亀丸です。
私が20代のとき、ある40代男性から「最近、孔子とか、中国古典の良さがわかってきたんだよね」と言われたことがあります。
当時は年齢を重ねると年寄りじみた趣味になるのかなぐらいに思っていましたが、自分が40代になって『論語』を読むと、孔子先生のお言葉が胸に突き刺さります。ようやく気持ちがわかってきました。
亀丸.netで「腑に落ちる!孔子と易占」というシリーズを、今段階で5回目まで書きました。とりあえず10回目ぐらいでいったんまとめたいのですが、かなり時間をとられてしまっています。
最初「儒教と易占」というタイトルだったのですが、儒教じゃなくて孔子先生がいいんですよね。なので、タイトルを変えました。
文章が長いし、面白さが伝わりにくいかもしれませんが、ご関心がある方はぜひご一読ください。
<亀丸.net>
http://kamemaru.net/
5回目で、ようやく長い前フリが終わったように思っています。
『論語』について亀丸の独自解釈の感想文を書こうと思ってはじめたのですが、その前に孔子の基本説明をしておかないと伝わらないので、長々と書いてます。事前説明だけで疲れました。
でも、論語、いいんですよね。
冒頭の言葉から私の胸にグサリと突き刺さります。
「学びて時に之(これ)を習う。また説(よろこ)ばしからずや。
遠方より朋(とも)来ること有り、また楽しからずや。
人知らずして慍(うら)みず、また君子ならずや」
これが冒頭の言葉。
この一文目の「学びて時に之(これ)を習う。また説(よろこ)ばしからずや」が私の胸に刺さるんですよね。
「学びて」は普通に「学ぶ」、「習う」は「復習する」の意味です。
「学習」という日本語はこの言葉からきます。「学んで、復習する」ということです。
「説(よろこ)ぶ」は「喜ぶ」の意味です。ごんべんに兌(快楽)ですから、言葉の力で嬉しくなることです。
まとめて、「学んで、時には復習する。それが喜ばしくないことなどあろうか」と現代語訳されます。
私、この一文目がすごく深いと思うんです。グサリときます。
しかし、さまざまな解説書や他のブログを読んでいると、どうもこの文章の解釈が違っているんですよね。
例として、ひどいものを一つあげてみると。
某有名な大学の先生(教育学)が小学生向けに論語の解説書を書いていて、こんな風に説明されています。
「スポーツでも音楽でも算数でも、自分が毎日がんばってできるようになったときは、とてもうれしいですね。
学んで上達することは、恋愛したり、お金をもうけたり、美味しいものを食べたり、そんなことよりいちばんうれしいことだと、孔子先生は言っています。
そして自分がやったことを復習して、できなかったことができるようになるのも、とても楽しい、と孔子先生は言います。だって、それは上達していくことでしょう?」
いや。ちげーよ。
孔子はそんな親切な学校の先生みたいなことをいわないと思うんです。
小学生相手だといえ、この説明だとあまりに孔子先生の思いを削ぎ落としています。これは孔子の言葉じゃなくて、単なるどこかの学校の先生の言葉です。
この本だけの話じゃありません。
他の解説をみていても、日々学び、復習、練習していくことの大切さを説いているとか、学習(勉強)自体の楽しさを説いているとか、そういうことを書いているものが多い。
いや。微妙に違う。
それだと浅い。そんなお節介インストラクターみたいなことを孔子先生は言わないです。
これらの解説は、あまりに文字面しか読んでません。
確かに文字ではそう書いてあります。
でも、人間の言葉にはその裏に「感情」があります。その言葉を吐くに至ったその人の「感情」を感じ取らなかったら意味がありません。
じゃあ、この言葉を亀丸はどう解釈するのか?
それを「腑に落ちる!孔子と易占06」以降に書いていこうと思います。それが書きたかったんです。
できれば今週中にまとめたいなと思っています。
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論語を解釈するのも、「占い」をやっているのも、私のなかではわりと似た作業をしている感があります。
わずかな言葉から相手の性格を推測して、その言葉の裏にある感情を感じ取る──そういうのがとっても好きなんです。
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※文中で取り上げた小学生向けの論語の本。
オファーがあったから書いた本なのでしょうが、著者のS先生は昔は原文の持つ「言葉の力」を大事にしようとする志があったような気がするんですけどね。
まあ、わかったうえであえて書いてらっしゃるのは、ところどころわかるんですが。