今のご祭神は大国主命さま・事代主命さま、そして小生も良く拝ませていただき、
そして(大変失礼な言い方で申し訳ないのですが・・・)大好きな少名彦命さまです。
ただ、真鶴半島の海縁の港脇にいにしえの頃から鎮座されていることから、
古来、海からの漂流物=海から寄り来る神
(昔は海が外から新しいものが伝わってくる唯一の窓なので)
を奉った古き神のお社だったのではないでしょうか。
当然、海の神さまとしての信仰が厚く、
海で生計を立てていられる漁業関係者の方々や、
海に関わる方々の厚い崇敬が今でもなされています。
元々、真鶴から伊豆東海岸にかけての相模湾は、
鎌倉時代以前から「海人=海賊衆=水軍」と言われる、
日本の海の民の方々のふるさとの一つですから、
何世代にもわたって崇敬されていること自体が御利益も大きな神社様の証拠です。
江戸期に入っては名石伊豆石を各地へ海上輸送する廻船業が主たる生業となった真鶴では、
「板子一枚下は地獄」の船生業に必ず「沈み」扱いを誤れば「死」につながる大石を運ぶ、
当時でも危険な仕事で生計を立てていたので、
神仏のご加護は欠かせないものであったでしょう。
話はちょっと逸れますが紀州の「雑賀衆」と言えば、
あの織田信長に堂々と逆らった雑賀水軍の方々の事ですが、
明治の御代になってその末裔の方が横須賀の地に呉服店を開きました。
そう、後のあの「さいか屋」です。
「雑賀」=「さいか」屋なのです。
きっと、ご先祖様が活躍された相模の海縁の街に、その後続々とお店を出されたのも、
何かのご因縁でしょうか。
2月のお天気の良い日、このお社にお詣りに伺いました。
お社は港を見下ろす岬の上に鎮座なされいるので、
お社までは長い大石段を上ります。

この大石段、なんと人の子の煩悩の数と同じ百八つあるとのことです。
その石段脇にずらっと並んだ大きな石灯籠は今上天皇様ご即位の時、崇敬者の方々の御寄進で建立されたとのことで、
このお社が氏子の皆様からの深い崇敬をいまでも集めていることがわかります。
息を切らして大石段を上り終えると拝殿と本殿、
末社と「貴船祭り」模型船の展示屋、
そして海上渡御なされる御神輿を治めた神輿舎、
そして社務所の建つ広い敷地が広がります。
ここからは真鶴の昔からの港街が見渡せます。

港から駅へ続く道に沿って、
ひしめくように家並みが続いています。
この景観からも貴船神社さまのお社が、
かなり高いところにあることがわかると思います。
2月の中頃なので、まだ境内には色合いのある花などは見当たらないと思っていると・・。

満開となれば相模灘の青とのコントラストは見応えがあるのではと。
そして、大石段が始まる鳥居脇には・・・。
