枕草子に出てくる人名(藤原以外) | 亀の勉強部屋

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子どもの頃病気で右耳が聞こえなくなりました。片耳だけで頑張って生きてきました。

岡本梨奈著「眠れないほど面白い『枕草子』」の本を読んで書いているが、著者が女性であるだけに文書がダラダラとして纏まりがない。内容を理解するのに苦労する。

文章は本のコピーじゃなく手元の電子辞書等で調べたもの。

 

 清少納言 

(「清」は本姓清原の略。「少納言」は宮中での呼称)平安中期の女房。元輔の女。中古36歌仙の一。本名未詳。和漢の学に通じた才女で、紫式部と並び称せられ、一条天皇の皇后定子に仕えて寵遇(ちょうぐう)を受けた。

大江維(おおえのこれ)(とき) 888-963 平安時代中期の公卿,学者。

仁和(にんな)4年生まれ。大江千古の3男。文章生(もんじょうしょう)から秀才となり,文章博士,大学(かみ),式部大輔(たいふ)などをへて,天暦(てんりゃく)4年(950)参議。9年従三位,天徳4年中納言にすすむ。撰国史所別当となり「新国史」を編修した。醍醐(だいご)天皇以下3代の侍読。応和3年6月7日死去。76歳。贈従二位。(あざな)は江二。通称は江納言。編著に「日観集」「千載佳句」など

 


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 紀貫之きのつらゆき 868ころ~945

 平安前期の歌人。三十六仙の一人。武内宿禰を祖とする名門紀氏は貫之の時代には藤原氏に押されて衰えており、官人としての栄達の道は困難であった。しかし一族やその周辺には、従兄弟の紀友則や紀長谷雄、紀有常、惟喬親王、在原業平などの有力歌人や漢詩文で名をなしたものがおり、後に歌壇の第一人者となる貫之の出発に大きく影響したと思われる。貫之の名は893年以前の《寛平御時后宮歌合》に登場しており。若くして高い評価を得ていたことが窺われる。905年には友則らとともに《古今和歌集》を撰進した。これを通じて貫之は歌壇の第一人者となり、その執筆といわれる〈仮名序〉は歌論。歌学の出発点として後代にも多大の影響を与えている。930年の土佐守に任ぜられ、任地で《新撰和歌集》を編纂した。935年に帰京。《土佐日記》を書いて仮名散文、日記文学に新しい道を開いた。《古今和歌集》以下の勅撰集に約450首入集。没後編纂された家集《貫之集》がある。

 則光(のりみつ) 965~?

平安時代中期の貴族。橘氏長者・中宮亮・橘敏政の長男。官位は従四位上・陸奥守。清少納言の夫として知られる。

 (のり)(なが) 982~1034

平安時代中期の貴族歌人陸奥守橘則光の子。官位正五位下越中守

 信方(のぶかた) ?~998

平安時代中期の貴族宇多源氏、六条左大臣源重信の子。官位従四位上右近衛中将

 

 (これ)(なか) 944~1005

諸大夫の父と郡司の娘との間に生まれ、幼少期は地方で育つが、その身一つで都に上り、勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩き、兼家・道隆・道長ら権力者に重用され、ついには従二位・中納言にまで上り詰めた。その出世は当時としては正に異例というべきものである。

 

 平兼盛 ?~990

平安中期の歌人。三十六歌仙の一。従五位上駿河守。家集「兼盛集」。

 

 清原(きよはら)(ふか)養父(やふ) 

平安時代中期の歌人貴族豊前介清原房則の子。官位従五位下内蔵大允中古三十六歌仙の一人。

 

 清原元(きよはらのもと)(すけ) 908990

平安中期の歌人。36歌仙の一。深養父の孫。清少納言の父。琴にも巧妙。従五位上、肥後守に至る。梨壺の5人の一人として後撰集を撰。家集「元輔集」。

 

NHKの大河ドラマ「光る君へ」を理解するために源氏物語や枕草子の本を買ってきて勉強している。

登場人物が多過ぎて物語の内容を理解するのが大変。

歴史ものは登場人物の名前や身分、立ち位置がわかりづらく、ドラマの内容を理解するのが大変。

ネットなどでネタバレとかやっているが、それをやると物語の展開が見えてきて興味が無くなってしまう。

そんなことしたら見る人がいなくなってしまうのでは、と思うが、それをやらないと物語の内容が難しすぎて疲れてしまう。そこでNHKさんは使用率を上げるためにわざとネタバレをやっているのだと思う。

でも、先が見えてしまうと続けてみる人が減ってしまい成績が下がってしまう。

中々視聴率が上がらないのでNHKさんは苦労しているようだ。

視聴率とは何だろう。

考えてみると、一般家庭で視聴率を調べる機械をつけてあるのを見たことがない。

それに機械をつけさせてくださいとお願いに来たこともない。

つまり、極一部の家庭で調査したものを全体の視聴率と解釈するしかない。

非常に不正確な物だ。

それに振り回されている放送局の人達は気の毒だ。

 

次回から文章に出てくる難解な

漢字を練習してみようと思う。