「家康公、御嫡男の信康様に切腹を命じられる」の段 「三河物語」より | 西尾浩史のブログ

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元kamekichihiroこと西尾浩史と申します
先祖の産土から採ったペンネームです
簡単な経歴を申し上げておきます
中部地方某県生まれ
学歴は以下の通りです
国立大学附属小学校、同中学校卒
地元高校進学後、国立大学卒業
経済学学士、土壌医
元金融機関職員です

桶狭間で今川義元公が討ち取られたあと、家康様は一旦は自決しようとなさりましたが菩提寺の大樹寺のご住職に説得され、以来泰平の世を作るべく、まず三河の平定を始められましたのでした三河では丁度その頃から一向一揆が激しくなっていました

家康様は当初は一向衆が立て籠もっていた寺の周囲を囲む堀を「水攻め」して、できるだけ命を奪わずに鎮圧するように譜代衆に指図されましたが、事態は深刻で意外に手こずっておられました

厄介だったのは一向衆を操っていたのが吉良義諦で義諦が一門の松平家次や譜代衆の荒川義広、酒井忠尚等を引き込んで一向衆側に組みさせてしまったことでした

結局は家康様御自身が矢面に立って戦う羽目になり、その中で数多の血が流されてしまったのです

一向衆は家康様が「厭離穢土欣求浄土」の纏(まとい)を前に投降するよう説得を試みられても一切言うことを聞かず、最後には刀を交える結果となってしまったのでした

しばらくの間一向衆との戦いの日々が続きましたが、形勢の不利を読んだ惣領格の吉良義諦が突然詫びを入れてきたのです

こうして家康様の一向一揆鎮圧は一段落したのでした

その後間もなく、家康様は西之郡之城にいた鵜殿長持殿を討ち取られ、その嫡子の氏長様と氏次様を生かしたまま人質として取り、その引き渡しを条件に駿府にいた長男の信康様を岡崎に戻すことに成功されたのでした

その後は今川氏真の三河来襲をことごとく撃退し、東三河をほぼ手中にされたのです

永禄10年(1567年)5月に家康様の嫡男信康様と信長公の姫君五様との婚姻が成立し、ここに同盟関係がはっきりとした形になりました

家康殿の正室の築山殿は浜松城に移られた家康殿とは別に岡崎に残られ、嫡男の信康様と五徳様の間に生まれた姫君の面倒を見ておられました

その後長篠の戦いで家康様が武田勝頼殿を討ちくだされ、間もなく安土城に出向かれて、信長様に甲斐国を頂いたお礼に参前されたのでした

一方信康様はお家康様と共に遠州に残っていた今川方の残党の討伐に当たられました

大方の予想通り信康様は立派な若武者になられましたが、それでいて鎌倉の右大臣実朝様を彷彿とされる高貴なお顔立ちで、三河から遠州に至る在郷の女子衆から熱い視線を浴びていらっしゃいました

信康様は遠州の大井川まで敵陣を押しやった際、「ここまで来たならば、いっその事、駿河まで押しやるのみ。敵を深追いするなと申されるのなら、まず先に父上がお引きなされ。息子として親を差し置いて先に引くわけには参りませぬ」と勇ましくおっしゃられたのでした

家康様も「お前が先に引け」と何度も命じられたのですが、信康様は一向に引き上げようとされず、ついには家康様も根負けされてご自身が先に兵を引き上げられたのでした

ところが、この後間もなく天正五年の丑の年にお徳様が突然「十二箇条の御文」を父君の信長公に届けられたのです

結局母君築山殿と信康様の裏切りの疑いは晴れず、信長公は信康様に切腹されるよう命じられたのでした

文を持っていった酒井左衛門督殿が信長公の詰問に対し須く「確かでござる」と申されたのは甚だ納得の行かぬことではありましたが、結局家康様も「ここまでか。信長に恨みはない。身分に関わらず、我が子の可愛いいのは誰もが同じはず。だが酒井が総てに肯いたのでは今更申し開きようがあるまい。三郎を呼べ。言われた通り腹を切らそう」と振り絞るようにおっしゃったのです

その時、つかつかと平岩親吉七郎殿がお館さまの御前に歩み寄られて「某が信康様の身代わりになりましょう。拙者の首を信長様の元へお届けくだされ。信長公も人の子、別人のものと分かってもそれ以上は申されまい」と話されたのでした

家康様はその御姿を見て、「七郎の申し出は有り難く聞いておく。こんな話は未だかつてこの日本国の歴史にはない。だがここで信長に逆らえば吾までも殺されてしまう。そうなったら松平のご先祖様に詫びようがない。分かるか。されば、三郎を不憫ではあるが岡崎まで連れていくしかあるまい」と言い放たれたのです

こうして信康様は岡崎城から出立され、その後ずっと天方通綱殿と服部半蔵殿に伴わられ、ついには二俣城で自刃されたのでした

家康様がお亡くなりになる迄、我が子に腹を切らせた事を片時も忘るることが無かったのは改めて申すまでもござらぬかと・・

天正七年九月十五日、服部半蔵正成、天方山城守通経の両名検使として、二俣城に至り、信康を切腹せしむ。時に年、二十一歳也。伝育の任に当たりたる平岩七之助親吉と侍女榊原七郎右衛門の女と二人にて信康の遺髪を奉じ、江尻に来たり江浄寺に埋葬し、卬しの松を植え、小さき五輪の塔を建てしという.....(以下略)

「清水市中山江浄寺由緒書」より抜粋 

筆者注:天方山城守通経を検遣としたとありますが、三河物語では天方山城守通綱となっています