じだ」と感じてもらえるはずだと思ったんです。そしたら、ちょっとした治癒が起きるんじゃないかと。自分がもやもやと考えていたことが書かれていれば、読者はどこか安心できるんじゃないかと思うから、いまでも小説を書き続けているということはあります。
そういえば以前、吉本ばななのお父さんの吉本隆明の『真贋』という本を読んだときに、
文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です。
ということが書かれていたけれど、読者が小説を読んでいて「あ、自分と同じだ」と感じてくれれば、なんらかの心理的治癒をもたらすことができるんじゃないか、と吉本ばななが語るのは、なにか通じるものがあると思った。小説だからこその効用のようなものってある。それを吉本ばななもきっと信じている。だから書き続けているのだ。
対談集のタイトルの『人生の道しるべ』とは、なにを示しているのだろう。生きるっていうのは楽しいばかりではないし、ときに無情なことに出くわし絶望することだってある。しかし、どういうことがあっても、人生を肯定していけたらいいよねという作家たちの想いが込められているのではないか。二人の作家の小説への向き合い方と作品を眺めて、そんなことを感じた。小説は人生という道をすいすいと運んでくれる乗り物ではないけれど、行き先をほのかに照らしてくれる灯りのように、自分の心に寄り添ってくれる。
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吉本ばななの「あとがき」がとても良かったので最後に。
みんなが本を読まなくなって、日々はやたらに忙しく早い回転ばかりを求められ、ゆっくりものを眺める時間もなく、短時間のひまつぶしには満ち溢れているこの時代の中では、まるで「深く考えちゃだめだよ」「そうしたら苦しくて損だよ」と言われているような気持ちになることが多い。そういう傾向は私が若い頃からもちろんあったけど、いまはもう常識になってしまった。
でも、それは違うんだと輝先生ははっきりと示している。
そして人生を真っ向から生きることで得られるもののなにものにも代えられない宝物のことを、常にぶれずに迷わずに話してくれている。
こんな大人たちがまだいる、大人の姿をしていても子どものように世界を見つめ、書くことだけをこつこつやり、少しでも世界を良き場所にしようとしている。
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▽吉本ばななの本はいつもどこか物悲しい。
さんさんと光の降り注ぐ晴れた日の、家の中の日陰の涼しさのような、
1枚内側に潜んだしんとした静けさがある。
『TUGUMI』という物語は、「美しい日々は永遠ではない」ということを思わされる。終わりがあることは悲しいが、幸せだったことを後悔することはない。
▽初めて読んだ宮本輝の本は、『私たちが好きだったこと』。
四人の男女の恋愛と、2年間の共同生活を描いた、淡くて切ない物語。
この小説に出てくる“静かに、しのぐ…”という言葉が、すごく好きだ。
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