皆さん、こんにちは。暑さから一転、雨模様とともに急に寒くなりました(涼しさを通り越して寒いといった方がピッタリです)さて、今日は、東区の松崎にあります三面地蔵碑のご紹介です。国道3号線に面した火の見下交差点から少し西へ向かうと3号線と別れる504号線の分岐点があります。分岐点で504号線を南下してしばらく多々良の方へ歩いて行くと松崎1丁目-18付近で注意深く道路脇を注意していると三面地蔵碑の案内標識が見つかります。


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脇道を折れていくと直ぐにやや広い場所に出ますがそこに地蔵堂があります。
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地蔵堂にはお地蔵さんが祀られていらっしゃいます。地蔵堂の脇に三面地蔵供養碑が建っています。
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供養碑の石は経年劣化のために、彫られた文字も文様も定かには見えませんがうっすらと、名残が確認できます。前置きもなしにいきなりご紹介を始めましたが、供養碑には三面の仏像のお顔が彫られ、三面供養碑と揮毫されているといわれます。明治6年(1873年)6月、144年程前の出来事です。いわゆる筑前の竹槍騒動、竹槍一揆が起こったのです。その年は、異常な干ばつで雨が降らずに田植えもできない空梅雨のために、嘉麻郡高倉村(現在の飯塚市高倉)の住民たちは、根も葉もないうわさに惑わされ、大勢の農民たちは、暴動をおこし、暴徒化した農民たちは福岡県庁のある福岡城内にあった福岡県庁に向かうという事件が起きました。しかし、現在の下ノ橋にあった福岡城の大手門は閉ざされていて、農民たちは、県庁にはたどり着けず、仕方なく、大手門の門扉を竹槍や鎌などで引っ掻いたので、門扉には、群衆が竹やり、鎌などで引っ掻いたひっかき傷がが残っておりました。運の悪い時は重なるもので、当日、たまたま所要で福岡県庁へ向かっていた3名の大蔵省の役人は暴徒化した農民たちに囲まれ、問答無用と惨殺されてしまいました。その後、この松崎町界隈では火事が頻発したり疫病が流行ったりしたので、地域住民たちは、亡くなったお役人たちの祟りだと考える様になり、慰霊碑を建てることしました。事件後事情があって、事件後すぐには建てられずにしばらく年月を費やした後供養碑が建てられ、、ねんごろな供養が催されたようです。その後、火事の発生もなく、疫病も治まった模様です。こういった伝聞話は時代が新しくなっていくにつれ,だんだんと薄らいでしまうように思われます。過去のブログリスト(ここをクリック下さい)