綺麗ごとだけど正しいのに | kame3ブログ~何時からブログで無くなったか

kame3ブログ~何時からブログで無くなったか

最近自分の方向性が分からなくなってきた

どうも、kame3です。

今回はねぇ、思いつきの悪魔とサイコロ振る対話ネタとかあったけどそれを無視して多くの人からすると頭沸いている...ネット社会の中でたまに出てくる変な奴レベルの話をしようと思います。

例えばなんだけど...一つの水槽の中に、千匹の魚がいる。種類とかの指定はなく、とりあえず食用ってだけで考えて。

もしその水槽の中に毒を入れるか、その魚を全部食べる。時間制限は無いし、どのような方法でもいいよ。人を呼んで協力してもらっても良いし、業者とかに買い取ってもらっても良い。と言うか、妄想の話なのでそれさえ選べば自動で処理できると言うことにしようか。

そして毒の方は...一滴垂らしたらその魚は全滅。食べれなくなるから処分されるだけ。別に貴方には何の罪にもならない。さて、どちらを選ぶのか。

別にどっち選んでも良いよ。まぁ普通の人は食べるなり売る方を選ぶかな、俺もそうするし。まぁそう言ったのも自分でやらないといけない、この二択の強制なら毒だけどさ。

じゃあ...この二択にもう一個の選択肢を足そうか。一人の見ず知らずの人間の死、これを選ぶと誰か知らない人が自動で殺される。そう言うのが好きな人は悪いけど、出来る限り普通の人が選ぶ物を選んでほしいよね。もし自分の中での一般常識が魚千匹の命の方が人間一人の価値を上回っているなら殺してもらっても良いけどさ。

とりあえず普通の人は魚の方を選ぶよな。で、これが言いたいことなんだけど...違いは何なのかな?

まずは魚を毒で殺すか最終的に食べるか。倫理観とかで言えば、食べる方が正しいと思うよ。弱肉強食の世界で殺しておいて食べないとかマナー違反だと思うし。しかしね...それって人間の考えだと思うんだ。

この千匹の魚は捕らえられた地点で死亡が確定していた。それだけであり、食べて貰えるなら自分が死亡する価値がある。そんな世界なのかなぁって。

もしも地球外に人を食べる種族がいて、それはもう一方的な捕獲行為をされて養殖なり天然物として食べられるとして...せめて高級品として扱ってくれと思わんもんなぁ。

kame3一人で100万円、高級料亭で数十グラム使うだけで何万円の料理の一部になりますと言うのと、kame3含む複数の人間。賞味期限間近なので2割引で300円となっていようが、その種族によって死亡していることには変わらないからな。

死亡の仕方が毒か斬撃がどうか程度、死んだら後はどうなろうが関係ないんだよ。

だからさ、正直いただきますも意味がわからない。命をいただきますから来ているけど、俺がこの言葉を使う意味はその命を使って料理を作ってくれた人に感謝をしている。食事を作ってくれた料理人にありがとうの代わりに言う言葉として聞こえる様に言っているようなもんだな。

いただきます言われたら成仏出来るシステムなんて無いからね。先ほども言った食人族に食べる直前に言われても命を奪った事を許さんし、踊り食いとか丸呑みされる前に『いただきます』なんて言われたら恐怖でしか無い。

だからさ、魚千匹の毒殺がもしニュースになったとしよう。そうして社会的に批判されるだろうけど、中には魚の命を何だと思っているんだと言う人が出てくるかもしれない。でも本心で思っていることは魚一匹辺りの経済効果と食べる事によってどれだけの人がその魚を味わえたのかであって、魚自体の命は批判するための材料でしか無いんだよ。

そして人一人と魚千匹の違いがないことについて。これは良くある言い方をすれば、同じ命なのに何故扱いに差があるのか~とかだろうけど、そんなの全体数と生産数と弱肉強食だから当然だよな。

人間は魚を大量に捕まえる術を手に入れた、だから魚は人間より下の立場になる。そんなの当然だ。熊だって、個で戦えば向こうが上だから丸腰の人を襲う権利がある。対して人間は熊を倒すための武器を持っているから非力でありながらも倒す権利がある。だからそれによって殺されるのは互いに当然、自分が被害者になるのはゴメンだけどな。

では、何故人と魚の命の違いについて疑問を持つのか。それはさ、人の命の扱いについてなんだよ。

社会が形成された、故にリーダーとなる人物が現れて大小の組織が形成されてその組織の中でも外でも上下関係があり、組織に属さない者も現れて...その中で一人の人間が殺された。そして動機はどうであれ、社会的に制裁がくだされる。

それが普通だけど、多種族に対しては弱肉強食でありながら、自分達の中ではそれを許さないんだなぁって。そりゃ共喰いとかは種族によっては暗黙の了解として存在するだろうし、それによって俺も守られているけど....この境界が良くわかんないんだよね。

基本的に殺しはご法度で、やり過ぎると死刑とされる訳だがネットの意見では別に人を殺したわけでも無い、自分が直接、間接的にも迷惑を受けた訳でも無いのに死ねと言う言葉が出てくる。そして自分が殺すと殺害予告、実行には至らず脅迫罪で逮捕される人も現れると。

そして救いようの無い悪人を殺害しました、これは歴史的英雄だからな。伊藤博文の殺害事件が向こうの国では殺人犯は英雄として未だに扱われているなんて有名な話だ。では、自分の子供が殺されました。その人を自分で報復の為に殺しました、これは駄目という世の中。社会的に許されないけど、もし国の住人を対象とした多数決で決めたら割と許すが集まりそうだけどね。

そして何が言いたいのか...文章何度か消して書いてを繰り返した結論、人は殺人についてもっと無頓着になるべきだ。

別に警察までそうなれとか思ってはいないよ。だがな、自分にとって見ず知らずの人が見ず知らずの人を殺して懲役十何年と聞いて..親族なら死刑にしろと思うのは分かる。知り合いでも関係性次第ではそう思うかもしれない。だがもし隣の家の人がそうなったとしたら...俺の考えはね、『自分の家でなくて良かった』なんだよね。

これ、実際に遭遇した訳でも無いしあったとしても表には言えないけど大半はこう思うよね。だって、家が隣なだけで他人事だもの。

それなのにネットなりテレビなりで知っただけの他人が、殺人犯は死刑にするべき。この安直具合が嫌いなんだよねぇ。どうせ犯人の名前が炎上している案件になっているから、自分もその犯人を叩くだけの大義名分に使っているだけだろ?そんなの、別に何も言う必要はないんだよ。

最近だと正月に波にさらわれて死亡したユーチューバーの死を動画でネタにしてわざと炎上にさせたユーチューバーがいたけど、それってそのユーチューバーが有名でファンが多かったから炎上したけど全然名前も知られてない人の死なら、『その人の死をネタにしたから』ではなく『人の死をネタにしたから』ってので小規模な炎上になるんだろうなと。そんな事ネタにしなければ良いのに...って思うよね。

あとはX JAPANのメンバー自殺した時に後追い自殺するとか...魚の優劣は希少価値と値段、だけどその死は当然である。人の死は認知率と関係性、偉業にある。それによって人は反応が変わる。

死を悲しみながら、今日も自分が食べられないと言う認識のもと生きて、他の命をいただきますの言葉と共に奪っていく。本当、変なシステムだ。以上