今回は室町幕府について書いてみる。
資料は手元にある電子辞書から拾ってきました。
初代 足利尊氏 1305~1358 在職 1338~1358
初め高氏。後醍醐天皇の1字を賜って尊氏と称した。元弘の乱に六波羅を陥れて建武新政のきっかけをつくったが、のち叛いて光明天皇を擁立し、征夷代将軍となり、室町幕府を開いた。
尊氏の3男。1349年叔父直義と執事高師直との間で争いとなり、尊氏は義詮を京によび直義に代わって政務をとらせた。そのため尊氏と直義の対立が激化、尊氏と義詮は直義を討つが、その後も直義の後を継いだ直冬や南朝勢力と合戦が繰り返され、1355年直冬党を京から退けた。1358年尊氏死去、義詮が征夷代将軍になると、有力守護が勢力争いを始め、また執事細川清氏らが離反するなど、混乱が生じた。1362年義詮は斯波義将を執事に任命、翌年には大内弘世・山名時氏が帰参し安定に向かったが、1367年病により家督を嫡子義満に譲った。(百科事典より)
南北朝内乱を統一し幕府の全盛を築く。明に入貢、勘合貿易を開く。北山に山荘を営み、金閣をつくる。法名、道有、のち道義。北山殿。
4代 足利義持 1386~1428 在職 1394~1423
義満の長子。父義満に将軍職を譲られたが実権はなく、その死後自ら政務をとる。
義持の子。将軍となったが夭折。
6代 足利義教 1394~1441 在職 1429~1441
義満の子。始め義円と称し、天台座主。兄義持の死後。還俗して将軍。権力強化につとめ、持氏の野心を抑えて鎌倉足利家を滅ぼしたが、嘉吉の乱で赤松満祐に殺された。
8歳で将軍。翌年病死。
義教の子。始め義成。弟義視を養子としたが、義尚が生まれるに及んで義視を疎んじ、応仁の乱の因をつくる。慈照寺(銀閣)を建て、芸術を愛好保護し、いわゆる東山文化を生んだ。東山殿。
義政の子。母は日野富子。近江の六角(佐々木)高頼討伐の陣中に没。
10代 足利義材(足利義稙) 1466~1523 在職1490~1493・1508~1521
足利義視の子。初名義材、後義尹・義植と改名。足利義尚の死後、日野富子に擁立され1490年将軍となる。1993年近江の六角氏、河内の畠山氏討伐に出陣中の逃亡。1508年周防の大内義興の援助で復職するが、前管領細川高国と対立、1521年淡路に出奔して再び将軍位を失った。その後阿波国撫養で客死。俗に〈流れ公方〉〈島公方〉と称された。(百科事典)
11代 足利義澄 1480~1511 在職1494~1505
政知の子。始め出家して清晃、のち細川政元に擁せられて還俗し、義遐・義高と改名。1508年(永正5)前将軍義稙に追われ、近江で没。
12代 足利義晴 1511~1550 在職 1521~1546
義澄の子。三好党が京都に横行して政令行われず、しばしば京都を逃れ、1546年(天文15)将軍職を子義輝に譲る。
13代 足利義輝 1536~1565 在職 1546~1565
吉晴の子。始め義藤と称す。三好・松永氏に圧迫され、松永久秀らに攻められて殺される。
14代 足利義栄 1538~1568 在職 1563~1568
義維の子。義澄の孫。阿波より摂津に入り、永禄11年(1568)2月将軍となったが9月織田信長が義昭を報じて入京して追われ、病没。
15代 足利義昭 1537~1597 在職 1568~1573
吉晴の子。興福寺一乗院門跡となり覚慶。還俗して初め義秋。織田信長に擁立されて将軍となったが、のち不和を生じ、1573年(天正1)京都を追われる。諸国を流浪、豊臣秀吉に保護され、大坂で没。
もっと詳しく書きたいところだが、編集するのが大変なのでこの程度にしておきます。