花巻駅に到着して、最初に感じた印象は「花巻駅ってこんなに小さかったっけ・・」でした。
たまたま、駅舎側のホームにポツンと釜石線のローカルキハが一両とまっていたので、
なおさら、閑散とした風景に見えたのでしょうが、新幹線の駅が在来線駅と共に無いと、
火が消えたようになってしまうのは、この街だけではないと・・。
現に改札を出て駅前広場に出るとこぢんまりとはしていますが、
近代的なロータリーがあり、数台のタクシーが常駐していますが人影はまばらです。
もっとも、寒いのでみんな駅舎の待合室へ入ってしまっているせいかもしれませんが。
親族との待ち合わせには今少し時間がありましたので、
手持ちぶさたに見えた運転手さんと交渉し、
タクシーをチャーターして2時間ほど街を案内してもらいました。
さすがに宮沢賢治(恐れ多いですが敬称略)、ゆかりの街とは存じておりましたが、
今まで、所用でしか訪れたことの無い花巻の街でしたので、
とても興味深かったです!
で、最初に運転手さんが案内してくれたのがこれ↓

この電車、旧花巻町役場のレトロな建物の脇に写真のように屋根付きフェンスに囲まれて保存されています。
たしか、読者様のところで現役時代の写真を拝見したと思いますが、
まさか、実物にお目にかかれるとは思いませんでした。
この次に後で出てくる賢治先生のお墓がある日蓮宗身照寺さまへ向かったのですが、
道々、「この道路の脇に電車が走ってましたよ」と廃線跡まで解説していただいて、
うれしさ二重でした。
時系列は逆になりますが、花巻市街を流れるこの川が東北の大河として有名な北上川です。

賢治先生が当時、農学校の教え子達と夏休みに化石採集をして過ごした、
賢治先生命名の「イギリス海岸」です。
今年は水量が少ないとのことで、いつもの年ならこんなに川底は覗いていないとのこと・・。
ここから車で10数分走ったところに賢治先生が教鞭を執っていた、
花巻農学校=現花巻農業高校内の羅須地人協会敷地に賢治先生が一人で暮らされていた、
宮澤家の別宅が今も保存されています。

賢治先生は亡くなられるまで終生独身を通されて、
このお宅に住まわれて農住生活をなされたとのことです。


大きく掲げられ今でも「賢治イズム」が花巻の人々の心のよりどころとなっていることがわかります。

この手作りの黒板に記されたこの一言が映されるので、
読者の皆様も目にしたことがあると思います。
一人住まいなので居宅を留守にする際、来客に対しての心遣いから、
記されていたようなのですが、元、この居宅が立っていた場所に案内されて、
やっとその意味がわかりました。

松が植わっている北上川河岸段丘上の宮澤家別宅敷地に建てられていたので、
「下の畑」つまり写真中央の川縁にあった畑で賢治先生が畑仕事をしていれば、
賢治先生のお姿もお客人のお姿も目に入る指呼の距離なので、
お声かけしていただければお目にかかれます、と言うことだったようです。
賢治先生は、残念ながら早逝と言うにも早すぎる37歳で亡くなられました。
宮澤家の菩提寺の身照寺に葬られた後、
今に至るまでお墓にはお花が絶えたことはないそうです。


最後に電車から見た雪化粧した花巻の街の景色がとても印象的だったので、
撮影できる場所はないかとお願いすると、ここへ案内していただきました。
今では珍しくなった高い建物があまりない、懐かしささえ感じる街並み。
賢治先生の愛した花巻の街は都会の害毒にはうまい具合に毒されずに、
木訥として暖かみのある岩手の庶民の街の雰囲気をいまだに保っているようでした。
駅に戻り、お昼前、親族と合流してお役目を果たしに出かけました。
おしまい。