私達は最上町の馬頭観音寺で絵馬を見学した後に国道457号線を下って尾花沢市市街地に向かいました。目的は「芭蕉、清風歴史資料館」を見学する事でした。鈴木清風は「紅花大尽」と呼ばれた豪商で、芭蕉とも親交のあった俳人であるが、本業は「島田屋」という商家の三代目で”紅花大尽”と呼ばれる程の豪商でした。
尾花沢の国道交差点にある「芭蕉、清風歴史資料館」前面は清風の住居で
後ろに紅花を商う「島田屋」の店舗を移築してあります。
「芭蕉、清風歴史資料館」は清風の住居の裏に島田屋の店舗を移築して全体を奥の細道と紅花の流通を紹介する「博物館+文学館」にした様な資料館です。私達の様に文学にも民俗にも興味のある人にとっては嬉しい資料館です。奥に展示してある「紅花絵巻物」は興味深かったのでした。
「芭蕉、清風歴史資料館」に展示してあった屏風、上部に酒田港下部左に島田屋の店舗、
下部右に紅花栽培と紅抽出の作業を描いてありました。
「芭蕉、清風歴史資料館」の土間から観た資料館囲炉裏の壁には小松均風の奥の細道の絵が墨で描かれていました。
元禄11年の夏、紅花の商いに江戸に上った清風を、江戸の商人たちは、清風を田舎商人と甘く見て”不買同盟”を結んで妨害した。それに対し清風は智略でこれを突破、三万両の利益を得た。「尋常の商売で得た金ではない、きれいさっぱり使い切る。」と言って、吉原の大門を3日3晩閉め切って遊女達に休養を与えた-----。と言う豪気な逸話等が展示されていました。
絵巻物から物語の主要部を展示して在りました。紅花大尽は江戸と尾花沢で紅花を商った豪商でした。この後江戸の商人が不買同盟を結んで紅花の不買を約束します。清風は品川沖の紅花舟を焼いてしまいます。結果紅花の需給関係は崩れて紅花の価格は急騰します。清風は3万両の利益を得ます。でも清風は紅花のお客様であった遊女に3日間の休暇を与えて、評価を高めました。
現在の紅花は山形の観光資源になって居ます
山形の「花笠まつり」も花笠音頭も観光資源です
私達は芭蕉、清風歴史資料館を後にして車で5分程の位置にある「養泉寺」に上りました。養泉寺は鈴木清風の菩提寺であって芭蕉の句碑が境内にあるのでした。
此れが尾花沢の養泉寺です。芭蕉時代の本堂は消失お堂の様な本堂がありました。
尾花沢の養泉寺の本堂右手前に在った芭蕉句碑「涼し塚」と呼ばれています。
尾花沢で芭蕉は7日間逗留します。居心地が良かったのでしょう
柴崎路水と鈴木素州が宝暦12年(1762年)に建てた「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑がある。これが「涼し塚」で、隣に「壷中居士」を刻む石碑が建っていました。壷中居士は芭哲の一人で山寺の句碑も建てています。芭蕉は盆地の尾花沢の暑さに懲りたのでしょう、山風に涼を感じてこの句を吟じたのでしょう。私達は日も沈んで来たので銀山温泉で入浴して宿に向かう事にしました。 【了】